第一章 EP11 遺書
翌朝。
取調べ本部の空気は、いつもより少し重かった。
机の上には、昨夜の聞き込みで書き足した資料が置かれている。
ヨシヒコは、椅子に座る前に、その一番上の紙を見た。
小宮末広。
コミヤスエヒロ。
通称、ヤス。
その名前の横に、赤い鉛筆で丸がついていた。
ヤス「ボス、おはようございます」
ボス「ああ」
ヤスはいつもより声を落としていた。
昨夜の新開地の空気が、まだ残っているようだった。
ヤス「小宮さんには、朝一番で連絡しますか」
ボス「そのつもりだ」
その時、課長が奥の席から声をかけた。
課長「鈴木」
ボス「はい」
課長「小宮末広が死んだ」
ヤスが、動きを止めた。
ヤス「コミヤスエヒロが、ですか」
課長「そうだ」
ボス「場所は」
課長「元町の自宅だ」
ヨシヒコは、返事をしなかった。
課長は一枚の紙を差し出した。
現場からの第一報だった。
発見時刻。
発見場所。
元町の古いアパート。
六畳一間。
玄関に鍵。
遺書らしき紙あり。
課長「現場へ行け」
ボス「分かりました」
課長「鑑識はもう入っている」
ヤス「自殺ですか」
課長「その可能性が高い」
可能性が高い。
その言葉だけが、取調べ本部の中で少し長く残った。
*
元町の路地は、朝なのに薄暗かった。
古い雑居ビルと小さな店の間を抜けた先に、二階建てのアパートがあった。
外壁はくすみ、階段の手すりには赤さびが浮いている。
一階の端の部屋の前に、制服警官が立っていた。
警官「お疲れさまです」
ボス「中は」
警官「鑑識が確認中です」
ヨシヒコとヤスは、靴を脱いで部屋に入った。
部屋は狭かった。
畳は古く、端が少し浮いている。
壁には、色あせたカレンダーがかかっていた。
流し台には、洗ったままの湯のみが一つ伏せてある。
生活の匂いがした。
死ぬための部屋というより、昨日まで誰かが普通に暮らしていた部屋だった。
小宮末広は、部屋の奥で見つかった。
顔には白い布がかけられていた。
その横で、鑑識の男が手帳を閉じた。
鑑識「死亡推定時刻は、昨夜の二十三時半から零時半の間です」
ヤス「昨夜……」
鑑識「詳しいことは解剖待ちですが、現時点ではその範囲です」
ヨシヒコは何も言わなかった。
ヤスも、それ以上は聞かなかった。
部屋の隅に、古い置き時計があった。
針は、十二時少し前で止まっていた。
ボス「遺書は」
鑑識「机の上です」
小さな文机が、窓際に置かれていた。
その上に、一枚の紙があった。
紙は、折られていなかった。
重し代わりに、古い湯のみが置かれている。
ヨシヒコは手袋をしたまま、その紙を見た。
そこには、短い文章が書かれていた。
******
もう、だめだ。
佐々木キミヤスを死なせたのは、私です。
あの夜から、ずっと逃げていた。
けれど、もう逃げられない。
これ以上、ヤスからは逃げられない。
******
ヤスは、しばらく黙っていた。
ヤス「……ヤス」
ボス「ああ」
ヤス「誰のことなんでしょう」
ボス「分からん」
分からない。
その言葉は、今までで一番正確だった。
ヤス「小宮さんの字ですか」
鑑識「筆跡は確認中です。ただ、近くにあった書類と似ています」
ボス「似ている」
鑑識「ええ。似ています」
ヨシヒコは、紙から目を離した。
机の上には、古い封筒が二つ。
小銭の入った小さな缶。
朱肉。
使い込まれた印鑑。
そして、昨夜脱いだらしい上着が、椅子の背にかかっていた。
ヤス「死ぬつもりの人が、上着を椅子にかけますかね」
ボス「かける人間もいる」
ヤス「そうですね」
ボス「だが、気になる」
ヤスは部屋を見回した。
ヤス「傘がありません」
ボス「黒い傘か」
ヤス「はい。三日前に持っていたはずの傘です」
ボス「部屋の外は」
警官「玄関横に傘立てがあります。中は空です」
ヤス「空」
警官「はい」
ヨシヒコは玄関を見た。
傘立ては古い陶器だった。
中には何も入っていない。
底に、乾いた泥だけが薄く残っていた。
ヤス「持って出たんでしょうか」
ボス「昨夜か」
ヤス「分かりません」
分からないことが、ひとつ増えた。
ヨシヒコは、押し入れを見た。
中には、たたまれた布団と、古い鞄があった。
鞄の口は少し開いていた。
ボス「この鞄は」
警官「発見時からこの状態です」
ヤス「中を見ても?」
鑑識「写真は撮っています。どうぞ」
ヤスが鞄の中をのぞいた。
ヤス「下着が二枚。靴下。古い通帳。封筒」
ボス「封筒?」
ヤス「宛名はありません。中は……」
ヤスは鑑識に目を向けた。
鑑識が封筒を取り出し、中を確認する。
鑑識「現金です。少額ですが」
ボス「出かける準備か」
鑑識「断定はできません」
ヤス「死ぬ準備というより、逃げる準備に見えます」
ボス「見えるだけだ」
ヨシヒコは、そう言いながらも、その鞄から目を離せなかった。
机の上には遺書。
押し入れには鞄。
玄関には空の傘立て。
どれも、小さすぎる違和感だった。
ひとつずつなら、説明できる。
だが、並ぶと形が変わる。
課長が部屋に入ってきた。
課長「どうだ」
ボス「遺書はあります」
課長「そうだろう」
ボス「ただ、少し妙です」
課長「何が」
ヤス「傘がありません」
課長「傘?」
ヤス「三日前、キミヤスのあとをつけていた時に持っていた黒い傘です」
課長「そんなもの、どこかへ捨てたかもしれん」
ボス「鞄もあります」
課長「鞄ぐらい誰の部屋にもある」
ボス「中に着替えと現金が」
課長「逃げようとしていたとも取れる。罪からな」
ヨシヒコは、課長を見た。
課長「小宮はキミヤスを追っていた」
ボス「はい」
課長「遺書もある」
ボス「あります」
課長「小宮は死んだ」
ボス「死んでいます」
課長「なら、筋は通る」
筋は通る。
その言葉は、きれいすぎた。
ヤス「課長」
課長「何だ」
ヤス「遺書にあるヤスは、誰のことなんでしょう」
課長「知らん」
ヤス「知らんままでも、筋は通りますか」
課長「通すんだ」
部屋が静かになった。
ヨシヒコは、窓の外を見た。
元町の路地に、朝の光が少しだけ差している。
それでも、部屋の中はまだ暗かった。
ボス「小宮は、誰かと会うつもりだったかもしれません」
課長「証拠は」
ボス「まだありません」
課長「なら、今は遺書だ」
課長は、机の上の紙を見た。
課長「これがある以上、上は自殺で動く」
ボス「分かりました」
課長「分かっていない顔だな」
ボス「分かっています」
分かっている。
そう言った声は、昨夜と同じように、自分のものに聞こえなかった。
*
取調べ本部に戻ると、机の上に小宮末広の資料が広げられていた。
ヤスは、写真の横に赤い紙を置いた。
現場で撮られた、遺書の写しだった。
******
もう、だめだ。
佐々木キミヤスを死なせたのは、私です。
あの夜から、ずっと逃げていた。
けれど、もう逃げられない。
これ以上、ヤスからは逃げられない。
******
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「これ、誰が読んでも犯人はヤスですね」
ボス「ああ」
ヤス「でも、どのヤスかは分かりません」
ボス「そこが問題だ」
課長が奥から言った。
課長「問題ではない」
ボス「課長」
課長「小宮末広。通称、ヤス」
ヤス「そこに戻りますか」
課長「戻る。小宮がキミヤスを殺し、罪に耐えきれず自殺した。遺書にもヤスとある」
ボス「ヤスが自分のことなら、妙です」
課長「妙でも通る」
ボス「通すんですね」
課長「通す」
ヨシヒコは、遺書の写しを見た。
文字は短い。
短すぎる。
誰に向けたものかも分からない。
何から逃げられないのかも書かれていない。
ただ、ヤスという文字だけがあった。
課長「明日、報告をまとめる」
ボス「明日ですか」
課長「上は早く閉じたい」
ヤス「早すぎませんか」
課長「遅すぎるよりはいい」
課長は資料を閉じた。
課長「鈴木」
ボス「はい」
課長「明日で終わらせる」
ヨシヒコは、返事をしなかった。
机の上で、遺書の写しだけが白かった。
次回、第一章 EP12「犯人はヤス」。
犯人はヤス!




