第二章 EP07 床下の空白
翌朝、署の廊下はいつもより静かだった。
課長の席は空いている。
机の上には、昨日から置かれたままの書類だけが残っていた。
ヤスはその前を通り過ぎ、取調室の前で足を止めた。
中に、西小路アヤスがいた。
ヤス「……アヤスさん?」
アヤスは昨日と同じ黒いスーツを着ていた。
ただ、昨日とは違う顔をしていた。
眠っていない人間の顔だった。
目元には、泣いたあとが残っている。
それでも背筋だけは、まっすぐだった。
ボス「誰が通した」
近くにいた若い警察官が、気まずそうに頭を下げた。
警察官「ご本人が、どうしても話したいと」
ボスは短く息を吐いた。
それから、取調室の中へ入った。
ヤスも続いた。
取調室には、アヤスの前に湯飲みが置かれていた。
中身はほとんど減っていない。
湯気だけが、もう薄くなっている。
ボス「昨日は休めましたか」
アヤス「休めると思いますか」
ボス「思いません」
アヤス「なら、聞かないでください」
声は冷たかった。
けれど、昨日の冷たさとは違っていた。
守るための冷たさではない。
壊れたものを、形だけ保つための声だった。
ヤス「犬のヤスは、ぼくが預かってます」
アヤス「……ありがとうございます」
ヤス「朝ごはん、ちゃんと食べました」
アヤス「そうですか」
ヤス「ぼくの朝ごはんも、少し食べられました」
ボス「それは取られただけだ」
ヤス「分け合いました」
アヤスは笑わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
アヤス「犬のヤスは、祖父が拾ってきた犬です」
ヤス「拾ったんですか」
アヤス「雨の日でした。祖父は、濡れた犬を放っておけない人でした」
ボス「だから、書類も放っておけなかった」
アヤスは顔を上げた。
その目には、眠気ではない濁りがあった。
アヤス「そうかもしれません」
ボス「話したいことがあると聞きました」
アヤス「はい」
ボス「昨日の続きですか」
アヤス「昨日より、少し前の話です」
取調室の蛍光灯が、低く鳴っていた。
外の廊下を誰かが歩く音がして、すぐに消えた。
アヤス「祖父は、小宮さんが犯人ではないことを、たぶん分かっていました」
ヤス「やっぱり」
ボス「なぜ、そう思う」
アヤス「祖父は、小宮さんの名前が出るたびに、黙りました」
ボス「黙っただけか」
アヤス「祖父は、嘘をつく時より、言えない時の方が黙る人でした」
ボスは何も言わなかった。
ヤスはメモを取る手を止めた。
アヤス「私は、祖父に聞きました。小宮さんは本当に佐々木さんを殺したのか、と」
ボス「コウゾウさんは何と」
アヤス「答えませんでした」
ヤス「答えなかったんですか」
アヤス「はい」
ボス「それだけで、小宮は犯人ではないと?」
アヤス「違います」
アヤスは、湯飲みを見た。
手を伸ばしはしなかった。
アヤス「祖父は、そのあと言いました」
ボス「何と」
アヤス「“あの人は、残されたんや”と」
ヤス「残された」
アヤス「それ以上は、言いませんでした」
ボスの目が細くなった。
ボス「犯人にされた、ではなく、残された」
アヤス「はい」
ヤス「どういう意味ですか」
ボス「小宮は逃げる人間だった。だが、逃げ切れなかった」
アヤス「逃げ切れなかったのか、逃がしてもらえなかったのかは分かりません」
アヤスの声は淡々としていた。
淡々としているほど、中にあるものが重く聞こえた。
アヤス「私は、その時も見ないふりをしました」
ヤス「どうしてですか」
アヤス「怖かったからです」
ボス「誰が」
アヤス「祖父が殺されることが」
ヤスは、何も書けなかった。
アヤス「小宮さんが犯人ではないと、祖父が知っている。そう言えば、祖父まで巻き込まれると思いました」
ボス「だから黙った」
アヤス「はい」
ヤス「でも」
アヤス「分かっています」
ヤスは黙った。
アヤスは続けた。
アヤス「言わなかったから、小宮さんは死にました」
ボス「君のせいではない」
アヤス「そう言われても、変わりません」
取調室の空気が、少しだけ重くなった。
昨日の雨が、まだ部屋の隅に残っているようだった。
ボス「コウゾウさんが十年前に誰かを逃がした、という話」
アヤス「そこまでは、本当に知りません」
ボス「今なら話す気がある、ということではないのか」
アヤス「知っていれば、話しています」
ヤス「本当に?」
アヤスはヤスを見た。
アヤス「祖父が、あんなことになったんです」
ヤス「……すみません」
アヤス「謝らないでください。謝られると、何かが終わったみたいになります」
ヤスは、また黙った。
ボス「十年前、コウゾウさんが書類を預かった相手は」
アヤス「分かりません」
ボス「佐々木キミヤスか」
アヤス「可能性はあります」
ボス「小宮末広か」
アヤス「それも、あります」
ボス「他には」
アヤス「ローン山側の人間かもしれません」
ヤス「敵から預かったんですか」
アヤス「敵か味方かなんて、十年経てば変わります」
ボスは机の上で指を組んだ。
アヤスは、その手を見ていた。
アヤス「祖父は、書類を隠していました」
ボス「屋敷のどこに」
アヤス「分かりません」
ヤス「昨日の封筒以外にも?」
アヤス「あると思います」
ボス「なぜそう思う」
アヤス「祖父は、全部を一か所に置く人ではありませんでした」
ヤス「賢いですね」
アヤス「臆病だったんです」
その時、ボスの携帯が震えた。
表示には、安藤フミ子の名前があった。
ボス「鈴木です」
電話の向こうは、静かだった。
昨日の現場のような騒がしさはない。
ただ、紙をめくる音が聞こえた。
安藤「科学捜査班の安藤です。今、よろしいですか」
ボス「どうぞ」
安藤「遺体の身元が確認されました」
ボスは、アヤスを見た。
アヤスは、表情を変えなかった。
安藤「磯辺コウゾウさんで間違いありません」
取調室の中で、誰もすぐには声を出さなかった。
アヤスは目を閉じた。
それだけだった。
ボス「続けてください」
安藤「それと、屋敷付近の防犯カメラを確認しました」
ボス「何か映っていたか」
安藤「前日深夜、屋敷の裏手に人影があります」
ヤス「人影」
安藤「顔は見えません。雨と角度で潰れています」
ボス「時間は」
安藤「昨日、ボスたちが屋敷を出たあとです」
ヤス「爆発の直前じゃないんですね」
安藤「はい。かなり時間があります」
ボスは、机の上に視線を落とした。
ボス「時間差か」
安藤「その可能性はあります。ただ、まだ断定はできません」
ヤス「でも、昨日、誰かが来てたんですよね」
安藤「はい」
ボス「他には」
安藤「もう一つあります」
電話の向こうで、安藤が短く息を吸った。
安藤「床下に空間があります」
ヤス「地下迷宮ですか」
安藤「床下の空間です」
ヤス「でも、空間があって、入れない感じなら、かなり迷宮寄りでは」
安藤「入れません」
ヤス「入れない地下迷宮」
ボス「黙ってろ」
アヤスが、初めて小さく息を漏らした。
笑ったのではない。
けれど、ほんの少しだけ、呼吸が戻ったように見えた。
ボス「入れない理由は」
安藤「崩落の危険があります。昨日の損壊で、床下の構造もかなり傷んでいます」
ボス「安全確認後か」
安藤「はい。ただ、時間はかかると思います」
ヤス「床下に何があるんですか」
安藤「それを確認するために、入る必要があります」
ヤス「ですよね」
ボス「安藤さん」
安藤「はい」
ボス「昨日の火元と、その床下の空間は関係していると思うか」
安藤「現時点では分かりません。ただ、偶然で片づけるには、少し気持ちが悪いです」
ボス「十分です。引き続きお願いします」
安藤「分かりました」
通話が切れた。
取調室の中に、床下という言葉だけが残った。
誰も入れない場所。
昨日まで見えていなかった場所。
壊れたことで、ようやく見えた場所。
ヤス「床下の空白……」
ボス「何だ」
ヤス「いえ。なんか、そういうタイトルっぽいなと」
ボス「事件にタイトルをつけるな」
アヤスは、机の上の湯飲みに手を伸ばした。
もう冷めていた。
それでも、少しだけ口をつけた。
アヤス「祖父は、屋敷の下を触らせませんでした」
ボス「知っていたのか」
アヤス「知っていた、とは言えません。ただ、子どもの頃に一度だけ、床下に近づいて怒られました」
ヤス「地下迷宮だから」
ボス「違う」
アヤス「祖父は、本気で怒っていました」
ボス「何と言われた」
アヤス「そこは、家の下じゃない。昔の下や、と」
ヤス「昔の下」
アヤス「意味は分かりませんでした」
ボスは立ち上がった。
椅子の足が、床に小さく音を立てた。
ボス「今日はここまでにしましょう」
アヤス「まだ話せます」
ボス「話せることと、話していい状態は違います」
ヤス「犬のヤスも、たぶん待ってます」
アヤスは少しだけ、ヤスを見た。
アヤス「犬のヤスは、あなたに懐きましたね」
ヤス「ぼくも、少しびっくりしています」
ボス「名前が同じだからだろう」
ヤス「それならヤス田さんにも懐きます」
ボス「余計なことを言うな」
アヤスは、また目を伏せた。
ヤス田、という名前に反応したのか。
それとも、ただ疲れていただけなのか。
ボスには分からなかった。
取調室を出る時、アヤスは一度だけ振り返った。
アヤス「祖父は、誰かを逃がしたと言いました」
ボス「ああ」
アヤス「でも、逃がした人を守りたかったのか、逃がしたことを後悔していたのか」
ボス「分からないか」
アヤス「分かりません」
アヤスは、扉の前で足を止めた。
アヤス「ただ、祖父はずっと、何かを待っていました」
ヤス「何をですか」
アヤス「分かりません」
アヤス「でも、昨日まで待っていたものは、もう来ません」
扉が閉まった。
取調室には、ボスとヤスだけが残った。
机の上には、冷めた湯飲みの跡が丸く残っている。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「床下の空白って、やっぱり地下迷宮ですよね」
ボス「違う」
ヤス「でも、昔の下です」
ボス「黙れ」
ボスは、閉じた扉を見た。
アヤスの言葉。
安藤の報告。
前日深夜の人影。
そして、入れない床下。
事件は、上から見える場所だけでは終わらない。
壊れた屋敷の下に、まだ誰も触れない空白があった。
次回、第二章 EP08「退職届」。
床下の空白が開いた時、ひとりの刑事は黙って署を去ろうとしていました。




