表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
21/39

第二章 EP05 泣かない女

園田方面へ着くころには、雨は弱くなっていた。

ただ、空はまだ低い。

雲が競馬場の照明を押しつぶすように垂れこめている。

ヤスは運転席で、ワイパーの速度を一段落とした。


ヤス「ボス、園田です」

ボス「ああ」

ヤス「馬、いますかね」

ボス「今日は馬を見に来たんじゃない」

ヤス「そうでした。人間の金の流れを見に来たんでした」

ボス「言い方を考えろ」


待ち合わせ場所は、園田方面の古い事務所だった。

競馬場に近いが、派手さはない。

白い壁には細いひびが入り、入口の横には観葉植物が置かれている。

葉はよく手入れされていた。

だが、鉢の土は乾いていた。


受付の女性に名前を告げると、奥の部屋へ通された。

そこに、西小路アヤスはいた。


黒いスーツ。

細い眼鏡。

机の上には資料とタブレット。

壁際には、馬の写真が何枚か飾られていた。

どの写真にも、馬の名前より先に、金額が見えてくるような気がした。


挿絵(By みてみん)

アヤス「お待たせしました」

ボス「兵庫県警の鈴木です」

ヤス「真野ヤスヒロです」

アヤス「……ヤスヒロさん」

ヤス「はい」

アヤス「そうですか」

アヤスは、それ以上何も言わなかった。

けれど、ほんの一瞬だけ、ヤスの名札を見ていた。


アヤスは、それ以上何も言わなかった。

ヤスは少しだけ姿勢を正した。

自分の名前が何か悪いことをしたような顔だった。


アヤス「手短にお願いします。次の予定がありますので」

ボス「磯辺コウゾウさんの紹介で来ました」

アヤス「祖父から聞いています」

ヤス「こうちゃんさんですね」

ボス「コウゾウさんと呼びなさい」

ヤス「こうちゃん」

アヤス「祖父を、そう呼ぶ人は少ないです」


声は冷たい。

だが、怒っているわけではなかった。

ただ、感情を表に出さないようにしている。

そういう声だった。


ボス「小宮末広のことを聞きたい」

アヤス「小宮さん」

ボス「知っているな」

アヤス「名前くらいは」

ボス「名前だけか」

アヤス「刑事さんは、最初から答えを持っている聞き方をされるんですね」


アヤスはタブレットを伏せた。

画面が消え、部屋が少し暗くなった。


アヤス「小宮さんは、ローン山側の古い帳簿に名前がありました」

ヤス「帳簿」

アヤス「正確には、帳簿ではありません。写しです」

ボス「金の流れか」

アヤス「はい。表に出せない金の流れです」

ヤス「出せない金って、出さなかったらお金じゃないですよね」

ボス「黙ってろ」

アヤス「お金は、出さなくても人を動かします」



その言い方だけ、少しだけ温度があった。

嫌悪か。

諦めか。

どちらにも聞こえた。



ボス「佐々木キミヤスは」

アヤス「知っています」

ボス「小宮との関係は」

アヤス「小宮さんが佐々木さんを殺した、という話なら、私は信じていません」

ヤス「どうしてですか」

アヤス「小宮さんは、殺す側の人ではありません」

ボス「殺される側か」

アヤスは答えなかった。

その沈黙が、答えに近かった。


ボス「小宮は、佐々木キミヤスの死亡推定時刻に別の場所にいた」

アヤス「でしょうね」

ヤス「知ってたんですか」

アヤス「知っていたわけではありません。ただ、想像はつきました」

ボス「なぜだ」

アヤス「小宮さんは、逃げる人です。殺す人ではありません」

ヤス「逃げる人」

アヤス「責任から。借金から。過去から」

ボス「それでも、犯人にされた」

アヤス「犯人にしやすい人だったんでしょう」


部屋の外で、車の音がした。

遠くで馬のいななきが聞こえたような気がした。

本物か、ヤスの気のせいかは分からない。


ボス「コウゾウさんは、何を預かっていた」

アヤスは一瞬だけ、視線を窓へ向けた。

雨粒が、ガラスの端に残っている。


アヤス「祖父は、古い書類を持っていました」

ボス「ローン山側の書類か」

アヤス「一部です」

ヤス「一部ということは、全部ではないんですね」

アヤス「全部を持っていたら、祖父はもっと早く殺されていたと思います」

ヤス「……殺されていた?」

ボス「続けてくれ」

アヤス「ローン山側は、ただの金貸しではありませんでした。少なくとも、私が知っている範囲では」

ボス「どういう意味だ」

アヤス「金を貸すだけなら、返せば終わります。でも、あそこは違いました」

ヤス「返しても終わらないんですか」

アヤス「終わりません。名前が残ります。借りた人の名前。保証した人の名前。見逃した人の名前」

ボス「見逃した人」

アヤス「そこに、佐々木キミヤスの名前がありました」


ヤスはメモを取る手を止めた。

ボスも黙った。


アヤス「小宮さんの名前もありました。祖父の名前もありました」

ボス「君の名前もあった」

アヤス「ええ」

ヤス「でも、アヤスさんは当時」

アヤス「若かったです。何も分かっていませんでした」

ボス「何も知らなかった、と言いたいのか」

アヤス「いいえ」

アヤスは首を横に振った。

その動きは小さかったが、はっきりしていた。


アヤス「知らなかった、で済む年齢ではありませんでした」

ヤス「じゃあ」

アヤス「私は、見ないふりをしました」

ボス「何を」

アヤス「祖父が、誰かから書類を預かっていること。家の名前が、知らない借金に使われていること。大人たちが、昔の話をするときだけ声を低くすること」

ヤス「大人たち」

アヤス「佐々木さんも、小宮さんも、その中にいました」


アヤスは、机の引き出しから薄い封筒を出した。

白い封筒だった。

角が少しだけ折れている。


アヤス「祖父から預かっていました」

ボス「中を見ても」

アヤス「どうぞ」


ボスは封筒を開けた。

中には、古いコピー用紙が数枚入っていた。

印字は薄く、ところどころ読みにくい。

だが、名前はいくつか読み取れた。


佐々木キミヤス。

小宮末広。

磯辺コウゾウ。

そして、ローン山側。


ヤス「これ、すごい証拠じゃないですか」

アヤス「証拠になるかは分かりません」

ボス「なぜだ」

アヤス「原本ではありません。祖父が持っていたのも、写しの写しです」

ヤス「コピーのコピー」

アヤス「はい。十年前の時点で、原本はもう消えていたそうです」

ボス「誰が消した」

アヤス「分かりません」


分からない、と言った声は、嘘には聞こえなかった。

ただ、全部を言っているようにも聞こえなかった。


ボス「コウゾウさんは、なぜこれを持っていた」

アヤス「守るためです」

ヤス「何をですか」

アヤス「私を」

ヤスは何か言いかけて、やめた。

アヤスの指先が、封筒の端を強く押さえていた。


アヤス「祖父は、あの人たちを怖がっていました。でも、それ以上に、何かを後悔していました」

ボス「何を」

アヤス「十年前、誰かを逃がしたこと」

ボス「誰を逃がした」

アヤス「そこまでは聞いていません」

ボス「本当にか」

アヤス「本当です」


アヤスは、初めてボスを正面から見た。


アヤス「祖父は、刑事さんたちが来たとき、少しだけ安心していました」

ヤス「ぼくたちがですか」

アヤス「はい」

ヤス「犬のヤスは、ぼくに吠えてましたけど」

アヤス「犬のヤスは、人を見る目があります」

ヤス「ぼく、だめですか」

ボス「今は黙ってろ」


その時、ボスの携帯が震えた。

画面には、ヤス田刑事の名前が表示されていた。


ボス「鈴木だ」


電話の向こうは、少しだけ騒がしかった。

人の声。

足音。

遠くで、無線の音がした。


ヤス田刑事「ボス。お二人は大丈夫ですか」


ボスは眉を寄せた。


ボス「何の話だ」

ヤス田刑事「……まだ、聞いていませんか」

ボス「何があった」


ボスは携帯を耳から離し、スピーカーに切り替えた。

部屋の空気が、少しだけ重くなった。


ヤス田刑事「花隈方面で、爆発のような事故がありました」

ボス「場所は」

ヤス田刑事「磯辺コウゾウの屋敷です」


アヤスの手から、封筒が落ちた。

紙が床に散らばった。


ヤス「こうちゃんの屋敷が……?」


ボスはアヤスを見た。

アヤスは動かなかった。

まばたきもしなかった。


ボス「コウゾウさんは」

ヤス田刑事「……現場で、身元確認が進んでいます」

ボス「屋敷は」

ヤス田刑事「屋敷の一部が大きく損壊しています」


電話の向こうで、誰かがヤス田刑事を呼ぶ声がした。

ヤス田刑事は一度、声を遠ざけた。


アヤスが、ゆっくりと口を開いた。


アヤス「こうちゃんが?」


その声は、さっきまでの西小路アヤスのものではなかった。

馬主でも、金の流れを知る女でも、冷たい声の女でもなかった。


ただの孫の声だった。


ヤス田刑事「それと」

ボス「何だ」

ヤス田刑事「犬は、無事だそうです」


ヤス「犬のヤス……」


ボス「すぐ向かう」

ヤス田刑事「お気をつけて」


通話が切れた。


部屋には、散らばった紙と、止まったままのアヤスが残った。

ヤスは床に落ちた封筒を拾おうとして、手を止めた。

今、触れていいものではない気がした。


アヤスは泣かなかった。


けれど、立っていられなかった。


園田の空は、いつの間にか暗くなっていた。


次回、第二章 EP06「壊れた屋敷」。

帰ってきた屋敷に残っていたのは、怒りでも涙でもなく、壊された沈黙でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ