第一章 EP10 傘の男
姫路を出た時、時計は二十二時を少し回っていた。
車の窓の外を、夜の街灯が流れていく。
ヤスは助手席で黙っていた。
ヨシヒコも、しばらく何も言わなかった。
居酒屋ヤス兵衛で聞いた言葉が、頭の中に残っていた。
ローン山側。
磯辺。
花の絵。
帳簿。
そして、傘。
雨も降っていないのに、傘を持った男。
ヨシヒコはハンドルを握り直した。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「元気に寄るんですね」
ボス「ああ」
ヤス「もう、かなり遅いです」
ボス「閉まっていたら、明日だ」
ヤス「開いていたら」
ボス「今日聞く」
ヤスは、それ以上何も言わなかった。
車は新開地へ向かった。
*
お好み焼き『元気』に着いたのは、二十三時を少し過ぎたころだった。
表の灯りは、まだ消えていなかった。
暖簾は半分だけ下ろされている。
店の中から、鉄板をこする音が聞こえた。
ヨシヒコが戸を開けると、ソースの匂いが少しだけ残っていた。
鉄板の火は、もう落とされている。
客はいない。
カウンターの上には、片づけ途中の皿と、濡れた布巾が置かれていた。
セツ子が、鉄板を拭く手を止めた。
セツ子「……刑事さん」
ボス「遅くにすまない」
セツ子「ええよ。もう閉めるとこやったけど」
ヤス「少しだけ、お話を聞かせてください」
セツ子「またキミヤスさんのこと?」
ボス「ああ」
奥から、えびちゃんが顔を出した。
その後ろで、擁護ロボちゃっぴーが小さく起動音を鳴らしていた。
ちゃっぴー「深夜の聞き込みは、労働環境の観点から慎重な配慮が必要です」
セツ子「ちゃっぴー、今日は黙っとき」
ちゃっぴー「了解しました。黙ります」
ヤス「本当に黙るんですね」
ボス「今はその方がいい」
ヨシヒコは、内ポケットから一枚の写真を出した。
取調べ本部で撮った、小宮末広の写真だった。
帽子を脱ぎ、少しうつむき加減で写っている。
年齢よりも疲れて見える顔だった。
ボス「この男に見覚えはありますか?」
セツ子は、写真を受け取らなかった。
カウンター越しに、じっと見た。
最初は、何も言わなかった。
鉄板の上で、布巾から落ちた水が小さく音を立てた。
セツ子「……こいつや」
ヤス「三日前の、傘の男ですか」
セツ子は、ゆっくりうなずいた。
セツ子「間違いない」
ボス「よく見てくれ」
セツ子「見てる」
ボス「三日前、キミヤスのあとをつけていた男か」
セツ子「そうや」
ヨシヒコは、写真を机の上に置いた。
ボス「傘は」
セツ子「持っとった。黒い傘」
ヤス「雨は」
セツ子「降ってへん」
ボス「どこへ向かった」
セツ子「キミヤスさんが先に出て、花隈の方へ歩いていった。少し遅れて、この男が同じ方へ行った」
ヤス「距離は」
セツ子「近すぎはせん。でも、偶然には見えへんかった」
えびちゃんが、カウンターの端を握った。
えびちゃん「あの日、なんか嫌な感じやったんよ」
ボス「嫌な感じ?」
えびちゃん「キミヤスさん、入り口ばっかり見てた。誰かを待ってるんか、誰かを怖がってるんか、分からんかった」
セツ子「ほんで、帰ったあとにあの男や」
ヤス「その時、男は店に入りましたか」
セツ子「入ってへん。表におった」
ボス「ずっと外に」
セツ子「少し離れてな。店の灯りが届くか届かんかくらいの場所に立っとった」
ヤス「顔は見えたんですか」
セツ子「見えた。だから覚えてる」
ヨシヒコは、もう一度写真を見た。
小宮末広。
コミヤスエヒロ。
通称、ヤス。
ボス「この男は、キミヤスと話していたか」
セツ子「話してへん」
ボス「声は」
セツ子「聞いてへん」
ボス「傘をさしていたか」
セツ子「さしてへん。持ってただけや」
ヤス「杖みたいに?」
セツ子「そんな感じやな。握って、下に向けてた」
ちゃっぴーが、黙ることに耐えられなくなったように、小さく光った。
ちゃっぴー「補足発言を許可してもよろしいでしょうか」
セツ子「短く」
ちゃっぴー「傘は雨具であると同時に、視線を避ける道具、合図、または威嚇の小道具としても使用され得ます」
ボス「それでいい」
ちゃっぴー「ありがとうございます。黙ります」
ヤス「今日はわりと有能ですね」
ちゃっぴー「褒め言葉として記録します」
セツ子「もう黙り」
ちゃっぴーは黙った。
ボス「セツ子さん」
セツ子「何」
ボス「キミヤスは、この男を怖がっていたと思いますか」
セツ子は答えなかった。
店の奥で、冷蔵庫が低く唸っていた。
セツ子「分からん」
ボス「そうか」
セツ子「でも、知らん人を見る目やなかった」
ヤス「どうしてですか」
セツ子「怖がってるんやけど、初めて見る相手やない。そんな感じやった」
ボス「知っている人間を、見ないようにしていた」
セツ子「そんな感じや」
ヨシヒコは、写真をしまった。
その時、えびちゃんが小さく声を出した。
えびちゃん「そういえば」
ボス「何だ」
えびちゃん「あの男、店の前で一回だけこっち見たんです」
ヤス「中を?」
えびちゃん「うん。キミヤスさんの席を見てた」
ボス「いつ」
えびちゃん「キミヤスさんが、ローン山側って言ったあと」
セツ子「……あんた、それ早よ言い」
えびちゃん「思い出したんやもん」
ヨシヒコは手帳を開いた。
ボス「キミヤスが、ローン山側という言葉を出した」
えびちゃん「はい」
ボス「そのあと、外の男が店内を見た」
えびちゃん「はい」
ボス「男は小宮末広」
セツ子「この写真の男ならな」
ヨシヒコは、手帳に線を引いた。
ヨシヒコは、鉛筆の芯を舐めなかった。
ただ、手帳に線を引いた。
キミヤス。
ローン山側。
小宮末広。
傘の男。
線は、一本になりかけていた。
だが、まだ一本ではなかった。
*
店を出ると、夜の新開地は静かだった。
ヤス「この時間ですが、かけますか」
ボスは時計を見た。
二十三時を過ぎていた。
ボス「……いや、明日にしよう」
ヤス「いいんですか」
ボス「逃げる理由があるなら、もう逃げている」
ヤス「分かりました」
その日は、そこで終わった。
次回、第一章 EP11「遺書」。
事件は、終わりに向かっているように見えます。




