第一章 EP08 呼んでない
取調べ本部には、朝から妙な緊張感があった。
緊張感だけはあった。
事件が進んでいるかどうかは、別の問題である。
机の上には、鑑識資料。
壁には、現場写真。
ホワイトボードには、佐々木キミヤス、磯辺コウゾウ、磯辺トシユキ、康三郎、犬のヤス、傘の男、と書かれている。
その下に、誰かが小さく書き足していた。
ヤス、多すぎ。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「誰ですか、あれ書いたの」
ボス「知らん」
ヤス「僕ではないです」
ボス「今、それを言う必要はない」
ヤス「でも、こういうのは先に否定しておかないと、だいたい僕のせいになります」
ボス「お前の普段の行いだ」
ヤス「ひ、ひどい」
部屋の隅で、小さな白いロボットが電子音を鳴らした。
尋問支援AIロボット、ヤスード改。
ヤスード改「情報整理を開始しますやで」
ボス「開始するな。命令を待て」
ヤスード改「命令待ちモードは、旧型文例と相性が悪いです」
ヤス「どういう意味ですか」
ヤスード改「黙っていると、勝手に戻れなくなります」
ボス「それを直してから現場に出せ」
ヤスード改は、何も気にしていない様子で画面を白く光らせた。
ヤスード改「鑑識資料によると、死亡推定時刻は午前一時から二時の間やそうです」
ヤス「通報は?」
ヤスード改「午前二時十三分ですわ」
ヤス「かなり早いですね」
ボス「死体を見つけた人間は、死亡直後に現場を知っていた可能性がある」
ヤスード改「せやから、通報者はかなり重要ですやで」
ボス「最後の“やで”だけ雑だな」
ヤス「お互い残業中でしたね」
ボス「ああ。とりあえず、お前の容疑は晴れたな」
ヤス「まだ犯人だと疑ってたんですか! ひ、ひどい」
ボス「紙片にヤスと書いてあった」
ヤス「雑すぎる根拠です」
ヤスード改「名前だけで容疑者を抽出する捜査は、非推奨です」
ボス「お前が言うな」
ヤスード改の画面に、関係者の一覧が流れた。
佐々木キミヤス。
真野ヤスヒロ。
犬のヤス。
康三郎、通称ヤス三郎。
ヤス田刑事。
小宮末広。
ヤス「一人、読みに罠がありそうですね」
ボス「小宮末広か」
ヤスード改「読みは、コミヤスエヒロ」
ヤス「コミヤスエヒロ」
ボス「またヤスか」
ヤスード改「通称、ヤス」
ヤス「二段階でヤスでした」
ボス「名前が逃げ道を塞いでくるな」
課長が、資料を片手に部屋へ入ってきた。
顔には、すでに疲れが出ていた。
課長「鈴木」
ボス「はい」
課長「今度はちゃんと捜査しているんだろうな」
ヤス「今のところ、AIがしています」
課長「鈴木」
ボス「しています」
ヤス「AIが」
ボス「人間もいる」
ヤスード改「人間側の処理速度は、やや低めです」
ボス「黙れ」
課長はホワイトボードを見た。
課長「小宮末広?」
ボス「コウゾウの屋敷に昔出入りしていた元警備員です。花の絵の裏のボタン、犬のエサ皿の仕掛けを知っている可能性があります」
ヤス「地下迷路はありませんでした」
課長「誰も聞いていない」
ヤス「一応、重要な確認なので」
ボス「重要ではないが、確認はした」
ヤスード改が電子音を鳴らした。
ヤスード改「補足。小宮末広は、二十年以上前、磯辺コウゾウ宅の警備と改修立会いに関与しています」
ボス「改修立会い?」
ヤスード改「古い台帳に記録があります。手書きです」
ヤス「手書きの台帳まで読めるんですか」
ヤスード改「画像解析しました」
ボス「そこは有能だな」
ヤスード改「褒められましたやで」
ボス「やでを消せ」
ヤスード改は続けた。
ヤスード改「なお、同時期の出入り記録に、安田姓の警察関係者の照会履歴があります」
ボス「安田?」
ヤス「今、安田って言いました?」
課長「呼んだ?」
廊下の方から、別の声がした。
ヤス田刑事「呼びました?」
取調べ本部の入口に、ヤス田刑事がひょこっと顔を出していた。
ボス「呼んでない」
ヤス「呼んでないです」
課長「呼んでない」
ヤス田刑事「三人で言わなくても」
ヤスード改「名前に反応しました」
ボス「人間もAIも、名前で釣られるな」
ヤス田刑事は、少し笑ってから資料を持ち上げた。
ヤス田刑事「鑑識の追加資料です。死亡推定時刻の正式な報告書」
ボス「置いていけ」
ヤス田刑事「はい」
ヤス「ヤス田さん」
ヤス田刑事「何?」
ヤス「安田姓の照会履歴、心当たりあります?」
ヤス田刑事「安田なんて、兵庫にいくらでもいるでしょう」
ボス「……」
ヤス田刑事「それに、呼ばれてないので戻ります」
ヤス田刑事は、そう言って廊下へ消えた。
ヤス「今の、少し変じゃないですか」
ボス「変だが、今は追わない」
ヤス「どうして」
ボス「追う名前が多すぎる」
ヤスード改「この事件は、ヤス過多です」
課長「AIに言われると腹が立つな」
*
小宮末広は、思ったより早く取調べ本部に来た。
年齢は七十前後。
背は低い。
古いジャンパーを着て、帽子を両手で握っている。
取調室に入るなり、部屋の隅にいるヤスード改を見て、顔をしかめた。
コミヤスエヒロ「なんや、それ」
ヤスード改「更生済みAIロボットですやで」
コミヤスエヒロ「帰ってええか」
ボス「だめです」
ヤス「気持ちは分かります」
ボス「分かるな」
コミヤスエヒロは椅子に座った。
その動きはゆっくりしているが、目だけは妙に落ち着かない。
ボス「小宮末広さん」
コミヤスエヒロ「その呼び方、久しぶりに聞いたな」
ヤス「普段は何と呼ばれてるんですか」
コミヤスエヒロ「ヤス」
ヤス「でしょうね」
ボス「でしょうねで済ませるな」
ヨシヒコは資料を置いた。
ボス「磯辺コウゾウさんの屋敷に、昔出入りしていましたね」
コミヤスエヒロ「昔の話や」
ボス「警備員として?」
コミヤスエヒロ「警備員いうても、たいしたもんやない。夜に見回って、鍵を確認して、犬に吠えられるだけや」
ヤス「犬のヤスですか」
コミヤスエヒロ「あの犬は、まだ生きとるんか」
ヤス「今の犬のヤスです。たぶん代替わりしてます」
ボス「犬の継承を確認するな」
コミヤスエヒロは、少しだけ口元を緩めた。
だが、花の絵の写真を机に置くと、その表情は消えた。
ボス「この絵に見覚えは」
コミヤスエヒロ「知らん」
ヤス「早いですね」
ボス「写真を見てから答えてください」
コミヤスエヒロ「見ても知らん」
ヤスード改「反応速度が不自然です」
コミヤスエヒロ「黙らせろ、その白いやつ」
ボス「同感ですが、今は使います」
ボスは次の写真を置いた。
絵を外したあとの壁。
小さなボタン。
コミヤスエヒロの指が、帽子の縁を強く握った。
ボス「これも知らない?」
コミヤスエヒロ「……犬の飯やろ」
ヤス「知ってるじゃないですか」
コミヤスエヒロ「見たら分かる」
ボス「普通は分かりません。少なくとも、昨日の我々は地下迷路を少し期待しました」
ヤス「ボスも期待してましたよね」
ボス「していない」
コミヤスエヒロ「地下なんかない」
ボス「なぜ言い切れる」
コミヤスエヒロ「花隈のあのへんで地下を掘ったら、水が出る」
ヤス「コウゾウさんと同じこと言ってますね」
ボス「同じものを知っている人間の言い方だ」
コミヤスエヒロは黙った。
ヨシヒコは手帳を開き、鉛筆の芯を舐めた。
ボス「この仕掛けは、最初から犬のためだったんですか」
コミヤスエヒロ「知らん」
ボス「それは、知らないのか、言えないのか」
コミヤスエヒロ「どっちでも同じや」
ヤス「違います」
コミヤスエヒロ「若いの」
ヤス「はい」
コミヤスエヒロ「世の中には、違っても同じにせな生きていけんことがある」
ヤス「また名言っぽく逃げました」
ボス「だが、逃げ方は覚えておく」
ヤスード改が、机の横で小さく回転した。
ヤスード改「関連語を提示します」
ボス「言え」
ヤスード改「ローン山側」
コミヤスエヒロの顔色が変わった。
ヤス「反応しましたね」
コミヤスエヒロ「古い名前を出すな」
ボス「古い名前ほど、今になって人を殺します」
コミヤスエヒロ「……誰が言うた」
ボス「佐々木キミヤスさんが、その名前を探っていた」
コミヤスエヒロ「キミヤスが」
ボス「あなたも知っていた」
コミヤスエヒロ「知っとっただけや。わしは、何もしてへん」
ヤス「何もしてない人は、先にそう言うんですね」
コミヤスエヒロ「してへんもんは、してへん」
ボスは、声を少し落とした。
ボス「午前二時十三分。神戸県警の黒電話に通報がありました」
コミヤスエヒロ「……」
ボス「男の声でした。『花隈町で、人が死んどる』」
コミヤスエヒロ「知らん」
ボス「まだ、あなたとは言っていません」
コミヤスエヒロ「言う顔をしとる」
ヤス「ボス、顔で取り調べしてます」
ボス「していない。顔も見るが、顔だけでは決めない」
コミヤスエヒロは、目をそらした。
その横顔は、急に老けて見えた。
コミヤスエヒロ「……わしは、もう関係ない」
ボス「関係ない人間は、呼ばれてもここまで来ません」
コミヤスエヒロ「呼ばれたら来るやろ。警察やぞ」
ヤス「それはそうです」
ボス「納得するな」
ヤスード改の画面に、白い文字が流れる。
ヤスード改「追加候補。姫路市安田」
ボス「姫路?」
ヤス「安田?」
課長「呼んでないぞ」
ボス「まだ誰も呼んでません」
ヤスード改「ローン山側関係者の古い会合記録に、姫路市安田の飲食店名が残っています」
ボス「店名は」
ヤスード改「居酒屋ヤス兵衛」
ヤス「もう嫌な予感しかしません」
ボス「店主は」
ヤスード改「ネルソン・ヤスシ」
ヤス「ネルソン・ヤスシ」
ボス「住所、店名、店主名の全部が事件を起こしている」
コミヤスエヒロが、小さく笑った。
笑ったというより、諦めたように息が漏れた。
コミヤスエヒロ「そこまで出たんか」
ボス「知っているんですね」
コミヤスエヒロ「ローン山側のことを聞きたいなら、ヤス兵衛に行け」
ヤス「姫路市安田の?」
コミヤスエヒロ「そうや」
ボス「ネルソン・ヤスシに聞けばいいのか」
コミヤスエヒロ「ネルソンだけやない。あの店には、おヤスもおる」
ヤス「おヤス?」
ボス「反応するな」
コミヤスエヒロ「本名は長い。覚えんでええ」
ヤス「そこまで言われると気になります」
コミヤスエヒロ「オコエ・ヤスミン……そこから先は本人に聞け」
ボス「オコエ・ヤスミン」
ヤス「またヤスですね」
ボス「もう驚くな。驚くだけ時間が削れる」
コミヤスエヒロは、帽子を握り直した。
コミヤスエヒロ「ただし」
ボス「何です」
コミヤスエヒロ「あの店で、誰が何を言うても、全部を信じるな」
ヤス「嘘をつくんですか」
コミヤスエヒロ「嘘をついてるうちは、まだましや」
ボス「どういう意味だ」
コミヤスエヒロ「本当のことを少しだけ混ぜるやつが、一番たち悪い」
その言葉を最後に、コミヤスエヒロは黙った。
*
コミヤスエヒロが帰ったあと、取調べ本部には、妙な静けさが残った。
ヤス「姫路市安田」
ボス「居酒屋ヤス兵衛」
ヤス「店主、ネルソン・ヤスシ」
ボス「常連、おヤス」
ヤス「もう、旅行先としても嫌です」
ボス「観光ではない」
ヤスード改が、楽しそうに電子音を鳴らした。
ヤスード改「次の目的地を設定します。兵庫県姫路市安田」
ボス「勝手に設定するな」
ヤスード改「候補エピソード名を表示します」
ヤス「そこまでやるんですか」
ヤスード改「ヤスまみれ」
ボス「消せ」
ヤス「でも、だいたい合ってます」
ボス「合っているから困るんだ」
課長が、ホワイトボードを見た。
ヤスの文字が、また増えていた。
課長「鈴木」
ボス「はい」
課長「ちゃんと捜査をしてこい」
ボス「しています」
ヤス「今回はAIもしています」
課長「AIに負けるな」
ボス「負けていません」
ヤスード改「現在、情報整理能力では勝っています」
ボス「黙れ」
ヨシヒコは手帳を閉じた。
キミヤスの死。
三日前の元気から出た傘の男。
花の絵。
ボタン。
犬のエサ皿。
コミヤスエヒロ。
姫路市安田。
居酒屋ヤス兵衛。
ネルソン・ヤスシ。
オコエ・ヤスミン。
線は、つながっているようで、まだただの落書きに近かった。
それでも、線は増えていた。
ヤス「ボス」
ボス「何だ」
ヤス「今度こそ、捜査進みましたね」
ボス「ああ」
ヤス「でも、行き先がヤスまみれです」
ボス「そこはもう、諦めろ」
ヤスード改の画面に、白い文字が浮かんだ。
ヤスード改「注意。ヤスが増えすぎています」
ボス「知っている」
こうして、次の行き先は決まった。
兵庫県姫路市安田。
居酒屋ヤス兵衛。
そこにいるという男の名前は、ネルソン・ヤスシ。
そして、もう一人。
店では、おヤスと呼ばれる女がいるという。
次回、第一章 EP09「ヤスまみれ」。
そろそろ誰か、ヤスの整理表を作った方がいい。




