Scene.4 怪物・絶
酷くグロテスクなシーンがございます
拙い文章ではありますが あなたの心に触れられたら 幸いです
爪先を追い掛けながら、赤信号の横断歩道を悠然と渡り……煌々と光るコンビニの前を足早に通り過ぎて……シャッターの降りた商店街に続く道に差し掛かる。
――そこで信じられない光景を目撃した。
「嘘、だろ……!」
そこが運命の三差路。
人生は選択の連続である――そう誰かが言った。
その日、身に付ける衣服。
玄関から出掛ける際、どちらの足から一歩を踏み出すか。
食事の献立をどうするか。
日常の些細なものから、受験や就職、結婚といった将来に関わる重要な事柄も含めて。
あみだくじのように無数に伸びる道の中から掴んだ、たったひとつの選択が吉凶を呼び、その後の展開を決定づける。
人生には無数の選択肢と、それに伴う分岐点があるのだが、俺は今いずれとも毛色の異なる状況に直面している。
少女が襲われている。
それも、なんとも形容し難い異形で、生物として異質な物体……怪物に。
まさかという驚愕。
ついにきたかという歓喜と、それを消し飛ばすほど大きな恐怖。
衝撃のあまり声が掠れ、悲鳴が上がらなかったのは幸いだった。
少女と相対する怪物は、第三者の存在に気づいていない。
これをチャンスと見た俺は、すぐさま助けを呼ぼうと携帯端末を取り出す。
しかし画面をタップし、警察の電話番号を入力していた指が、不意に脳裏をよぎったある疑問から止まる。
(警察でいいのか……?)
相手が暴漢であれば警察機関に通報するのが正解だが、常軌を逸した怪物を対象とした場合ではどうなのだろう。正しく対処されるのだろうか。
(怪物退治なんか馬鹿げた話だが、現にこうして実在しているんだから、警察とは別の……そう、例えば怪物を専門とした地下組織を――いや、待て。どの道、警察に通報したとして、警察官が駆け付けるまでの間、襲われている子が無事でいられるとは到底思えない。なら、いっそ俺が助けに入って――いやいや待て待て落ち着け! そもそもだ)
どうして俺が、見ず知らずの少女のために危険を冒す必要があるのか。
暴力に晒され危機に瀕する乙女。
ここでヒーローが颯爽と登場するようなことになれば、少年心を熱くする展開だが、一向にその気配が訪れない。
(だから俺が、その代役をやれってか……?)
小刻みに震えている掌を見下ろす。
並みの猛獣より凶悪な怪物を前にして、この手には対抗し得る武器となるものがなく、特別な技能や訓練を積んでいない一般人では力不足だ。
ならばと助けを求め周囲を見渡すが、この場にはヒーローはもちろんのこと、目撃者が誰一人としていない。
だから、唯一の目撃者である俺に救助の義務が生じるのだと、さも当然のことのように考えていたが、それは同時に、ここで少女を見捨てたとしても咎める人間はいないということでもある。
(そう、だな……)
人命救助は立派だが、現実的に考えて、得られるのは精々表彰を受ける程度の功績だろう。
そんな褒賞のために命を張るなんて酔狂が過ぎる。
まったくもってリスクとリターンが釣り合わないではないか。
(あり得ない)
物事の費用対効果を重視する俺は、良くも悪くも等身大の現代人だ。
「――っ!?」
混乱が及ぼした逡巡は一瞬。
されど切迫した状況下において、それは致命的なタイムロスだった。
足が縺れ尻餅をつく少女へ、怪物は外骨格に覆われた腕を突き出す。
所々体毛に覆われた不気味な節足は、昆虫とは似て非なるもので、その先端には鋭利なスパイクがぞろりと生え揃っており、街灯の下で寒々しく輝いている。
動物と異なり、丈夫な獣毛または鱗や甲殻といった守りを持たない人間の皮膚など、容易く引き裂いてしまいそうだ。
立ち上がれずにいる少女へ、いよいよ狙いを定めた怪物は、凶悪な節足を振り上げる――。
瞬間、俺は少女と目が合う。
その瞳は疾うに生を放棄しているように虚ろであり、絶望の淵で助けを求めている、そんな気もした。
窮地に立たされている少女を前に、自らのヒロイズムを焚き付けようとした、そんな俺の思い込みだろうか。
無慈悲にも怪物が節足を振り下ろし、少女の肢体が引き裂かれ血しぶきが噴き出す――――より早く、俺の体が動く。
凶刃が届く寸前のところで、少女の手を引いて連れ出した。
あまりに無謀な行動。
怪物は、邪魔者である俺をも標的として定め、逃げる2人を追い掛けて来る。
もし捕まれば、おそらく次の朝日は拝めない。
死の鬼ごっこが開幕した。
「だ、大丈夫だ! きっと俺が助けてやる!」
(やばいやばいやばいやばいやばい――)
被害者である少女の手前、いい格好しいの俺は、なけなしの勇気を振り絞り精一杯の虚勢を張る。
内心の怯えが繋いだ手から、少女に伝わってしまっているだろうか。
シャッターの降りた商店街に続く道を抜けて――煌々と光るコンビニで助けを求める暇もなく――赤信号を無視して横断歩道を駆ける――そこで、あろうことか今度は俺の足が縺れ、少女諸共激しく転倒。アスファルトに体を打ち付け肌を擦り剥く。
「う、くっ……クソッ、こんなときに……!」
少女を引っ張り無理なフォームで走ったせいで、交通事故の後遺症である膝の痛みがぶり返す。
けれども俺は腐ってもスポーツ選手。
これが、もしも1人の逃走劇であったのなら、なんとか逃げ切れていただろう。
『見捨てるのであれば早い方がいい』
隣でうずくまる少女を見やり心の中で悪魔が囁く。
唐突に残酷な決断を迫られた俺は、否定材料を探し、奇しくも状況が似通っている、いつか見た動物のドキュメンタリー番組を想起し、直面している現状と照らし合わせる。
――それは草原で繰り広げられる大自然の営み。弱肉強食の世界における有り触れた狩猟の一幕。
ライオンに襲撃を受けたヌーの群れは、呑気に草を食み逃げ遅れた1頭を犠牲にして逃げおおせるというもの。
狩猟において、被捕食者は必ずしも捕食者より早く走る必要はない。
隣を走る群れの一員より速く走ればいいのだ。
逃げ遅れた同胞が餌食になっている間に、距離を稼げば助かるのだから。
すなわち、目下のところ生存競争の相手は、外敵よりも群れの仲間の方であり、その教訓は野生を失くした人間にさえも当てはまるのではなかろうか。
したがって、俺が直面している窮地を脱するためには少女を囮に――。
(バカ野郎! そんなの本末転倒もいいとこだろうが!)
俺は現実逃避とも思える、馬鹿げた回想を一蹴した。
臆病風に吹かれた弱虫が苦悩している間にも、ぐんぐんと怪物との距離は詰まり、ついには追いつかれてしまう。
「畜生が! やれるもんならやってみやがれ!」
俺は、浅ましい考えを否定したいがために、我が身を少女の盾にする。
本能が俺に生き延びろと命じる。
けれど徹底的にそれを無視した。
自己犠牲。他人のために自らの命を差し出すのは勇気か狂気か。
ヒロイズムに酔っているのなら、まだいい。
いつか憧憬したヒーローのように身を挺して弱き者を守る。
男子たる者一度は夢見るシチュエーションであり、下心の中でもまだ可愛い部類で、安易であるものの危険に立ち向かう動機としては上々だ。
10代も後半という俺が上記の妄想に耽っているとすれば、いささか痛々しくはあるが、それで実際高潔なヒーロー然として振る舞えるのなら、擦れた世間様に揶揄されるいわれはない。
あるいは純粋な道徳心に燃えていたのなら、どんなに立派だっただろう。
金銭欲や名声欲。
恋仲への発展という情欲。
人助けの後に得られるであろう見返りに期待せず、一切の我欲を捨て、命を賭して人命救助に邁進する。
それは非常に徳の高い振る舞いで、生ける教本と呼ぶに相応しい在り方であり博愛主義の極致だ。
しかし俺の行動原理は、いずれの理由とも異なる。
端的に言ってしまえば贖罪意識からくる破滅願望。
周囲の期待に応えられなかったケジメと言えば聞こえはいいが、要するに慙愧に耐えかねた逃避行動であり、せめて意味のある終わり方を望んだ結果、巡り合ったこの機会を利用しようと画策していたのだった。
自殺は未遂に終わったときが悲惨だと聞く。
運動麻痺や臓器不全を負い、その医療費や、投身自殺等で他人を巻き込んでしまった場合は賠償金などが付いて回る。
死に瀕したときの恐怖。諸々の負債が増え、生き地獄が続くのだ。
けれどそれが他殺で、しかも今回に限ってなら、その心配がなさそうだ。
なぜなら、敵は文字通り人外の力を持つであろう怪物であり、運動能力が犬や猫にすら劣るのろまな人の身など敵わないことは明白。であるならば俺が胸に秘めた破滅願望は現実のものとなるだろう。
俺に目掛けて、怪物の凶悪な節足が振り下ろされる。
命の危機を察知した脳が、本人の意思とは裏腹に、救済の手段を模索し限界を超えフル稼働する。
景色がスローモーションになり、永遠のように間延びした一瞬の最中、俺は己の死期をも予想し暗い喜びに震えた。
当然、死ぬのは怖い。
自殺などもっての他だが、事故や他殺といった突発かつ偶発的にもたらされた死であれば、前もって準備をする必要がない。
老衰にしろ病気にしろ、死は必ず訪れる。
遅いか早いかの違いでしかない、とまでは割り切ったことを言えないが、どうせ死ぬなら人のために命を使いたい。
死に方を選べることは幸福だ。
(一瞬の恐怖と引き換えにして、失くした夢の残滓に蝕まれながら無為に過ごす日々を、この耐え難い今を、どうか綺麗さっぱり消し去ってくれ……!)
だから今まさに、その身が危機に瀕していようとも、俺に後悔はない。
後悔なんて、この世に生れ落ちた時点で今更だ。
――次の瞬間、筆舌に尽くし難い痛みが俺の胴体に走る。
続いて感じたのは熱。
体の内部が爆ぜるような灼熱を感じ、しかしそれとは裏腹に、指先から急激に熱が引き体が冷える感覚に見舞われる。
皮膚と筋膜はまるでバターだ。いとも容易く切り分けられる。
幾重もの血管の束が引き出され断裂。ブチブチと耳障りな音を立て鼓膜を内側から揺らす。
あばら骨の削れる不気味な振動が四肢の関節を軋ませる。
凶刃は尚も留まることを知らず、内部深くに到達すると柔らかい水袋みたいな部位を突き破った。
突如として訪れる脱力感。
遅れて鼻腔をどぎつい鉄臭さが刺す。
視線を落とすと血飛沫により、俺を中心に周囲のアスファルトを赤黒く染めていた。
――ベチャリ……。
明滅する景色。貧血をいっそう酷くしたような眩暈に襲われ、俺はいつの間にか自らが描いた血溜まりに横たわっていた。
幸か不幸か即死こそ免れたが、間違いなく致命傷だ。
助かる手立てなどはなく、刻一刻と流れ出る血液と共に命が零れる。
世界に黒い染みが広がり、その輪郭がぼやけていく。
内と外の境界線が曖昧になる中で、ヒューヒューとやけに大きく聞こえる呼吸音が耳障りだ。
肝心の当人は諦めてしまっているというのに、気持ちとは裏腹に体は生命活動を最後まで続けようともがいているようだ。
どんなに懸命に息を吸っても、体に空いた風穴のせいで、取り込んだ傍から空気が抜けてしまうというのに……。
血反吐を流し、倒れ伏せる俺の上に影が落ちる。
急に横から躍り出たかと大して抵抗をするでもなし、凶刃の餌食になってボロ屑みたいに転がる。そんな不可解な存在を、怪物は興味深そうに観察している。
対する俺は霧散しそうな意識を束ねて、唯一動かせる瞳で怪物の動向を追っている。
殺人鬼がどんな面持ちで人を殺めるのか、また自分を殺す奴がどんな存在なのかを確かめておきたかった。
もっとも醜悪な怪物に喜怒哀楽を感じる知性があればの話だが……。
けれど、やはり人間の俺に、昆虫に似た人外の表情など読み取れるはずもなく、よってその心情を理解するのは叶わなかった。
そうこうしているうちに少女が忽然と姿を消す。
どうやら怪物が俺に気を取られている隙に、無事逃げおおせたようだった。
不条理な暴力に晒され、命の危機に瀕していた少女の身代わりとなり逝く。悪くない結末であり、久しぶりにマシな気分だった。
眠気とは異なる猛烈な虚脱感に襲われ瞼が重たくなる。
目が開いている死体を晒すのも、なんだかみっともない気がして、流れのままに身を委ねることにした。
まず視覚が死に、次いで嗅覚、触覚と続いて……最後まで活きていた聴覚が閉じると、永遠の無に沈み込む。
最期に幾ばくかの満足感を得て、俺の18年に渡る短い生涯は幕を下ろした。
――——そうなるはずだった……あくまで理想の上では。
「こ、こんな訳のわからない死に方ってあるかよ――!」
俺は生存本能に従い、少女を置いて逃げ出す。
形を成した死を前にして臆し、恥も外聞もかなぐり捨てた。
「うわあアあああああああああああああああああァァァーッ!」
半狂乱になって逃げる。
不幸に酔って斜に構えていても、結局のところ生に執着しているガキのリアルな反応だ。
後方で風切り音が鳴り、遅れて小さな悲鳴と共に異音が響いた。
振り返りはしない。
少女の亡骸を見てしまえば、きっと罪悪感に胸を押しつぶされ足を止めてしまうから。
「くそおおおおおおーッ!」
俺は己の無力を呪いながら、怖ろしいやら情けないやらで涙と鼻水で顔をグシャグシャに濡らす。
目を背けたくなるような醜態だが、1人生き残った者に体裁を取り繕う余裕も意味もない。
とっくに心は折れてしまっている。
けれど、背後に迫る濃密な死の気配に脚を突き動かされる。
死地から一歩でも遠ざかれば、生存に一歩近づくはず。
あの角を曲がれば逃げ切れると信じてひたすら逃げる。
逃げる。
逃げる。
逃げて、背中に衝撃が走り、俺は再び転倒する。
「な、なにが……!?」
一時、恐怖も忘れ堪らず振り返ると、必死に走った甲斐あって、もといた場所からはだいぶ離れていた。
怪物とも距離が開いており、直接攻撃されたのではないと知り、ひとまず安堵する。
転倒を誘発させた衝撃の正体がわからず、怪訝に思いながらも体を起こそうと俯いて、なにやら側に球状の物体が転がっているのに気づく。
「――ひっ……!」
俺の喉から掠れた悲鳴が上がる。
物体の正体は、切断された少女の頭部だった。
「嘘吐き」
少女の生首が口を開き、歯の根が合わない俺を批難した。
悪趣味が過ぎる。
まるでB級ホラー映画でも見ているようだ。
ショックのあまり、俺の思考がオーバーフローする。
追跡者の存在も忘れ、無防備を晒してしまっていた。
「ガハッ!?」
――次の瞬間、筆舌に尽くし難い痛みが俺の背中に走る。
あとはすべて先の予感をなぞらえるだけだ。
いくつもの物語の住人の死に思いを馳せ見送ってきたが、いよいよリアルで体験する時がきた。
今度ばかりは助からない。明らかな致命傷だ。
病院のベッドで1年越しに目覚めるなんていう奇跡も起こらないだろう。
毎日、たくさんの誰かが生まれ、そして死んでゆく。
いつか、この世に誕生したときのように、今度は終わりの順番が回ってきた。
この間まで、自分の最期なんて想像したことがなかった。
多くの人間と同じように、遠い未来に年老いてから病床で迎えるものだと漠然と考えていた。
こんなふうに、冷たいアスファルトの上で、外的要因によって訪れるとは予想だにしなかった。
(どうせ死ぬんだ。どうでもいいさ……)
最期に後悔の念を抱いて、俺は18年に渡る、長いようでやはり短い生涯の幕を下ろした。
ご高覧いただき ありがとうございました 次回へ続きます
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