Scene.17 掃き溜めの道・前
拙い文章ではありますが あなたの心に触れられたら 幸いです
「――い……おい。いい加減、目を覚ませ」
耳障りなしゃがれ声によって、此の少年は暗黒から暗闇へと呼び起こされた。
(――俺はッ! …………いったい、何が起きた……?)
思考がまとまらずボンヤリしていると、目覚めが不十分と思われたのか、肩を乱暴に揺さぶられる。
配慮の足りない雑な起こされ方に不満を感じながら、目の前にいる人物に焦点を合わせると、痩せこけていてみすぼらしい中年男が、こちらを覗き込んでいた。
「……誰だ? いや、あんたを知っているぞ」
目覚めた途端、見慣れぬ人間と対面している状況に混乱が生じるが、それも一瞬だけ。見慣れぬ人間ではあるのだが、まるっきり見知らぬ人間ではなかったからだ。
(もしかして、俺はまた気を失ったのか……?)
急な場面展開に、最近はこんなことばかりだと辟易する。気絶するなど尋常じゃないことだが、変な癖でもついてしまっているのだろうか。
「ここは、どこだ……」
照明が申し訳程度に点在しているくらいで、辺りは薄暗い。湿気っぽくて淀んだ空気が漂っている。
目を凝らせば半円状の通路が続いており、耳を澄ませば遠くから水の流れる音が反響していた。
(どこかの水道施設……まさか下水道か!?)
小学生の頃、社会科見学で訪れた水道博物館を思い出す。
あの時、展示されていた下水道に、この場所は酷似している。
そう思った途端、嗅覚に意識が向いて強烈なドブ臭さが鼻を突く。
今の今まで悪臭に気づかずにいられたのは、長く嗅いでいたせいで嗅覚疲労を起こし鈍感になっていたからだろう。
「案ずるな。追手の気配はない」
周辺に立ち込める悪臭に、俺が顔を歪ませていると、何を勘違いしたのか中年男――カラスはそう告げた。
(追手って……管理局員のことか?)
まさか公的機関であり感染症対策行う管理局員が、あのような暴力的な奴らだとは、考えてもみなかった。
(管理局員が暴挙に出たのは、カラスの抵抗が思いのほか激しかったからか? 不測の事態に混乱して、統制が利かなくなっていた? ……いや、違うな)
自ら立てた仮説を即座に否定する。
たしかに、管理局員の筆頭である白鳥という男は、カラスの出現に狼狽えていたが、しかし予め武器を携帯しており有事に備えていた。
まるで業務には揉め事が付き物であるかのように、平然と暴力を振るい戦い慣れている感じがした。
一連の状況から推測するに、世間には隠していただけで、感染者に対する暴力行為は、日頃から行われているのではないだろうか。
そして感染者もまた、そんな管理局員に抗ってきたのだ。
(紫痕症――刻印と称された、あの特別な力を使って)
想起するのは不吉な痣を脈動させ、意のままに風を駆り、管理局員を退けたカラスの鮮烈な姿。
(……俺をどうするつもりだ?)
現在、自分が非常に危うい立場に置かれている事実を認識する。
目の前には法外の力を有する男、カラス。
背後には壁があり、退路は断たれている。
二人の他には誰もおらず、隔てるものは何もない。
奴がその気になれば、俺の命など一捻りにできる状況だ。管理局員にそうした時のように。
(クソッ、いざとなったら……!)
俺は静かに戦う覚悟を決める。
疲弊しているカラスよりは体力的に優ってるはず。それに手が届くほどの近距離だ。あの力さえ使わせなければ勝機はある。
やるなら先手必勝だ。
そして、あっけなく敗北した管理局員の二の舞になるのだ。
「調子はどうだ?」
そんなことを考えて戦々恐々としていると、今日の挨拶を交わすくらい気軽なノリで、カラスが問い掛けてきた。
「不愛想な男と、掃き溜めに打ち捨てられた気分だ」
「存外悪くないということだな。もう担がなくて済みそうだ」
(どこがだよ)
「――ッ……!」
俺が壁に預けていた体を起こしたその時、不意に鋭い頭痛に見舞われた。
身体の節々が痛み、フルマラソンを終えた後のような疲労感がのし掛かる。
(そもそも、あれから何がどうなって、下水道でこいつと共に居るんだ?)
前後不覚に陥ったせいで、ここに至る経緯が曖昧だ。
「暴走だ。刻印の急激な行使により、心身に過剰な負担が掛かったのだろう。あれほど激しいのは別だが、力を得たばかりの時分には、そう珍しいことではない。今後は刻印の使い方と共に、身の振り方を教えてやる」
ペラペラと一方的に説明するカラスに、今のところを害意は見られない。取りあえず差し迫った脅威はなさそうだ。
「暴走? 俺が刻印を? 俺はあの時――ダメだ、やっぱり思い出せねぇ……!」
「集中しろ。冷静に意識が途切れる直前まで記憶を遡るんだ」
記憶の欠落に不安を覚えた俺は、カラスの言葉に従う。何かとても重要なことを忘れている気がしていた。
(落ち着け……落ち着け……冷静に状況を整理するんだ……)
再び瞼を閉じ余計な視覚情報を遮断する。深呼吸――は下水道だから、やめておこう……とにかく、意識を外界から内界へと沈める。
頭の中に掛かる靄を払いながら記憶の糸を辿った。
夢の頓挫と紫痕症の発症に悩まされる日々に、奥歯を噛み締め――。
幼馴染の眩い横顔に頬が緩み――。
謎の美少女との出会いに眉根を寄せ――。
刻印者と管理局員が繰り広げる闘争に拳を握る。
そして――管理局員に銃口を向けられた時の記憶が蘇った。
突然、脳内にフラッシュバックしたのは、あまりにショッキングな殺人事件の映像で――俺は驚愕に目を見開く。
溺れていた者が水面に浮上したときのように、詰まりかけていた呼吸を荒々しく再開。震える体を抱えて擦り、自身の無事を確かめる。
「ハッ、ハッ、ハァッ、ハァ……ハァ……」
「見てのとおり無事だ。少なくとも、お前はな」
「俺、は……? なら、あいつ――リス、そうだ、アリスは!?」
蘇った記憶が正しければ、アリスは管理局員に拳銃で頭を撃たれて絶命した。
まるで否定したい一心で、すっぽりと欠落していた部分だ。目を背けたところで、起きてしまった悲劇は変わらないというのに……。
「あの時、アリスは俺の身代わりになって撃たれた……!」
「仕様のないことだ」
アリスの死に対して、顔色ひとつ変えることなく平然と言い放つカラス。そんな非情な奴を前にして、俺は愕然とする。
「……あんたの連れだろ?」
仲間を失ったというのに、その感想がこれか。
死を悼まず、仕様がないの一言で済ますのか。
それは年の離れた小僧の手前、泣き顔は晒せまいと気丈に振る舞い、年長者としてのプライドを守っている――といった感じの強がりなどではなくて、行動の結果として冷徹に割り切っているようだった。
「アリスが庇わなければ、お前はやられていた。ゆえに、あの局面では最善の行動だった言える」
「俺は――! ……ッ、そうまでしてもらう覚えなんかないんだよ……!」
俺は顔を背けて、絞り出すように言う。この声は微かに震えていた。アリスの死の責任を問われているようで怖ろしかったのだ。
出会って間もないのに、一生費やしても返せないほど、大きな恩の押し売りなんてやめてほしい。有難迷惑だ。
「まあ、今はそうなんだがな。今はな」
鷹揚に頷くカラスには、憂いの欠片も見られない。
「そうか。あんなことができるくらいだから、仲間の命さえも軽くなるんだな」
カラスは人外の能力を振るい、大量破壊を可能としていたが、化物染みているのは何も力だけではないということか。
「そうだ。俺は、俺たちは刻印者だ。死と隣り合わせの過酷な世界で生きている。――ああ、いい。お前の見解など、どうでもいい。また、ここで得心する必要もない。ただ今は全てを飲み込め。一刻も早く、ここを離れるのが先決だ」
カラスの命令口調が、ささくれだった心をさらに逆撫でする。
(身勝手な奴だ。信用できないな)
頭に血が上った俺は、恐怖も忘れて反抗心をあらわにする。
「一緒に逃げろだって? 冗談キツイぜ」
多少マシになった体調を押して立ち上がり、カラスの前から去ろうとするのだが、いくらも進まないうちに肩を掴み呼び止められてしまう。
「どこへ行く?」
「帰るんだよ」
「正気か? 先の戦闘を目の当たりにして、奴らのスタンスくらいは理解しているだろう」
ここで言う奴らとは管理局員のこと。奴らと敵対しているカラスと共に逃亡してしまった以上、俺も関係者として疑われるだろうと、その可能性を示唆される。
「もう誤魔化せないってことだろ。話してやるさ、包み隠さずな」
それが安直な考えだということは、俺とて重々承知だ。
だけど、他に手段はない。
管理局員には、顔を見られているうえに通っている学校も知られてしまっている。向こうがその気になれば、たちどころに生活圏を把握され抑えられてしまうだろう。
だから、例えこれが悪手であれ、唯一残された最善の選択肢ではあるはず。
(どの道、逃げ場なんてないんだ)
俺の左手にある紫痕が不穏に疼く。もはや、いち高校生である俺が、個人でどうこうできる問題ではない。
(こんなことになるなら、躊躇せず正直に発症を申告すればよかった)
隔離治療により、不自由な生活を強いられることへの不満。
感染者に対する差別と、将来に及ぶ悪影響への不安。
錯綜する噂に惑わされて、問題を先送りにしていた。
もしかしたら感染は気のせいかもしれない、などどいう希望的観測に縋っていた。
その結果、気の触れた感染者の仲間として処罰されるのでは目も当てられない。
「話す? 刻……烙印を引っ提げてか? さぞや賑やかな話し合いになるだろうな」
「うるせぇよ」
苦渋の決断を揶揄されて、俺は肩に置かれている鬱陶しいその手を乱暴に振り払ってやった。
「管理局に掴まれば実験動物として一生を終えることになる。そんなことも解らないのか?」
「うるせぇつってんだろ!」
「……本当にアリスに聞いたとおりだな。反抗的で実に幼稚じみている。若くて、未熟。薄っぺらい自尊心を守ろうと、事物の否定に躍起だ」
「知ったふうに……あんたに俺の何がわかるっていうんだ」
「わかるさ。昔、似たような奴に会ったことがある」
カラスは追憶を懐かしむように遠くを見つめていたが、俺から冷めた視線を向けられていることに気づくと、我に返り綻んでいた表情を引き締めた。
「口先ばかりが達者で、感情に流される青二才だ」
「……この野郎――じゃあ、どうすりゃあいいって言うんだ! 住むところを追われ、宛てもなく街を彷徨えってか! ああ!?」
心にもうまったく余裕のない俺は、カラスの安い挑発に乗せられて掴み掛る。
「俺の下へ来い。お前が必要だ」
「――……」
冗談かと耳を疑うセリフだが、カラスの顔は真剣そのものだ。
意中の相手から贈られたのなら心ときめくであろうそれも、同性であっては欠片の嬉しさもなく、むしろサブイボが走る。
「付いてくるというのなら、当面の安全は確保してやる」
「……アリスといい、あんたといい、いったい俺に何をさせるつもりだ?」
もっとも、俺だって額面通りに受け取るほどマヌケではない。
甘い――今回に関しては、まったく甘くはないが……他者を誘う甘言には、やはり必ず裏がある。
事前に相手の要求と相互利益をハッキリさせておくことは、後々のトラブルを避けるために不可欠だ。
この世に見返りを求めず、手放しに信用できる本物の善意があるとすれば、それは両親の――いや、母の愛情くらいなのだから……。
「お前に宿る刻印。それは世界を躍進させる鍵だ。みすみす管理局の手に渡す訳にはいかない」
(そらきた。またこれだ)
どうやら、自らを刻印者と名乗るカラスは、同様の痣を持つ俺を己の陣営に引き入れようと、目論んでいるらしい。
(紫痕症――いや、刻印だっけか……この痣がある俺にも、こいつみたいな能力が秘められているってか。そんなの――)
「――だから、どうしてそれが俺なんだよ……」
「事故のようなものだ。人ごみに石を放ったら、当たったのがお前だった。これはその程度のつまらない話。運命性なんてものを期待していたか? 残念だったな。まあ、ついてないとでも思って諦めることだ。それでも気持ちが収まらないというのなら、何処かにおわす神様でも恨むことだ。俺はそうしている」
「……ふざけてやがる、最悪だな」
俺が吐いた諦念の溜息は、下水の流れる音にかき消される。
もはや、くたびれたように嗤うしかなかった。
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