第二章 EP03 アヤスという女性
元町から花隈までは近い。
車なら、すぐだった。
雨はまた降り出していた。
細い雨が、フロントガラスを静かに叩いている。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「これ、歩いても行けましたね」
ボス「歩きたかったのか」
ヤス「いえ、車でよかったです」
ボス「なら黙っていろ」
ヤス「はい」
車は古い屋敷の前で止まった。
磯辺コウゾウの家だった。
以前来た時と同じように、庭は湿っていた。
ただ、今日は犬小屋に犬のヤスはいなかった。
ヤス「犬のヤス、いませんね」
ボス「雨だから中に入れているんだろう」
ヤス「大事にされてますね」
ボス「おまえよりはな」
ヤスは少し傷ついた顔をした。
*
コウゾウは家にいた。
縁側に近い部屋で、古い湯のみを前に座っていた。
その足元に、犬のヤスがいた。
犬のヤス「ワン!」
ヤス「うわ、吠えられた」
コウゾウ「ヤス、やかましい」
ヤス「すみません」
コウゾウ「おまえやない。犬のほうじゃ」
犬のヤス「ワン」
ヤス「ややこしいですね」
ボス「今さらだ」
コウゾウは、ボスとヤスを見た。
コウゾウ「また何の用じゃ」
ボス「小宮末広の件で、確認したいことがあります」
コウゾウ「小宮は死んだんじゃろ」
ボス「はい」
コウゾウ「なら、わしに聞くことはもうない」
ボスは鞄から、時計の裏に隠されていた書類を取り出した。
畳の上に置く。
コウゾウの目が、少しだけ動いた。
ボス「小宮の部屋から出てきました」
コウゾウ「……」
ボス「ローン山側の書類です」
コウゾウ「わしは知らん」
ヤス「まだ何も聞いてませんよ」
コウゾウ「知らんものは知らん」
ボスは書類の一部を指で押さえた。
ボス「磯辺アヤス」
コウゾウの口元が、わずかに固まった。
ヤス「アヤスさんって、あやすの得意そうですね」
ボス「真野」
ヤス「はい」
ボス「黙れ」
ヤス「すみません」
犬のヤスが、ヤスの足元に寄ってきた。
犬のヤス「ワン」
ヤス「慰めてくれてるんですか」
犬のヤス「ワン」
ボス「犬にあやされる刑事か」
ヤス「ヤスがヤスをアヤス。なんちってー」
ボス「帰るか」
ヤス「すみません」
コウゾウは湯のみを持ったまま、しばらく黙っていた。
コウゾウ「……アヤスは関係ない」
ボス「関係ない人間の名前が、なぜ小宮の部屋にありました」
コウゾウ「知らん」
ボス「十年前の日付です」
コウゾウ「知らんと言うとる」
ボス「コウゾウさん」
コウゾウ「……」
雨の音が強くなった。
ボス「アヤスという女性は、あなたの何ですか」
コウゾウは、ようやく湯のみを置いた。
コウゾウ「孫じゃ」
ヤス「孫」
コウゾウ「磯辺アヤス。わしの孫じゃ」
コウゾウ「結婚して、今は西小路アヤスいう名前になっとる」
ヤス「西小路アヤス」
ボス「どこにいます」
コウゾウ「園田の方じゃ」
ヤス「園田」
コウゾウ「馬を持っとる」
ヤス「馬?」
コウゾウ「地方競馬の馬主じゃ」
ヤス「馬主って、すごいですね」
ボス「金の流れと無関係とは言えない」
コウゾウ「アヤスは関係ない」
その言葉は、さっきより弱かった。
ボス「電話をかけていただけますか」
コウゾウ「何を話す気じゃ」
ボス「本人に聞きます」
コウゾウ「アヤスは忙しい」
ボス「小宮末広は死んでいます」
コウゾウ「……」
コウゾウは、古い電話を引き寄せた。
指先で番号を押す。
しばらくして、受話器の向こうに声が出た。
コウゾウ「……アヤスか。わしじゃ」
コウゾウ「いや、違う。金の話やない」
コウゾウ「刑事さんが来とる」
コウゾウ「分かっとる。分かっとるから、そう怒るな」
コウゾウは、少し疲れた顔をした。
そして、受話器をボスに差し出した。
コウゾウ「代われと言うとる」
ボスは受話器を受け取った。
ボス「鈴木です」
アヤス「祖父から聞きました。何のご用件でしょうか」
声は若かった。
だが、柔らかくはなかった。
ボス「十年前のローン山側の書類について伺いたいのですが」
アヤス「先に申し上げますが、私はその書類について何もお話しするつもりはありません」
ボス「まだ内容は伝えていません」
アヤス「では、早くしてください。こちらも暇ではありませんので」
ヤスは小さく口を開けた。
ヤス「きつい人ですね」
ボスはヤスを見ずに、手で制した。
ボス「直接お会いして話を聞きたい」
アヤス「電話では済まない話ですか」
ボス「済みません。直接確認したいことがあります」
アヤス「困りますね」
ボス「小宮末広が死んでいます」
アヤス「……」
ボス「あなたの旧姓が、彼の部屋から出てきた書類にありました」
受話器の向こうで、沈黙があった。
アヤス「園田まで来られるなら、お話ししますわ」
ボス「本日伺ってもよろしいでしょうか」
アヤス「勝手になさってください。ただし、長くは取れません」
電話は切れた。
ボスは受話器を置いた。
ヤス「怒ってましたね」
ボス「ああ」
ヤス「でも会ってくれるんですね」
ボス「ああ」
ヤス「ツンデレですか」
ボス「違う」
犬のヤス「ワン」
ヤス「犬にも違うって言われた気がします」
ボスは書類を鞄に戻した。
ボス「次は園田だ」
ヤス「競馬ですか」
ボス「捜査だ」
ヤス「一応、当たったら経費になりますか」
ボス「ならない」
外では、まだ雨が降っていた。
コウゾウは何も言わず、犬のヤスの頭を撫でていた。
磯辺アヤス。
今は、西小路アヤス。
十年前の書類に残ったその名前は、園田へ続いていた。
次回、第二章 EP04「Radio」。
園田まで行くだけなのに、なぜかラジオ番組が始まります。




