表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/37

第二章 EP06 壊れた屋敷

車の中で、誰も話さなかった。

ヤスは運転席で、前だけを見ていた。

ボスは助手席で、携帯を握ったまま黙っていた。

後部座席のアヤスは、窓の外を見ていた。

雨は、弱くなっていた。

それでも、空は暗かった。

ヤスは、ラジオをつけようとはしなかった。


花隈方面へ近づくにつれて、道の端に赤い光が増えていった。

消防車。

パトカー。

規制線。

人の声。

雨に濡れたアスファルトの上で、赤色灯だけがやけに明るかった。


コウゾウの屋敷は、前に来た時とは別の建物のように見えた。

古い屋根の一部が崩れ、縁側のあたりが黒く焼けている。

壁は割れ、窓ガラスはほとんど残っていなかった。

雨の匂いに、焦げた木の匂いが混じっていた。


挿絵(By みてみん)

ヤス「……こうちゃんの家が」


アヤスは何も言わなかった。

車が止まるより先に、ドアへ手を伸ばしていた。


ボス「待て」

アヤス「どいてください」

ボス「まだ危ない」

アヤス「どいて」


声は震えていなかった。

だからこそ、壊れそうに聞こえた。


ボスが先に車を降りた。

ヤスも続いた。

アヤスは、規制線の前で足を止めた。

その向こうに、祖父の屋敷があった。


規制線の内側にいた警察官が、こちらに気づいて静かに歩いてきた。


警察官「鈴木さんですね」

ボス「状況は」

警察官「屋敷の一部が損壊。火はほぼ消えています。ただ、内部はまだ危険です」

ボス「コウゾウさんは」

警察官は、少しだけ視線を下げた。


警察官「奥の部屋で、男性の遺体が見つかりました」

アヤス「……」


ボス「身元は」

警察官「現在確認中です。ただ、状況から見て、磯辺コウゾウさんの可能性が高いと」


アヤスの息が止まった。

本当に、止まったように見えた。

次の瞬間、膝から崩れた。


アヤス「こうちゃん……」


その声は、雨の音に溶けた。

アヤスは濡れた地面に手をつき、そのまま動けなくなった。


アヤス「こうちゃん……こうちゃん……こうちゃん! こうちゃん!」


アヤス「こう……」


その先は、声にならなかった。


泣かない女は、壊れた屋敷の前で泣いた。


馬主でも、金の流れを知る女でもなかった。

そこにいたのは、祖父を失った孫だった。


ヤスは何も言えなかった。

ボスも、何も言わなかった。

言葉をかけるには、屋敷の壊れ方が大きすぎた。


規制線の向こうで、白い防護服の人影が動いていた。

焦げた柱の近くで、写真を撮っている者がいる。

床板の残骸に番号札を置いている者もいた。


一人の女性が、ボスたちに気づいて歩いてきた。

手袋を外しながら、軽く頭を下げる。


安藤「科学捜査班の安藤フミ子です」

ヤス「ヤストウさんですか?」

安藤「アンドウです」

ヤス「アンドウさん」

安藤「はい」


安藤は、すぐに表情を戻した。

現場を見る目だった。


安藤「詳しいことは、明日以降の検証になります。今は、建物の安全確認が先です」

ボス「事故か」

安藤「その判断は、まだできません」

ボス「できない、ということは」

安藤「事故と言い切れる材料も、まだありません」



ボス「火元は」

安藤「複数箇所を確認中です。ただ、生活動線とは少しずれています」

ヤス「生活動線」

安藤「普段、人が使う場所です」

ヤス「じゃあ、普段使わないところから」

安藤「まだ断定はできません」


安藤の声は冷静だった。

冷静すぎるほどだった。

だから、現場の異常だけが余計に目立った。


その時、屋敷の奥から小さな声がした。


「ワン」


ヤスが顔を上げた。

もう一度、かすれた声が聞こえた。


「ワン」


崩れた縁側の下から、泥だらけの犬が出てきた。

犬のヤスだった。

毛は濡れ、体は小さく震えている。

首輪は残っていた。

足には、泥と灰がついていた。


ヤス「ヤス……」


犬のヤスは、吠えなかった。

前に会った時のように、ヤスへ向かって吠えなかった。

ただ、ふらふらと歩いてきて、規制線の手前で止まった。


アヤスが顔を上げた。


アヤス「ヤス……」


犬のヤスは、アヤスを見た。

それから、ヤスを見た。

迷うように一歩動き、ヤスの足元へ来た。


ヤス「えっ」


犬のヤスは、ヤスの靴に体を寄せた。

震えたまま、そこから離れようとしなかった。


ヤス「ぼくに……来るんですか」


犬のヤスは答えなかった。

ただ、泥だらけの体を、ヤスの足に押しつけた。


ヤスはゆっくりしゃがんだ。

手を伸ばしていいのか迷った。

それでも、そっと頭に触れた。


犬のヤスは逃げなかった。


ヤス「大丈夫です」

ヤス「もう、大丈夫ですから」


その声は、誰に向けたものか分からなかった。

犬のヤスにか。

アヤスにか。

それとも、自分にか。


アヤスは、泣きながら犬のヤスを見ていた。

何かを言おうとして、声にならなかった。


ボスは、壊れた屋敷を見上げた。

焦げた木。

割れた壁。

雨に濡れた畳。

そして、まだ調べられていない奥の部屋。


ボス「安藤さん」

安藤「はい」

ボス「明日、詳しく見られるか」

安藤「安全確認が済めば。ただ、床下にも損傷があるようです」

ヤス「床下?」

安藤「今は近づけません。崩れる危険があります」

ボス「分かった」


安藤「外に逃げていたのかもしれません。あとで足跡も確認します」



ヤスが、犬のヤスを抱き寄せた。

犬のヤスは小さく鳴いた。



そのあと、ボスとヤスはアヤスを近くのホテルまで送った。

アヤスは最後まで、ほとんど話さなかった。

犬のヤスだけが、ヤスの膝の上で小さく震えていた。

犬のヤスは、その夜だけヤスが預かることになった。


彼らが現場を離れたあとも、雨はまた少し強くなっていた。

壊れた屋敷の屋根から、黒い水がぽたぽたと落ちている。


事故かどうかは、まだ分からない。

だが、ボスには一つだけ分かっていた。


これは、ただ壊れた屋敷ではない。


何かを壊すために、壊された屋敷だった。

次回、第二章 EP07「床下の空白」。

壊れた屋敷の下に、誰も見ようとしなかった十年前の空白が眠っていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ