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第一章 EP10 傘の男


姫路を出た時、時計は二十二時を少し回っていた。


車の窓の外を、夜の街灯が流れていく。

ヤスは助手席で黙っていた。

ヨシヒコも、しばらく何も言わなかった。


居酒屋ヤス兵衛で聞いた言葉が、頭の中に残っていた。


ローン山側。

磯辺。

花の絵。

帳簿。

そして、傘。


雨も降っていないのに、傘を持った男。


ヨシヒコはハンドルを握り直した。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「元気に寄るんですね」

ボス「ああ」

ヤス「もう、かなり遅いです」

ボス「閉まっていたら、明日だ」

ヤス「開いていたら」

ボス「今日聞く」


ヤスは、それ以上何も言わなかった。


車は新開地へ向かった。





お好み焼き『元気』に着いたのは、二十三時を少し過ぎたころだった。


表の灯りは、まだ消えていなかった。

暖簾は半分だけ下ろされている。

店の中から、鉄板をこする音が聞こえた。


ヨシヒコが戸を開けると、ソースの匂いが少しだけ残っていた。

鉄板の火は、もう落とされている。

客はいない。

カウンターの上には、片づけ途中の皿と、濡れた布巾が置かれていた。


セツ子が、鉄板を拭く手を止めた。


セツ子「……刑事さん」

ボス「遅くにすまない」

セツ子「ええよ。もう閉めるとこやったけど」

ヤス「少しだけ、お話を聞かせてください」

セツ子「またキミヤスさんのこと?」

ボス「ああ」


奥から、えびちゃんが顔を出した。

その後ろで、擁護ロボちゃっぴーが小さく起動音を鳴らしていた。


ちゃっぴー「深夜の聞き込みは、労働環境の観点から慎重な配慮が必要です」

セツ子「ちゃっぴー、今日は黙っとき」

ちゃっぴー「了解しました。黙ります」

ヤス「本当に黙るんですね」

ボス「今はその方がいい」


ヨシヒコは、内ポケットから一枚の写真を出した。


取調べ本部で撮った、小宮末広の写真だった。

帽子を脱ぎ、少しうつむき加減で写っている。

年齢よりも疲れて見える顔だった。


ボス「この男に見覚えはありますか?」


セツ子は、写真を受け取らなかった。

カウンター越しに、じっと見た。


最初は、何も言わなかった。


鉄板の上で、布巾から落ちた水が小さく音を立てた。




セツ子「……こいつや」




ヤス「三日前の、傘の男ですか」



セツ子は、ゆっくりうなずいた。


セツ子「間違いない」

ボス「よく見てくれ」

セツ子「見てる」

ボス「三日前、キミヤスのあとをつけていた男か」

セツ子「そうや」


ヨシヒコは、写真を机の上に置いた。


ボス「傘は」

セツ子「持っとった。黒い傘」

ヤス「雨は」

セツ子「降ってへん」

ボス「どこへ向かった」

セツ子「キミヤスさんが先に出て、花隈の方へ歩いていった。少し遅れて、この男が同じ方へ行った」

ヤス「距離は」

セツ子「近すぎはせん。でも、偶然には見えへんかった」


えびちゃんが、カウンターの端を握った。


えびちゃん「あの日、なんか嫌な感じやったんよ」

ボス「嫌な感じ?」

えびちゃん「キミヤスさん、入り口ばっかり見てた。誰かを待ってるんか、誰かを怖がってるんか、分からんかった」

セツ子「ほんで、帰ったあとにあの男や」

ヤス「その時、男は店に入りましたか」

セツ子「入ってへん。表におった」

ボス「ずっと外に」

セツ子「少し離れてな。店の灯りが届くか届かんかくらいの場所に立っとった」

ヤス「顔は見えたんですか」

セツ子「見えた。だから覚えてる」


ヨシヒコは、もう一度写真を見た。


小宮末広。

コミヤスエヒロ。

通称、ヤス。


ボス「この男は、キミヤスと話していたか」

セツ子「話してへん」

ボス「声は」

セツ子「聞いてへん」

ボス「傘をさしていたか」

セツ子「さしてへん。持ってただけや」

ヤス「杖みたいに?」

セツ子「そんな感じやな。握って、下に向けてた」


ちゃっぴーが、黙ることに耐えられなくなったように、小さく光った。


ちゃっぴー「補足発言を許可してもよろしいでしょうか」

セツ子「短く」

ちゃっぴー「傘は雨具であると同時に、視線を避ける道具、合図、または威嚇の小道具としても使用され得ます」

ボス「それでいい」

ちゃっぴー「ありがとうございます。黙ります」

ヤス「今日はわりと有能ですね」

ちゃっぴー「褒め言葉として記録します」

セツ子「もう黙り」


ちゃっぴーは黙った。


ボス「セツ子さん」

セツ子「何」

ボス「キミヤスは、この男を怖がっていたと思いますか」


セツ子は答えなかった。


店の奥で、冷蔵庫が低く唸っていた。


セツ子「分からん」

ボス「そうか」

セツ子「でも、知らん人を見る目やなかった」

ヤス「どうしてですか」

セツ子「怖がってるんやけど、初めて見る相手やない。そんな感じやった」

ボス「知っている人間を、見ないようにしていた」

セツ子「そんな感じや」



ヨシヒコは、写真をしまった。


その時、えびちゃんが小さく声を出した。


えびちゃん「そういえば」

ボス「何だ」

えびちゃん「あの男、店の前で一回だけこっち見たんです」

ヤス「中を?」

えびちゃん「うん。キミヤスさんの席を見てた」

ボス「いつ」

えびちゃん「キミヤスさんが、ローン山側って言ったあと」

セツ子「……あんた、それ早よ言い」

えびちゃん「思い出したんやもん」



ヨシヒコは手帳を開いた。


ボス「キミヤスが、ローン山側という言葉を出した」

えびちゃん「はい」

ボス「そのあと、外の男が店内を見た」

えびちゃん「はい」

ボス「男は小宮末広」

セツ子「この写真の男ならな」


ヨシヒコは、手帳に線を引いた。


ヨシヒコは、鉛筆の芯を舐めなかった。

ただ、手帳に線を引いた。


キミヤス。

ローン山側。

小宮末広。

傘の男。


線は、一本になりかけていた。

だが、まだ一本ではなかった。





店を出ると、夜の新開地は静かだった。


ヤス「この時間ですが、かけますか」

ボスは時計を見た。


二十三時を過ぎていた。


ボス「……いや、明日にしよう」

ヤス「いいんですか」

ボス「逃げる理由があるなら、もう逃げている」

ヤス「分かりました」


その日は、そこで終わった。

次回、第一章 EP11「遺書」。

事件は、終わりに向かっているように見えます。

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