第二章 EP01 解決済みの事件
真野ヤスヒロの自宅待機が明けた朝、刑事課の空気は重かった。
重い理由は、ヤスが戻ってきたからではない。
課長の机の上に、一冊の薄い報告書が置かれていた。
表紙には、赤い付箋が貼られている。
『小宮末広 死亡状況再確認』
ヤスはそれを見て、首をかしげた。
ヤス「ボス。小宮の件って、終わったんじゃないんですか」
ボスは報告書から目を離さなかった。
ボス「終わったことになっていた」
ヤス「その言い方、嫌ですね」
ボス「俺も嫌だ」
報告書をめくる音だけが、しばらく続いた。
小宮末広。
佐々木キミヤス殺害の容疑者として名前が挙がり、その直後に死亡した男。
遺書が見つかり、事件は小宮の犯行と自殺で処理された。
少なくとも、書類の上ではそうなっていた。
だが、再確認の結果、小宮の死にはいくつかの不自然な点が見つかった。
首に残った痕。
倒れていた位置。
遺書の紙に残った指紋。
そのどれもが、小さな違和感だった。
けれど、小さな違和感は、並べると形になる。
自殺ではない。
誰かが、小宮末広を殺した。
*
課長が部長室に入ると、背後で扉が重い音を立てて閉まった。
部長「小宮末広の件だ」
課長「はい」
部長「自殺で処理したな」
課長「報告書上は、そのように」
部長「報告書上は、ではない」
部長の声は低かった。
大きな声ではない。
だから余計に、逃げ場がなかった。
部長「首の痕。倒れていた位置。遺書の紙に残った指紋。どれも自殺を支えていない」
課長「当時の判断では――」
部長「当時ではなく、今の話をしている」
課長は口を閉じた。
部長「佐々木キミヤス殺害。小宮末広の自殺。それで解決済み。そう通したのは君だな」
課長「……はい」
部長「死人に全部を背負わせるのは簡単だ」
課長「そのつもりはありません」
部長「つもりの話ではない。結果の話だ」
課長の喉が、小さく動いた。
部長「本部から照会が来ている。小宮の死亡状況について、再捜査が必要だ」
課長「再捜査、ですか」
部長「聞き返すな」
課長「はい」
部長「解決済みの事件ではない。解決済みにした事件だ」
その言葉で、課長の顔色が変わった。
部長「鈴木を呼べ」
課長「鈴木を」
部長「それと、真野もだ」
課長「真野もですか」
部長「現場にいたんだろう」
課長「はい」
部長「なら呼べ。今日中に、小宮の周辺を洗い直せ」
課長「承知しました」
部長「もう一度言う」
課長は姿勢を正した。
部長「これは、解決済みの事件ではない」
課長「……はい」
部長「解決したことにした事件だ」
部長「この件については覚悟しておきたまえ。」
課長「……」
課長は、何も言葉を返せなかった。
*
課長は、部長室から戻ってきた。
顔色が悪かった。
もともと血色のいい男ではなかったが、その日は特に悪かった。
ヤスは思わず姿勢を正した。
ヤス「課長、おはようございます」
課長「真野」
ヤス「はい」
課長「声が大きい」
ヤス「すみません」
課長は席に着く前に、ボスを見た。
課長「鈴木」
ボス「はい」
課長「会議室へ来い。真野もだ」
ヤス「僕もですか」
課長「おまえ以外に真野がいるなら、そいつでもいい」
ヤス「いません」
課長「なら、おまえだ」
会議室の空気は、さらに重かった。
課長は椅子に座らなかった。
立ったまま、報告書を机に置いた。
課長「小宮末広の死因について、再確認が入った」
ボス「聞いています」
課長「聞いているなら、話が早い」
課長は報告書を軽く叩いた。
課長「自殺ではない可能性が高い」
ヤス「じゃあ、他殺ですか」
課長「その可能性が高いと言っている」
ヤス「ほぼ他殺ですね」
課長「言い換えるな」
ヤス「すみません」
課長は、深く息を吐いた。
課長「部長から、かなり強く言われた」
ヤス「怒られたんですか」
課長「真野」
ヤス「はい」
課長「そこを聞くな」
ヤス「すみません」
ボスは黙っていた。
課長の言葉には怒りがあった。
だが、その怒りはボスとヤスだけに向いているものではなかった。
もっと上から落ちてきたものを、下に流している。
そんな怒りだった。
課長「この事件は、解決済みだった」
ボス「はい」
課長「小宮が佐々木キミヤスを殺し、その後、自殺した。そういう処理だった」
ボス「処理、ですか」
課長「言葉を選んでいる余裕はない」
課長は、少しだけ目を伏せた。
課長「通したのは、俺だ」
ヤスは何も言えなかった。
課長「だが、間違っていた可能性がある」
ボス「可能性ではなく、間違っていたんでしょう」
課長はボスを見た。
短い沈黙が落ちた。
課長「……そうだ」
その一言だけは、言い訳ではなかった。
課長「もう一度、小宮の周辺を洗え」
ボス「了解しました」
課長「佐々木キミヤスの件も、最初から見直せ」
ヤス「最初からですか」
課長「最初からだ」
ヤス「またヤスだらけになりますね」
課長「ならないようにしろ」
ヤス「無理では」
課長「努力しろ」
ヤスは小さくうなずいた。
努力でどうにかなる種類のヤスではなかった。
会議室を出る直前、ヤスはふと振り返った。
課長は寂しそうな顔をして、どこかに電話をしていた。
*
会議室を出ると、廊下の窓に薄い雨が当たっていた。
神戸の街は、灰色に沈んでいた。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「小宮は、犯人じゃなかったんですか」
ボスはすぐには答えなかった。
廊下の先にある階段を見ていた。
ボス「小宮が何かを隠していたのは間違いない」
ヤス「じゃあ」
ボス「だが、死んだ人間に全部を背負わせるのは楽だ」
ヤス「……」
ボス「楽な解決は、だいたい危ない」
ヤス「課長の前で言ってくださいよ」
ボス「言ったら怒られる」
ヤス「さっきから皆怒られてますね」
ボスは、ようやく歩き出した。
ボス「小宮の家に行くぞ」
ヤス「またですか」
ボス「解決済みの事件ほど、見落としが残る」
ヤス「それ、課長の前で言ったら怒られますよ」
ボスは答えなかった。
*
階段を降りる途中で、ひとりの刑事とすれ違った。
ヤス田刑事だった。
落ち着いた顔をしていた。
いつもと同じように見えた。
ヤス田刑事「再捜査ですか」
ボスは足を止めた。
ボス「耳が早いな」
ヤス田刑事「署の中ですから」
ヤスは、ヤス田刑事を見た。
ヤス「ヤス田さん、小宮の件、知ってたんですか?」
ヤス田刑事は、少しだけヤスを見た。
ヤス田刑事「解決済みの事件だったのではありませんか」
ボスは答えなかった。
ヤス田刑事「……このあと、どちらへ?」
ボス「小宮の家だ」
ヤス田刑事は、ほんの少しだけ目を伏せた。
ヤス田刑事「そうですか」
ヤス田刑事はそれ以上何も言わず、階段を上っていった。
ボスは階段を降りた。
ヤスも慌てて後を追った。
終わったはずの事件が、また動き出していた。
書類の上では、解決済み。
だが、現場はまだ、何も終わっていなかった。
次回、第二章 EP02「作られた自殺」。
自殺に見えた部屋には、誰かの都合が置きっぱなしでした。




