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第二章 EP03 アヤスという女性

元町から花隈までは近い。

車なら、すぐだった。


雨はまた降り出していた。

細い雨が、フロントガラスを静かに叩いている。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「これ、歩いても行けましたね」

ボス「歩きたかったのか」

ヤス「いえ、車でよかったです」

ボス「なら黙っていろ」

ヤス「はい」


車は古い屋敷の前で止まった。

磯辺コウゾウの家だった。


以前来た時と同じように、庭は湿っていた。

ただ、今日は犬小屋に犬のヤスはいなかった。


ヤス「犬のヤス、いませんね」

ボス「雨だから中に入れているんだろう」

ヤス「大事にされてますね」

ボス「おまえよりはな」


ヤスは少し傷ついた顔をした。





コウゾウは家にいた。

縁側に近い部屋で、古い湯のみを前に座っていた。


その足元に、犬のヤスがいた。


犬のヤス「ワン!」


ヤス「うわ、吠えられた」

コウゾウ「ヤス、やかましい」

ヤス「すみません」

コウゾウ「おまえやない。犬のほうじゃ」


犬のヤス「ワン」


ヤス「ややこしいですね」

ボス「今さらだ」


コウゾウは、ボスとヤスを見た。


コウゾウ「また何の用じゃ」

ボス「小宮末広の件で、確認したいことがあります」

コウゾウ「小宮は死んだんじゃろ」

ボス「はい」

コウゾウ「なら、わしに聞くことはもうない」


ボスは鞄から、時計の裏に隠されていた書類を取り出した。

畳の上に置く。


コウゾウの目が、少しだけ動いた。


ボス「小宮の部屋から出てきました」

コウゾウ「……」

ボス「ローン山側の書類です」

コウゾウ「わしは知らん」

ヤス「まだ何も聞いてませんよ」

コウゾウ「知らんものは知らん」


ボスは書類の一部を指で押さえた。


ボス「磯辺アヤス」


コウゾウの口元が、わずかに固まった。


ヤス「アヤスさんって、あやすの得意そうですね」

ボス「真野」

ヤス「はい」

ボス「黙れ」

ヤス「すみません」


犬のヤスが、ヤスの足元に寄ってきた。


犬のヤス「ワン」

ヤス「慰めてくれてるんですか」

犬のヤス「ワン」

ボス「犬にあやされる刑事か」

ヤス「ヤスがヤスをアヤス。なんちってー」

ボス「帰るか」

ヤス「すみません」


コウゾウは湯のみを持ったまま、しばらく黙っていた。


コウゾウ「……アヤスは関係ない」

ボス「関係ない人間の名前が、なぜ小宮の部屋にありました」

コウゾウ「知らん」

ボス「十年前の日付です」

コウゾウ「知らんと言うとる」

ボス「コウゾウさん」

コウゾウ「……」


雨の音が強くなった。


ボス「アヤスという女性は、あなたの何ですか」


コウゾウは、ようやく湯のみを置いた。


コウゾウ「孫じゃ」

ヤス「孫」

コウゾウ「磯辺アヤス。わしの孫じゃ」

コウゾウ「結婚して、今は西小路アヤスいう名前になっとる」


ヤス「西小路アヤス」

ボス「どこにいます」

コウゾウ「園田の方じゃ」

ヤス「園田」

コウゾウ「馬を持っとる」

ヤス「馬?」

コウゾウ「地方競馬の馬主じゃ」

ヤス「馬主って、すごいですね」

ボス「金の流れと無関係とは言えない」

コウゾウ「アヤスは関係ない」


その言葉は、さっきより弱かった。



ボス「電話をかけていただけますか」

コウゾウ「何を話す気じゃ」

ボス「本人に聞きます」

コウゾウ「アヤスは忙しい」

ボス「小宮末広は死んでいます」

コウゾウ「……」


コウゾウは、古い電話を引き寄せた。

指先で番号を押す。


しばらくして、受話器の向こうに声が出た。


コウゾウ「……アヤスか。わしじゃ」

コウゾウ「いや、違う。金の話やない」

コウゾウ「刑事さんが来とる」

コウゾウ「分かっとる。分かっとるから、そう怒るな」



コウゾウは、少し疲れた顔をした。

そして、受話器をボスに差し出した。



コウゾウ「代われと言うとる」


ボスは受話器を受け取った。


ボス「鈴木です」

アヤス「祖父から聞きました。何のご用件でしょうか」


声は若かった。

だが、柔らかくはなかった。


ボス「十年前のローン山側の書類について伺いたいのですが」

アヤス「先に申し上げますが、私はその書類について何もお話しするつもりはありません」

ボス「まだ内容は伝えていません」

アヤス「では、早くしてください。こちらも暇ではありませんので」


ヤスは小さく口を開けた。


ヤス「きつい人ですね」

ボスはヤスを見ずに、手で制した。


ボス「直接お会いして話を聞きたい」

アヤス「電話では済まない話ですか」

ボス「済みません。直接確認したいことがあります」


アヤス「困りますね」

ボス「小宮末広が死んでいます」

アヤス「……」

ボス「あなたの旧姓が、彼の部屋から出てきた書類にありました」


受話器の向こうで、沈黙があった。


アヤス「園田まで来られるなら、お話ししますわ」

ボス「本日伺ってもよろしいでしょうか」

アヤス「勝手になさってください。ただし、長くは取れません」


電話は切れた。


ボスは受話器を置いた。


ヤス「怒ってましたね」

ボス「ああ」

ヤス「でも会ってくれるんですね」

ボス「ああ」

ヤス「ツンデレですか」

ボス「違う」


犬のヤス「ワン」

ヤス「犬にも違うって言われた気がします」


ボスは書類を鞄に戻した。


ボス「次は園田だ」

ヤス「競馬ですか」

ボス「捜査だ」

ヤス「一応、当たったら経費になりますか」

ボス「ならない」


外では、まだ雨が降っていた。

コウゾウは何も言わず、犬のヤスの頭を撫でていた。


磯辺アヤス。


今は、西小路アヤス。


十年前の書類に残ったその名前は、園田へ続いていた。


次回、第二章 EP04「Radioレディオ」。

園田まで行くだけなのに、なぜかラジオ番組が始まります。

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