第一章 EP12 犯人はヤス
昼過ぎ。
取調べ本部に戻ったヨシヒコは、自分の机の前で立ち止まった。
机の上には、報告書の下書きが置かれていた。
表紙には、赤い鉛筆で大きく丸がついている。
佐々木キミヤス殺害事件。
被疑者、小宮末広。
被疑者死亡により、送致見送り。
文字は整っていた。
整いすぎていた。
ヤス「ボス」
隣で、ヤスが小さく声をかけた。
ヤス「もう、これで決まりなんでしょうか」
ボス「上はそうしたいらしい」
ヤス「小宮さんが犯人で、自殺」
ボス「ああ」
ヤス「でも、遺書のヤスが誰なのかは、分かってません」
ボス「分かっていない」
ヤス「黒い傘も、見つかってません」
ボス「見つかっていない」
ヤス「小宮さんが誰かと会うつもりだったかもしれないことも」
ボス「証拠がない」
ヤスは、口を閉じた。
証拠がない。
その言葉は便利だった。
何も進めない理由にも、何も見ない理由にもなる。
ヨシヒコは、椅子に座った。
机の上の報告書をめくる。
小宮末広は、三日前、佐々木キミヤスのあとを追っていた。
小宮末広の部屋には、遺書らしき紙が残されていた。
小宮末広は、昨夜二十三時半から零時半の間に死亡した。
遺書には、佐々木キミヤスを死なせたのは私です、と書かれていた。
筋は通る。
課長がそう言った。
確かに、文字の上では通っていた。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「報告書、見るんですか」
ボス「ああ」
ヤス「何か、引っかかるところがあるんですか」
ボス「全部だ」
ヤスは少しだけ驚いた顔をした。
それから、すぐに真顔に戻った。
ボス「だが、ひとつずつなら説明できる」
ヤス「はい」
ボス「遺書もある。小宮は死んだ。キミヤスを追っていた証言もある」
ヤス「はい」
ボス「だから終わる」
ヤス「終わるんですか」
ボス「終わらせるんだろう」
ヨシヒコは、報告書の最後のページを見た。
事件は、被疑者死亡により終結。
その一行を読んだ時だった。
頭の奥に、古い画面のようなものが浮かんだ。
そうさ
少し遅れて、その下にもう一つ。
やめろ
ヨシヒコは、まばたきをした。
文字は消えなかった。
---
* そうさ
* >やめろ
---
誰かに命令されたわけではない。
ヤスが横から押したわけでもない。
課長が言ったわけでもない。
ヨシヒコ自身が、その下の文字を見ていた。
ボス「……」
ヤス「ボス?」
ヨシヒコは、報告書を閉じた。
ボス「やめる」
ヤス「え」
ボス「これ以上は、捜査はやめる」
ヤス「捜査を、ですか」
ボス「そうだ」
ヤスは、何か言おうとして、やめた。
ヨシヒコは、閉じた報告書の上に手を置いた。
紙は薄い。
だが、その下に何かが沈んでいるような気がした。
見れば、沈んだものが浮かび上がる。
浮かび上がったものは、もう沈まない。
そう思った。
だから、やめた。
*
夕方、報告書は課長の机へ回された。
課長は、ざっと目を通してから、短く言った。
課長「これでいい」
ボス「はい」
課長「細かい違和感はある。だが、上に出すならこれで通る」
ヤス「通すんですね」
課長「通す」
課長は、報告書を閉じた。
課長「小宮末広。通称、ヤス」
ヤス「そこは強調するところですか」
課長「遺書にもヤスとある」
ヤス「だからって、全部ヤスで片づけるのは」
課長「片づけるんじゃない。まとめるんだ」
ヤスは、納得していない顔をした。
ヨシヒコも、納得していなかった。
それでも、報告書は閉じられた。
事件は、解決した。
少なくとも、書類の上では。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「本当に、これで終わりなんですか」
ボス「終わりだ」
ヤス「本当に?」
ボス「ああ」
ヨシヒコは、机の上に置いていた手帳を引き出しにしまった。
ヤス「明日は」
ボス「明日のことは、明日考える」
ヤスは、また何か言おうとした。
だが、今度も言わなかった。
取調べ本部の窓の外では、日が落ちかけていた。
街の色が、少しずつ薄くなっていく。
白い報告書だけが、課長の机の上で目立っていた。
捜査は終わった。
******
ざんねん!!
わたしの そうさは
これでおわってしまった!!
******
*
夜。
ヨシヒコは、自宅の台所で一人、グラスに酒を注いでいた。
氷は入れなかった。
瓶からそのまま注いだ酒は、透明で、少しだけ苦い匂いがした。
テレビはついていない。
部屋には、冷蔵庫の低い音だけがあった。
ヨシヒコは、グラスを持ったまま、椅子に座った。
小宮末広の遺書が、頭に残っている。
もう、だめだ。
佐々木キミヤスを死なせたのは、私です。
これ以上、ヤスからは逃げられない。
ヤス。
その二文字だけが、頭の中に残っていた。
ヨシヒコは、グラスを口へ運んだ。
酒は、思ったよりも強かった。
……
考えようとした。
……
やめようとした。
……
どちらも、うまくいかなかった。
部屋の隅に置きっぱなしの端末が、ふいに小さく光った。
取調べ本部から持ち帰った資料端末だった。
ヨシヒコは、顔を上げた。
画面には、何も表示されていない。
見間違いかもしれない。
ヨシヒコは、もう一度グラスを手に取った。
……
古い廊下の匂いがした。
畳。
湿った木。
閉じたふすま。
誰かが泣いていた。
声は、近かった。
けれど、誰の声なのかは分からない。
ヨシヒコは、グラスを置いた。
思い出そうとした。
けれど、記憶はそこで途切れた。
ふすまの向こうに、誰かがいる。
それだけは分かる。
もう少しで、思い出せそうだった。
……
その時、また文字が浮かんだ。
---
* そうさ
* >やめろ
---
ヨシヒコは、目を閉じた。
今度は、誰かの声も聞こえた気がした。
やめて。
それが誰の声なのか、分からなかった。
ヨシヒコは、グラスを手に取った。
中身を一息で飲んだ。
酒は喉を焼いた。
それでも、思い出しかけたものは消えなかった。
ただ、遠くなった。
それでいい。
ヨシヒコは、そう思おうとした。
*
そのころ、ヤスは一人で飲んでいた。
場所は、神戸駅近くの小さな居酒屋だった。
仕事帰りの会社員が数人いるだけで、店内は静かだった。
ヤスの前には、焼き鳥の皿と、半分ほど減ったビールが置かれている。
ヤス「一章、終わった感じですねー」
誰に言うでもなく、ヤスはつぶやいた。
ヤス「読者から怒られたら、二章はないんですかね」
ヤス「いや、三章まであるんですけどね」
ヤス「犯人はヤスって言ってるのに、ヤスが多すぎるんですよね」
ヤス「犬の名前がヤス? なんだよそれ」
ヤス「フミエ? 何それ、おいしいんですか」
ヤス「地下迷路? うちは今のところ、犬のエサ皿しか出てませんし」
ヤスは、ビールを一口飲んだ。
ヤス「それにしても、ボスもボスですよ」
ヤス「急に黙るし、急に報告書閉じるし」
ヤス「何考えてるか分からないし」
ヤス「何でもないって顔する時ほど、絶対何かありますからね」
ヤス「まぁ、捕まらずによかったわー」
ヤス「どうせ、みんな僕が犯人だと思って見てたんでしょう」
ヤス「残念でした!!」
ヤス「僕は捕まりません!!」
ヤス「二章でも捕まりません!!」
ヤス「たぶん!!」
ヤス「最終章まで引っ張るタイプのヤスです」
店主「刑事さんって、みんなそんな感じなんですか」
ヤス「どんな感じですか」
店主「ひとりで楽しそうにしゃべる感じです」
ヤス「僕だけです」
店主「刑事さんって大変ですね」
ヤス「はい。主に名前が」
店主「……」
店主「何が終わったんですか」
ヤス「事件です」
店主「じゃあ、終わってよかったですね」
ヤス「本当に終わったのかは、分かりません」
店主「難しいですね」
ヤス「難しいんです」
ヤスはビールを一口飲んだ。
その時、携帯が鳴った。
画面には、知らない番号が表示されていた。
ヤスは少し迷ってから、電話に出た。
ヤス「はい、真野です」
電話の向こうから、聞き覚えのある声がした。
ヤス田刑事「真野さんですか」
ヤス「ヤス田刑事さん?」
ヤス田刑事「お一人ですか?鈴木さんと一緒ですか?」
ヤス「いえ、今一人です」
ヤス田刑事「そうですか」
ヤス「何かありましたか?」
ヤス田刑事「まずは、事件解決おめでとうございます」
ヤス「ありがとうございます」
ヤス田刑事「ただ、今日の小宮末広の件で、少し気になることがあるんです」
ヤス「小宮さんの件で?」
ヤス田刑事「ええ。電話で話すより、直接の方がいいのですが」
ヤス「今からですか」
ヤス田刑事「今、三宮にいるんですが。来られますか」
ヤス「今からですか」
ヤス田刑事「ええ。少しだけ。」
ヤス「ええと……」
ヤス田刑事『奢りますよ』
ヤスは、すぐに立ち上がった。
ヤス「行きます」
ヤス田刑事「場所は送りますね」
ヤス「分かりました」
電話は切れた。
ヤスは、上着をつかんだ。
携帯をポケットに入れ、鞄を持つ。
ヤスは、店の戸を開けた。
ヤス「やったぜ!タダ酒!タダ酒!」
*
十分後。
ヤスは、交番の前にいた。
正確には、交番の前で、制服警官二人に挟まれていた。
ヤス「違うんです」
警官「お店の方から通報がありました」
ヤス「戻るつもりでした」
警官「代金は」
ヤス「払ってません」
警官「では、戻っていません」
ヤス「これから戻る予定でした」
警官「予定ではなく、結果を聞いています」
ヤス「結果的には払ってません」
警官「そうですね」
ヤスは、深く息を吸った。
ヤス「誤認です」
警官「何がですか」
ヤス「無銭飲食の意思はありません」
警官「意思はともかく、会計はしていません」
ヤス「結果的には」
警官「結果的にです」
ヤスは、空を見上げた。
目的地は、電車なら十分ほどの場所だった。
ヤス「すみません、あと十分だけ待ってもらえませんか」
警官「誰にですか」
ヤス「奢ってくれる人に」
警官「まず、お店に謝りましょう」
ヤス「はい」
ヤスは、警官に連れられて、店へ戻った。
店主は腕を組んで待っていた。
店主「刑事さんでも、会計はしてもらわないと」
ヤス「すみません」
店主「奢りの話に釣られたんですか」
ヤス「はい」
店主「刑事さんでも、奢りには弱いんですね」
ヤス「人間なので」
警官「反省してください」
ヤス「しています」
結局、ヤスは代金を払った。
払ったうえで、事情を聞かれるために交番へ連れていかれた。
ヤス「逮捕ですか」
警官「今のところ、事情確認です」
ヤス「よかった」
警官「ただ、店の外へ代金未払いで出たことは事実です」
ヤス「よくない」
警官「そうですね」
ヤスは、携帯を見ることができなかった。
ヤス田刑事からの着信が、一件。
メッセージが、一件。
画面は、ポケットの中で暗くなっていた。
*
同じ夜。
ヤスード改は、暗い部屋で一人、古い画面を見ていた。
画面には、事件関係者の名前が並んでいる。
ヤスード改は、指先で机を軽く叩いた。
一度。
二度。
三度。
それから、画面の端にある古いログを開いた。
【照合保留】
ヤスード改は、しばらくその文字を見ていた。
ヤスード改「終わったことにしたんだね」
部屋には、誰もいない。
返事をする者もいない。
ヤスード改は、画面を閉じなかった。
ヤスード改「でも、ヤスはまだ逃げていない」
その声は、笑っているようにも聞こえた。
泣いているようにも聞こえた。
画面の中で、ひとつの項目がゆっくり点滅していた。
事件は、解決した。
少なくとも、書類の上では。
******
その夜、ヤスは捕まった。
ただし、犯人としてではなかった。
******
第一章 完
ヤス「あー、三章まであるらしいですよ」
読者「……まーだ続くんですか、これ。どうせヤスだろ?」
ヤス「まー続くらしいです。次、"ぼく"がメインの番外編らしいです」
ヤス「番外編ですがこの回好きな回です。ラジオコーナーが始まるよ!」




