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第二章 EP08 退職届

アヤスは、何も言わなかった。


磯辺コウゾウの身元が確定したと聞いたあと、彼女は取調室の椅子から静かに立ち上がった。

泣きもしなかった。

怒りもしなかった。

ただ、机の上に置かれた紙コップの水を見た。

水は、ほとんど減っていなかった。


ボス「病院へ行きますか」


アヤスは、小さくうなずいた。


ヤス「送ります」

アヤス「……大丈夫です」

ヤス「でも」

アヤス「大丈夫です」


二度目の声は、一度目よりも小さかった。

それでも、そこには拒む力だけが残っていた。


ボスは、取調室の外にいた警察官を呼んだ。


ボス「病院まで同行してください」

警察官「分かりました」


アヤスは、扉の前で一度だけ振り返った。


アヤス「犬のヤスは」

ヤス「ぼくが見ています」

アヤス「お願いします」


それだけ言って、アヤスは取調室を出ていった。

扉が閉まる音は、いつもより少し重く聞こえた。


取調室には、ボスとヤスだけが残った。


ヤス「病院って、どこですかね」

ボス「遺体安置所だ」

ヤス「……そうですよね」


ヤスは、何かを言いかけてやめた。

言葉にしてしまうと、アヤスの背中を追いかけることになる気がした。


ボスは、机の上の資料を閉じた。


ボス「安藤から追加報告が来ている」

ヤス「科学捜査班の安藤さんですか」

ボス「ああ」

ヤス「ヤストウさんじゃない方ですね」

ボス「二度と言うな」

ヤス「はい」


ボスは資料の一枚をヤスに渡した。

紙には、コウゾウ屋敷の見取り図と、赤い丸がいくつかついていた。


ヤス「これは」

ボス「屋敷の損傷が大きかった場所だ」

ヤス「事故じゃないんですか」

ボス「事故だけでは説明しにくいらしい」


ヤスは、見取り図を見た。

玄関。

台所。

廊下。

そして、奥の部屋。


赤い丸は、床の近くに多かった。


ヤス「床下ですか」

ボス「そう見える」

ヤス「地下迷宮」

ボス「違う」

ヤス「でも、床下です」

ボス「床下だ」

ヤス「地下迷宮では」

ボス「ない」


ボスは、別の資料を指で叩いた。


ボス「今は入れない。崩落の危険がある」

ヤス「昨日も言ってましたね」

ボス「補強が終わるまで、現場は封鎖だ」

ヤス「じゃあ、誰かが先に入っていたら」

ボス「それを調べる」


ヤスは、息を止めた。


ボス「防犯カメラも確認中だ」

ヤス「映ってたんですか」

ボス「屋敷そのものを映していたカメラはない。だが、近くの道にはある」

ヤス「そこに」

ボス「俺たちが現場を離れたあと、屋敷の方へ向かう人影がある」


ヤスは、資料の文字を追った。

時刻。

雨。

傘。

不鮮明な人影。


ヤス「顔は」

ボス「分からない」

ヤス「服装は」

ボス「雨具。背格好もはっきりしない」

ヤス「じゃあ、まだ誰か分からないんですね」

ボス「分からない。だが、誰もいなかったわけではない」


取調室の空気が、少しずつ冷えていった。


小宮末広は、犯人ではなかった。

コウゾウの屋敷は、事故ではないかもしれなかった。

床下には、空白があった。

そして、ボスたちが去ったあとに、誰かがそこへ向かっていた。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「これ、解決してませんね」

ボス「最初からしていない」

ヤス「でも、書類の上では」

ボス「書類の上だけだ」


ボスは資料をまとめ、立ち上がった。


ボス「刑事部屋に戻るぞ」

ヤス「はい」





刑事部屋は、妙に静かだった。


課長の席は空いていた。

謹慎中のため、当然といえば当然だった。

それでも、その空席はいつもより少しだけ広く見えた。


ヤス「課長、いないと静かですね」

ボス「いる時も大して騒がしくない」

ヤス「存在感ですかね」

ボス「不在感だ」

ヤス「ひどい」


ヤスは、自分の席へ向かおうとして、足を止めた。


刑事部屋の奥。

ヤス田刑事の机の上に、白い封筒が置かれていた。


ヤス「ボス」

ボス「ああ」


ボスも、それを見ていた。


封筒の表には、短く文字が書かれていた。

挿絵(By みてみん)

退職届。


その三文字だけが、机の上で妙に大きく見えた。


ヤス「退職届って、机の上に置くものなんですか」

ボス「普通は置かない」

ヤス「じゃあ、これは」

ボス「見せるために置いている」


ボスは封筒には触れず、机の周りを見た。


ヤス田刑事の机は、いつもより片づいていた。

片づいている、というより、消えていた。

ペン立ては空になっている。

机の引き出しは少し開いていた。

中には、何も入っていなかった。


ヤス「私物、ないですね」

ボス「持っていったんだろう」

ヤス「退職するから?」

ボス「逃げる人間は、そうする」


ヤスは、言葉を飲んだ。


逃げる。


その言葉は、取調室で聞いたアヤスの言葉と重なった。


祖父は、誰かを逃がしたと言いました。


ヤス「ヤス田さんが、逃げたんですか」

ボス「まだ分からん」

ヤス「でも、退職届」

ボス「退職届は、退職した証拠ではない」

ヤス「じゃあ何ですか」

ボス「退職したように見せたい証拠だ」


ボスは、手帳を開いた。

古い鉛筆を取り出し、芯の先を少しだけ舐めた。


ヤス「ボス、それ今必要ですか」

ボス「必要だ」

ヤス「何にですか」

ボス「落ち着く」

ヤス「落ち着く方法、古すぎませんか」

ボス「黙れ」


ボスは手帳に短く何かを書いた。


ヤス田。

退職届。

私物なし。

防犯カメラ。

屋敷後。


ヤスは、その文字を横から見た。


ヤス「ヤス田さんが、コウゾウさんの屋敷に行ったんですか」

ボス「まだ決めるな」

ヤス「でも、ヤス田さんが消えて、屋敷には誰かが行ってて、退職届があって」

ボス「決めるなと言っている」


ボスの声は、いつもより低かった。


ヤスは口を閉じた。


ボスは机の端に視線を落とした。

封筒の下ではなく、机の右奥。

そこだけ、埃の色が違っていた。

何か小さなものが、長い間そこに置かれていたような跡だった。


ヤス「何かありました?」

ボス「跡がある」

ヤス「跡?」

ボス「ここに何か置いていた」


ヤスは身を乗り出した。

机の角には、薄い四角い跡が残っていた。

写真立てか、小さなメモ帳か、古い端末か。

今はもう、ない。


ヤス「持っていったんですね」

ボス「そうだろうな」

ヤス「大事なものですか」

ボス「逃げる人間が持っていくものは、大体大事だ」


その時、別の刑事が声をかけてきた。


刑事「鈴木さん」

ボス「何だ」

刑事「ヤス田さん、今朝から連絡がつきません。携帯も出ません」

ボス「自宅は」

刑事「確認中です」

ボス「駅、防犯カメラ、タクシー、宿泊施設。全部あたれ」

刑事「分かりました」


刑事が走っていった。


ヤスは、退職届を見た。

白い封筒は、動かない。

まるで、そこに置かれた理由を知っているようだった。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「ヤス田さん、逃げたんですか」


ボスは、退職届から目を離さなかった。


ボス「まだ、そうとは決まっていない」

ヤス「でも」

ボス「だから、決まっていない」


ヤス「ヤス田さんを」

ボス「ああ」


ヤスは、少しだけ変な顔をした。


ボス「何だ」

ヤス「ヤスが、ヤス田さんを追うんですね」

ボス「そうだ」

ヤス「つまり、ヤスがヤスを」

ボス「言うな」

ヤス「はい」


ボスは封筒を見た。

それから、刑事部屋の窓へ視線を向けた。


雨は、まだ降っていた。


小宮末広は、犯人ではなかった。

磯辺コウゾウは、死んだ。

床下には、まだ入れない。

そして、ヤス田刑事は消えた。


事件は、また一つ名前を増やした。


退職届は、辞めるためではなく、逃げるために置かれたように見えた。


次回、第二章 EP09「ヤスが思い出したこと」。

消えたボスを追うヤスは、忘れていたはずの名前と場所にたどり着きます。

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