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第一章 EP09 ヤスまみれ


兵庫県姫路市安田。


地名を聞いた時点で、ヤスは少し嫌そうな顔をしていた。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「ここ、地名からもう嫌な感じがします」

ボス「地名に罪はない」

ヤス「でも、安田ですよ」

ボス「地名に罪はないが、予感はある」


夕方の姫路は、神戸とは少しだけ空気が違っていた。

駅前の明るさを離れると、道はすぐに細くなる。

古い店と新しい看板が、何となく折り合いをつけながら並んでいる。


その中に、目的の店はあった。


赤い提灯。

焦げた木の看板。

入り口の横に、魚の骨みたいな傘立て。


看板には、太い筆文字でこう書かれていた。


居酒屋 ヤス兵衛


ヤス「やっぱり嫌な感じです」

ボス「入るぞ」

ヤス「入る前から負けた気がします」

ボス「事件に勝ち負けを持ち込むな」


暖簾をくぐると、焼き魚の匂いがした。


店の中は、思ったより狭い。

そして、思ったよりヤスっぽかった。


ヤス「ボス、この店、生ビール百円ですよ」

ボス「安いな」

ヤス「焼き魚もオール八十円です」

ボス「安いな」

ヤス「これは安いですね」

ボス「何回言う」

ヤス「ヤスだけに」

ボス「言うと思った」


カウンターが七席。

奥に小さな座敷が二つ。

壁には、色あせた競馬のポスターと、どこかの港で撮ったらしい写真が貼られている。


カウンターの奥で、白髪混じりの男がグラスを拭いていた。


男「いらっしゃい」


声は低い。

顔は笑っているが、目は笑っていない。



ヤス「ボス、生ビール百円ですよ」

ボス「仕事中だ」

ヤス「百円でもですか」

ボス「百円でもだ」




ボス「ネルソン・ヤスシさんか」

男「そうや」

ヤス「本当にネルソン・ヤスシさんなんですね」

男「本当にって言われても困る」

ボス「店主か」

ネルソン「この店の大将や。姫路で三十年やっとる」

ヤス「ネルソンさんなのに関西弁なんですね」

ネルソン「姫路で店やっとんねん。そらこうなる」


ネルソン・ヤスシ。


姫路市安田。

居酒屋ヤス兵衛。

店主ネルソン・ヤスシ。


ヨシヒコは、手帳を開く前に一度だけ目を閉じた。


ボス「住所、店名、店主名の全部がうるさいな」

ヤス「ボス、本人の前です」

ネルソン「よう言われる」

ヤス「言われるんですね」


ネルソンは、拭いていたグラスを棚に戻しかけた。


ネルソン「で、警察が何の用や」

ボス「小宮末広を知っているな」


ネルソンの手が止まった。


ネルソン「……誰から聞いた」

ヤス「コミヤスエヒロさんです」

ネルソン「読みまで言わんでええ」

ボス「通称、ヤス」

ネルソン「この店で通称まで確認するな」


その時、店の暖簾が揺れた。


女「ネルソン、まだ開いてる?」


背の高い外国人の女と、丸顔の男が入ってきた。

女は慣れた様子でカウンターの端に座り、男はその隣に腰を下ろした。

丸顔の男は、すでに店に入る前から少し酔っているように見えた。


ネルソン「おヤス、今日はもう面倒な客がおる」

ヤス「おヤス?」

ボス「反応するな」


女「私のこと。店では、おヤスで通ってる」

ヤス「本名をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

女「オコエ・ヤスミン・デ・ラ・サンティシマ・ヤスニダード・ネルソン」

ヤス「長い」

ボス「店のメニューより長い」

オコエ「だから、おヤスでいい」

ヤス「結局ヤスなんですね」

ボス「この店は出口がないのか」


丸顔の男が、にこにこしながら手を上げた。


男「ワタシ、ヤン・スイホー」

ヤス「ヤン・スイホーさん……」

ボス「何だ」

ヤス「ヤスっぽいけど、ヤスじゃないですね」

ボス「ついにお前も判定を始めたか」

ヤン「ワタシ、ヤス違ウデヤンス」

ヤス「語尾で寄せてきた」

ヤン「寄セテナイデヤンス」

ボス「自覚がないのが一番たち悪い」


ネルソン「お前ら、話を増やすな」

ボス「小宮末広のことを聞きに来た」


オコエは、座る途中で動きを止めた。


オコエ「……小宮?」

ネルソン「おヤス!!」

オコエ「その名前、まだ出るんだ」

ヤス「知っているんですか」

オコエ「この店で、昔よく聞いた名前だからね」

ネルソン「おヤス」

オコエ「ごめん。でも、間違ってない」


ネルソンはカウンターに肘をついた。

その動きはゆっくりだったが、店の空気は少しだけ固くなった。


ネルソン「小宮の名前を出したんは、誰や」

ボス「本人だ」

ネルソン「まだ生きとるんか」

ヤス「失礼ですね」

ネルソン「そういう意味やない」

ボス「どういう意味だ」

ネルソン「昔の名前は、死んだあとに出ることが多い」


オコエが、グラスを置いた。


ボス「佐々木キミヤスを知っているか」

ネルソン「名前はな」

ヤス「来たことは」

ネルソン「最近は来てへん」

ボス「最近は?」

ネルソン「昔は知らん」

ボス「キミヤスは、ローン山側の名前を追っていた」


その言葉に、オコエが少しだけ顔を上げた。


ヤス「……反応しましたね」

オコエ「ローン山側。まだその名前、残ってるんだ」

ボス「知っているのか」

オコエ「知ってるというより、聞いたことがあるだけ。この店で、昔の人たちがよく話してた」

ネルソン「おヤス、そこまでや」



ネルソンは、カウンターの隅に置いていたグラスを取り、一気に飲み干した。



オコエ「まだ何も言ってない」

ボス「言われる前に止めたな」

ヤス「つまり、言われると困ることがあるんですね」

ネルソン「刑事は、酒の席の昔話まで事件にするんか」


ボス「人が死んでる……」



ネルソンは、空になったグラスを置いた。



ネルソンは、小さく息を吐いた。



ネルソン「ローン山側のことを聞きに来たんやろ」

ボス「ああ」

ネルソン「古い話や」

ボス「古い話ほど、人が死ぬ」

ネルソン「小宮にも同じこと言うたか」

ボス「言った」

ネルソン「なら、あいつは黙ったやろ」

ボス「黙った」

ネルソン「正しい。しゃべったやつから、順番に不幸になる」



店の外を、車が一台通り過ぎた。

その音が、やけに大きく聞こえた。


オコエ「ネルソン……」

ボス「……」


ネルソン「黙っとけ」

オコエ「嘘は下手だよ」

ヤン「酒ノ席、嘘ツクノ、ヨクナイデヤンス」

ネルソン「スイホー、お前は飲め」

ヤン「飲ンデルデヤンス」

ボス「なら、少ししゃべれ」

ネルソン「刑事さん、酔っぱらいから事件を作るな」

ボス「酔っぱらいは余計なことを言う。そこがいい」



ヤン・スイホーは、嬉しそうにグラスを掲げた。



ヤン「ローン山側、古イ名前デヤンス」

ヤス「知ってるんですか」

ヤン「聞イタダケデヤンス。昔、ココデ、ミンナ話シテタデヤンス」

ボス「誰が話していた」

ヤン「ミンナデヤンス」

ボス「一番困る答えだ」

ヤン「昔ノ人、名前ムズカシイデヤンス。ヤス、ヤス、イソベ、ヤス、ヤス、ヤス……」

ヤス「雑に混ぜないでください」

ボス「今、磯辺と言ったな」

ヤン「言ッタカナ、デヤンス」

オコエ「……」

ネルソン「お前ら、もう黙れ」


ネルソンの声が、少し強くなった。

奥の座敷の空気が止まる。


ボス「磯辺とは、コウゾウか。トシユキか」

ネルソン「このへんで磯辺いうたら、一人やない」

ヤス「逃げましたね」

ネルソン「逃げたんやない。間違えたら、余計な死人が出る」

ボス「物騒な言い方だな」

ネルソン「物騒な話をしに来たんは、そっちや」


オコエは、しばらく黙っていた。

それから、ネルソンではなく、ヨシヒコを見た。


オコエ「そのキミヤスって人は、店じゃなくて、昔ここで飲んでいた人たちを探してたんじゃない?」

ボス「どういう意味だ」

オコエ「ローン山側の関係者。この店にいた古い客たち」

ヤス「ローン山側の関係者ですか」



オコエ「そう」



ネルソン「おヤス」

オコエ「もういいでしょ。死人が出てる」



ネルソンは、口を閉じた。



ボス「キミヤスは何を知りたがっていた」

オコエ「帳簿」

ヤス「また帳簿ですか」

オコエ「それと、花の絵」

ボス「花の絵」

オコエ「昔、ここでその話をした人がいた。花の絵の裏、押してはいけないボタン、犬の飯。みんな笑ってた」

ヤス「笑う話ですか」


オコエ「酒の席では、笑えない話ほど笑うものだよ」

ボス「誰が話した」

オコエ「そこまでは知らない」

ネルソン「知らんことにしとけ」

ボス「知っている顔だな」

ネルソン「刑事さんは、人の顔を見るのが好きやな」

ヤス「ボスは顔で取り調べしますから」

ボス「していない」



ヤンが、また手を挙げた。



ヤン「イソベサーンも、昔ココ来タデヤンス」

ネルソン「スイホー」

ヤン「ナンタラカンターラ、花、帳簿、ヤス、ヤス……」



オコエ「スイホー、そこまで」



ヤン「大将、カエルデヤンス」

ボス「待て!!」


ヤン「ワタシ、ナニモ知ラナイデヤンス」

ヤス「今、知ってる人の帰り方でした」

ヤン「知ラナイデヤンス」

ボス「なら、なぜ帰る」

ヤン「眠イデヤンス」

ヤス「理由が急に普通ですね」



ヤン・スイホーは、ふらふらと立ち上がった。

ネルソンが代金はいらないというように手を振ると、ヤンは深く頭を下げた。



ヤン「大将、ゴチソウサマデヤンス」

ネルソン「もう来んな」

ヤン「明日来ルデヤンス」


そう言って、ヤンは店を出ていった。



暖簾が揺れた。

外の空気が少しだけ入り、すぐに消えた。



ボス「逃がしてよかったのか」

ネルソン「追いかけても、あれ以上は出えへん」

ヤス「でも、磯辺って言いました」

ネルソン「言葉だけなら、酔っぱらいでも言える」

オコエ「でも、スイホーは見たことを混ぜる」


ボス「……」



ボス「本当のことを少しだけ混ぜる」

オコエ「そう。それが一番たち悪い」


ヨシヒコは鉛筆の芯を舐め、手帳に書き込んだ。



ローン山側。

磯辺。

花の絵。

帳簿。

ヤス兵衛。

キミヤスは、ここを探していた。



ボス「三日前、キミヤスは新開地の元気にいた」

ネルソン「お好み焼き屋か」

ボス「知っているのか」

ネルソン「名前だけや」


オコエ「キミヤスさん、そこで何か話したんだ」

ヤス「ええ。ローン山側と、コウゾウさんと、花の絵のことを」

ボス「そして、店を出たあと、誰かに追われていた」



ネルソン「……」



ボス「雨も降っていないのに、傘を持った男だ」



ネルソンの指が、カウンターを一度だけ叩いた。



ボス「心当たりがあるな」

ネルソン「傘は、雨の日だけのもんやない」

ヤス「どういう意味ですか」

ネルソン「昔は、合図に使うこともあった」

ボス「誰の合図だ」

ネルソン「知らん」

オコエ「ネルソン」

ネルソン「知らんと言うたら知らん」

ボス「小宮末広か」

ネルソンは答えなかった。



その沈黙は、知らない人間の沈黙ではなかった。



ヤス「ボス」

ボス「ああ」

ヤス「元気に戻りましょう」

ボス「セツ子に写真を見せる」

ヤス「傘の男が誰か、顔を覚えているかもしれません」

ボス「覚えているだろうな」

ヤス「なぜです」

ボス「雨も降っていないのに傘を持っている男は、覚えられる」


オコエが、小さく笑った。


オコエ「この町では、ヤスより傘の方が珍しいかもね」

ヤス「それはそれで嫌ですね」



ネルソンは、棚から古い徳利を出した。

しかし、酒は注がなかった。

ただ手に持ったまま、しばらく眺めていた。



ネルソン「刑事さん」

ボス「何だ」

ネルソン「小宮を追いつめすぎるな」

ボス「なぜ」

ネルソン「あいつは、強い人間やない」

ヤス「なら、なぜ黙ってるんですか」

ネルソン「弱い人間ほど、黙るしかない時がある」

ボス「誰を怖がっている」

ネルソン「それを聞くなら、小宮に聞け」

ボス「小宮が話さなければ」

ネルソン「その時は、もう遅いかもしれん」


店の奥で、時計が鳴った。

八時だった。


ヨシヒコは手帳を閉じた。


ボス「行くぞ、ヤス」

ヤス「はい」

オコエ「また来る?」

ボス「必要なら」

オコエ「必要になると思うよ」

ヤス「縁起でもないですね」

オコエ「この事件、縁起のいい名前が一つもないから」


ネルソンは、何も言わなかった。

ただ、暖簾をくぐる二人の背中を見ていた。


外に出ると、姫路の夜は少し冷えていた。


ヤス「ボス」

ボス「何だ」

ヤス「ヤン・スイホーさん、ヤスじゃないのに濃かったですね」

ボス「名前がヤスではない分、デヤンスで補っていた」

ヤス「補う必要あります?」

ボス「この事件では、なぜかある」


ヨシヒコは、暗い道の先を見た。


次に行く場所は決まっていた。


新開地。

お好み焼き、元気。


三日前、キミヤスを見た店。

そして、雨も降っていないのに傘を持った男を見た店。


その男が、小宮末広なのか。


まだ答えは出ていない。


ただ、また一つ、ヤスではないはずの名前が、ヤスの方へ近づいていた。


次回、第一章 EP10「傘の男」。

雨も降っていない夜に、傘を持つ男がいました。

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