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第六話 谷は風を拒んだ



「我々は、セフィラード流邦国から離脱する」


 石殻族自治領トゥル・ガランの長老バル・ネウムがその言葉を発したとき、大衡廷を通り抜けていた風は裁判官席の背後に吊られた十二枚の風布を一斉に持ち上げ、法廷中央の未在者席へ置かれていた白紙を床へ落とし、傍聴席の最上段に座る少女の灰色の髪を誰かが後ろから引いたように強く揺らした。


 建国から八百年を越えたセフィラードの歴史において、自治都市や種族共同体が中央政府と税、軍役、土地、信仰をめぐって争った例は数え切れないほど存在したものの、一つの共同体が流律憲章そのものから離れ、構成員の移動と離脱を共同体独自の法によって制限し、国家の裁判権と公籍制度を完全に排除すると正式に宣言したのはこれが初めてだった。


 長老の声は大きくなかった。


 石殻族の年長者には声帯の周囲へ鉱質化が進み、長く話すほど喉へ細かな亀裂が生じる者が多い。バルの声も乾いた岩の隙間を風が通るように低く掠れ、一語ごとに短い間が置かれていた。それでも、その宣言は王都の議場で交わされる怒号より明瞭であり、宣戦を告げる鐘より重く、傍聴席に詰めかけた記録官、新聞記者、自治都市の使節、宗教者、法学院の学生、トゥル・ガランから来た住民たちを、同じ沈黙の中へ座らせた。


 首席衡理官レイヴァン・エル=カディムは、長老へ撤回を促さなかった。


 発言の重大さを説明し直すことも、国家離脱には厳格な手続が必要であると注意することも、法廷における不用意な宣言が後の交渉を狭めると忠告することもなかった。バルは三百二十年以上を生き、トゥル・ガランの法を五十七年間預かり、中央政府との交渉を二十六回経験している。自らの言葉が持つ意味を知らない者として扱うことは、慎重さではなく侮辱になる。


「確認します」


 レイヴァンは、机上の申立書を閉じた。


「トゥル・ガラン評議会は、流律憲章第五条に基づく自治権の拡大を求めるのではなく、憲章の適用そのものを拒み、セフィラードの公籍、裁判権、租税権、行政監督、教育基準、移動の自由に関する規定から、領域および構成員の全体を離脱させると主張する。その理解でよろしいですか」


「よろしい」


「現在トゥル・ガランに居住する者だけでなく、今後そこで生まれる者も」


「我らの谷に生まれる者は、谷の法に属する」


「本人が属することを拒んだ場合は」


「その問いに答える法が、すでに我らの暮らしを壊した」


 中央政府の代理人席で、国家法務官が立ち上がろうとした。レイヴァンは視線だけで待つよう求めた。


「答えを拒まれますか」


「拒んでいない。問いの立て方が、答えを奪っていると申し上げている。生まれた子へ、お前は谷に属することを望むかと尋ねる。その子が言葉を持つ頃には、国の学校が谷の外の暮らしを教え、王都の商人が外の品を見せ、巡回官が外へ出る権利を説き、外へ出た者の成功だけを歌にする。その後で、自由に選べと言う。選ぶ前から、片方の道だけが明るく照らされている」


「共同体の側も、谷へ残る意味を教えるでしょう」


「教える。我らは自分たちの言葉、墓、家石、祖先の記憶、山の名、雨を読む方法、死者を地へ返す歌を教える。それを国は、閉鎖的教育、心理的拘束、離脱への圧力と呼んだ」


「呼び方ではなく、実態を審理します」


「実態とは、誰の目で見た実態か」


 バルはゆっくりと法廷を見回した。


 大衡廷には十三名の衡理官が並び、その下へ公訴側、申立人側、未成年者代理人、自治領代理人、国の行政官が同じ高さで席を置いている。被告人席の檻はなく、裁判官席も王座ほど高くない。王も神官も罪人も同じ高さへ座らせるという大衡法院の理念は、建物の細部にまで刻まれていた。


 トゥル・ガランから来た者たちは、その平等を信じていない。


 彼らの多くは鉱質化の進んだ皮膚を持ち、灰、黒、青白い石の模様を肩や頬へ浮かべ、王都の柔らかな椅子を使わず、持参した平らな岩板へ座っていた。彼らにとって長時間同じ姿勢を保つことは苦痛ではなく、身体を支える地面の材質が変わることのほうが大きな負担となる。法院は事前に床の一部を谷から運ばれた石へ交換し、振動と温度を調整していた。


 配慮は行われている。


 配慮を受ける側が、配慮した制度を信頼する義務はない。


「実態は、複数の目から提出されます」


 レイヴァンは答えた。


「国の記録、自治領の記録、医術官の意見、共同体の慣習、谷を離れた者、残った者、離れることを望む者、残ることを望む者。どれか一つを全体とは扱いません」


「十三名の裁判官が、最後に一つを選ぶ」


「選びます」


「それを全体と呼ばないまま、我らへ従わせる」


「判決とは、その危険を伴うものです」


「認めるのか」


「認めずに判決を下す裁判官を、私は信用しません」


 バルの顔に刻まれた鉱石の筋が、光を受けて鈍く輝いた。


「信用を求めているのか」


「いいえ。理由を聞くことを求めています」


「理由を聞いた後、従わない自由は」


「判決の内容によります」


「それを自由と呼ぶのか」


「呼びません」


 傍聴席がわずかにざわめいた。


 国家法務官は机上の書類から顔を上げ、トゥル・ガラン側の若い法文化通訳は、今の応答を自治領語へ訳すべきか迷うように長老を見た。バルは翻訳を求めなかった。


「法は、すべてを自由にするものではありません」


 レイヴァンは続けた。


「誰かの選択によって別の者の選択が消える場合、境界を引く。共同体の存続を守るために個人を拘束してよいか、個人の離脱を守るために共同体の制度を壊してよいか、本件ではその境界が争われています。どちらかに不利益が生じることを、言葉で隠すつもりはありません」


「国はすでに選んだ」


 バルの声が低くなった。


「谷から子を連れ出した」


 法廷の視線が、傍聴席最上段の少女へ向かった。


 少女の名は、セナ・ヴォル。


 十七歳。


 石殻族の成年は、地域と身体成熟によって異なる。セフィラードの一般法では十六歳から限定的な意思能力が認められ、十八歳で完全な成年となる。トゥル・ガランでは、祖先の記憶を家石から受け取る〈根継ぎ〉の儀式を終えるまで、年齢にかかわらず共同体上の成年とは認められない。


 セナは、根継ぎを拒んだ。


 四十七日前、夜明け前の谷を一人で出ようとし、境界を越えたところで自治領警務隊に拘束された。彼女は国家巡回官へ保護を求め、巡回官は流律憲章が保障する離脱権に基づいて身柄を引き取ろうとした。


 両者の争いの中で、一人の少年が死んだ。


 セナの弟、ルク・ヴォル。


 十五歳。


 姉を谷へ戻そうと追いかけ、国家巡回官が張った風障壁へ身体を打ちつけ、胸部の鉱質層が砕け、内部へ走った亀裂によって死亡した。


 国家側は事故と記録した。


 トゥル・ガランは、国による殺害と呼んだ。


 セナは、どちらの言葉も拒んでいた。


「セナ・ヴォルを谷から連れ出したのは、彼女本人の保護申立てに基づく措置です」


 国家法務官が立ち上がり、発言の許可を求めた。


 レイヴァンは頷いた。


「少女は、根継ぎを拒否したため三日間の沈石室収容を命じられ、食事と家族との面会を制限され、儀式の日まで監視下へ置かれていました。本人が助けを求めた以上、国には保護義務があります」


 バルは法務官を見なかった。


「沈石室は刑罰ではない」


「外から開けられない石室へ閉じ込める行為です」


「根継ぎ前の身体を安定させるための静養室だ」


「本人は、扉を開けてほしいと三十七回訴えています」


「儀式前には、身体と記憶が乱れる。恐怖から逃げようとする者もいる」


「逃げたいという意思を、症状と呼ぶのですか」


「何も知らぬ者が、言葉だけを拾うな」


「国の医術官は、セナの意思能力に問題なしと判断しています」


「国の医術官が、根継ぎを何度見た」


「自治領は外部医術官の立会いを拒否してきました」


「祖先の記憶を検査台へ置かせるつもりか」


 二人の言葉が重なり始めたところで、風鐘が短く鳴った。


 書記官が鳴らしたのではない。


 大衡廷の床下を通る古い風道が、わずかな気流を鐘へ送ったらしい。先日五つの鐘が大陸各地から声を運んで以来、この法廷では時折、開廷の合図とは異なる時刻に風鐘が鳴るようになっていた。


 レイヴァンは鐘を見上げなかった。


「双方、相手が用いた言葉の意図を決めず、自らの主張を述べてください。国家法務官、保護措置が適法であるとの主張は記録されています。バル・ネウム長老、離脱宣言と本件の関係を説明してください」


「国が一人の子を谷から奪った以上、次も起きる。根継ぎを拒む者へ、外から保護を名乗る者が手を伸ばす。やがて儀式を受ける者は減り、家石の記憶は継がれず、我らの言葉は王都語へ置き換わる。百年後、谷に住む者が残っていても、トゥル・ガランは死ぬ」


「一人の離脱が、共同体を死なせると」


「一人ではない。最初の一人だ」


「最初の者には、共同体が存続するまで待てと命じますか」


「共同体は、待っていれば存続するものではない。継ぐ者が必要だ」


「継ぐことを拒む者にも」


「拒む理由を作ったのは国だ」


「外の世界を知れば、残る選択は自由でなくなると」


「外を知ることが問題なのではない。外だけを未来と呼ぶことが問題だ」


 レイヴァンは傍聴席のセナを見た。


 彼女は王都で支給された布服ではなく、谷の伝統衣を着ている。厚い灰布へ青い鉱石粉で家系模様が描かれ、胸元には弟ルクの名を刻んだ小さな石片が下がっていた。谷を離れたいと訴えながら、谷の言葉で名を持ち、谷の衣服を選び、谷の死者を胸へ置いている。


 離れるとは、捨てることと同じではない。


 残る側はしばしば離れる者へ、すべてを捨てる覚悟を求める。


 外の制度もまた離脱を完全な解放として描き、離れた者が失ったものを過去の拘束としてしか扱わないことがある。


「セナ・ヴォルを証言台へ」


 書記官が名を呼んだ。


 少女は傍聴席から立ち上がった。石殻族の若者としては細身で、頬と手首にまだ柔らかな石の斑がある。根継ぎを終えれば、それらは家石の鉱質と同じ色へ変化し、身体の内部へ祖先の記憶を受け入れるための共鳴層が形成される。


 証言台までの階段を下りる足取りは遅かった。


 恐れているようには見えない。


 一歩進むたび、自分が谷からどれだけ遠い場所へ来たかを測っているように見えた。


 宣誓文が読み上げられる。


 知っていることと、知らないことを分けること。


 望む結論のために、記憶を作らないこと。


 答えられない問いへ、答えられないと述べること。


「約束します」


 セナは王都語で答えた。


 発音には谷の硬い響きが残っている。


 未成年者代理人として選任されたミレイア・ソーンが、証言台の近くへ立った。ウィル事件でノアの弁護を担当した頃より法衣の襟は整い、資料も必要な順に並んでいる。目の下の疲労だけは以前と変わらない。


「セナ。あなたは、トゥル・ガランを離れたいと望んでいますか」


「はい」


「どこへ行きたいのです」


「王都の建築院へ」


「何を学びたい」


「浮島の支え方」


 傍聴席の一部で、意外そうな息が漏れた。


 トゥル・ガランは、大陸でも珍しい〈動かない谷〉として知られている。


 巨大な浮島が地下深く伸びた鉱石の鎖によって低層の岩盤へ繋がれ、周囲の浮島が季節風とともに位置を変えても、谷だけは八百年以上同じ場所へ留まり続けている。流れと変化を尊ぶ風の大陸において、動かないことを誇りとする共同体だった。


「浮島を動かしたいのですか」


「動かないものが、どうして落ちないのか知りたい」


「谷では学べませんか」


「家石の管理と採掘は学べます。空の下側を調べることは禁止されています」


「なぜ」


「支えを疑うと、支えが弱くなると言われています」


 トゥル・ガラン側の代理人が異議を申し立てた。


「信仰的教示の一部だけを、物理的禁止として扱っています。谷の教えでは、基盤を無闇に掘削すれば島の安定を損なうという技術上の意味も含まれます」


「証人自身の理解を尋ねています」


 ミレイアが答えた。


 レイヴァンは異議を退けた。


「セナ、あなたが聞いた言葉として説明してください」


「長老たちは、下を見続ける者は、上にあるものを愛せなくなると言いました」


「それを聞いて、どう思いましたか」


「下を見たくなりました」


 法廷の隅で、誰かが小さく笑った。


 バル長老は笑わなかった。


「根継ぎを拒んだ理由は、谷を出るためですか」


「根継ぎを受けると、長く谷を離れられなくなるからです」


「身体上の理由で」


「身体と、声です」


「声」


「家石の声が聞こえるようになります」


 ミレイアは机上の資料を確認した。


「根継ぎによって、祖先の記憶がそのまま移されるのですか」


「そのままではありません。言葉、匂い、道、怖かったこと、誰を愛していたか、どこで死んだか、石をどう割ったか、雨の前に山がどんな音を出すか。全部が一つの記憶になるわけじゃない。自分の考えの下に、別の考えが流れるようになる」


「その声は、命令しますか」


「命令する声もあります」


「拒めますか」


「慣れれば」


「慣れるまで」


「眠れない者もいます。自分の名前が分からなくなる者もいる。谷では、祖先が強く戻ったと言って祝います」


「あなたは、それを望まない」


 セナはすぐには答えなかった。


「怖いです」


「望まないのですか」


「聞いてみたいとも思います」


 ミレイアが言葉を止めた。


 セナは胸元の石へ触れた。


「祖母は、私が七歳のときに死にました。家石には祖母の声がある。父も、母も、根継ぎをすれば会えると言います。谷の古い歌も、失われた道の名前も分かるようになる。私が受けなければ、家に継ぐ者が一人減る。弟が死んだから、今は私しかいない」


「それでも拒む」


「一度受けたら、聞く前の自分へ戻れません」


「戻れないから」


「自分が望むか、聞いてから決めたいと言いました」


「谷は何と」


「聞いた後では拒めない、と」


「なぜ」


「祖先の声を聞いて捨てる者はいないから」


 ミレイアは一度、法廷の十三名を見た。


「それは、声を聞けば自発的に残るという意味ですか。それとも、離れられない身体と心になるという意味ですか」


「両方だと思います」


「あなたは、どちらか分からないまま受けるよう求められた」


「はい」


「拒んだ後、沈石室へ」


「はい」


「閉じ込められたと感じましたか」


「閉じ込められました」


 トゥル・ガラン側代理人が再び立った。


「本人の主観だけでは、医療的静養措置の性質を決められません。根継ぎ前の共鳴不安定によって、本人が強い逃走衝動を示すことは医学的に確認されています」


 国家側の医術官が反論のため書類へ手を伸ばした。


 レイヴァンは双方を制した。


「その点は専門家証言で扱います。セナ、沈石室から出た経緯を」


「床の排水口から細い通路へ入りました」


「身体を傷つけた」


「肩の石が剥がれました」


「弟ルクは、その時点であなたが逃げると知っていましたか」


「知っていました」


「手伝った」


「鍵を持ってきてくれました」


 傍聴席のトゥル・ガラン住民たちが動揺した。


 自治領側の記録では、ルクは姉の逃走を知り、連れ戻すため後を追ったとされている。


「弟は、あなたを逃がそうとしたのですか」


「最初は」


「途中で考えを変えた」


「境界まで来たとき、谷の鐘が鳴りました」


「根継ぎを受けた者にだけ聞こえる鐘ですか」


「受ける前でも、家石に近い者には聞こえます。弟は、母の声がしたと言いました」


「あなたには」


「聞こえませんでした」


「弟は何と」


「戻らないと、母が壊れる、と」


「母上は生きています」


「家石の中の母です」


「生きている母上とは別に」


「根継ぎでは、生きている者も記憶の一部を家石へ預けます。家族の誰かが谷を捨てると、預けた声が裂けると教えられています」


「事実ですか」


「分かりません」


「弟は信じていた」


「はい」


「あなたを止めようとした」


「私の腕を掴みました。泣いていました。私も戻ろうと思いました」


「なぜ戻らなかった」


 セナは胸元の石を強く握った。


「戻ったら、ルクが次に逃げると思ったからです」


 法廷の空気がわずかに変わった。


「弟も、谷を出たかった」


「空輸船の整備士になりたかった。誰にも言っていませんでした。私にだけ、船の絵を見せた」


「それでもあなたを止めた」


「自分が出たいことより、母の声を壊すことが怖かった」


「境界で、国家巡回官が来た」


「はい」


「あなたが助けを求めた」


「はい」


「弟は、巡回官へ攻撃しましたか」


「石を投げました」


「巡回官は風障壁を張った」


「はい」


「弟が障壁へ衝突した」


「違います」


 国家側の席がざわめいた。


 ミレイアは声を低くした。


「何が違うのですか」


「障壁が、弟へ動きました」


「巡回官が押し返した」


「分かりません。風が膨らんで、ルクへぶつかった。ルクは後ろへ飛び、境界石へ胸を打ちました」


「記録では、弟が走って障壁へ衝突したと」


「嘘です」


「巡回官本人は、静止障壁だったと証言しています」


「嘘です」


「あなたは、弟を見ていましたか」


「見ていました」


「暗かった」


「夜明け前でした」


「恐怖と混乱があった」


「ありました」


「それでも確かだと」


「ルクは、私の前に立っていました。私を谷へ戻すためじゃない。巡回官が私の腕を掴んだから、離せと言った。風が動いた。ルクは飛ばされた」


「その後、あなたは国家側へ保護された」


「連れていかれました」


「自分の意思で」


「ルクのところへ戻りたいと言いました」


「戻れなかった」


「巡回官が、谷へ戻れば拘束されると言いました」


「あなたを守るためと」


「弟が死んでいるかもしれないのに、私を守ると言いました」


 レイヴァンは、国家代理人席に座る巡回行政院の長、オルゼン・ハルバートへ視線を向けた。


 四十代半ば、短い黒髪、飾りのない濃紺の官服。将来、国家非常事態をめぐって大衡法院と激しく対立することになる人物であり、この時点では地方行政改革を任された有能な官僚として知られていた。


 オルゼンは表情を変えなかった。


 セナの証言が事前記録と異なることを、すでに知っていたように見える。


「ルクは、境界で死亡しましたか」


 ミレイアが尋ねた。


「分かりません。連れていかれるときは、息をしていました」


「死亡確認は、自治領の医術師が行っています」


「私は会わせてもらえませんでした」


「葬儀にも」


「国が危険だと言いました」


「弟の遺体を見ていない」


「はい」


 バル長老が突然立ち上がった。


「遺体ではない」


 声が法廷へ響いた。


「ルクは、まだ家石へ返されていない」


 国家法務官が顔を上げた。


 ミレイアも、セナも、十三名の衡理官も長老を見る。


「どういう意味です」


 レイヴァンが尋ねた。


「身体は死んだ。声は残っている」


「どこに」


「境界石だ」


 バルは、申立人側の机へ置かれた黒い石箱を指した。


 警務官が運び込んだ際、自治領の祭具であると申告され、危険な魔術反応がないことだけ確認されていた箱だった。


「箱を開けても」


「そのために持ってきた」


 警務官が左右へ立ち、証拠検証官ユノア・フェルが保全具を用意した。黒い石箱の蓋には、トゥル・ガランの家系を示す螺旋模様と、ひび割れた円が刻まれている。


 バル自身が鍵石へ手を置いた。


 蓋が開く。


 中には、拳ほどの灰白色の石片があった。


 表面に赤黒い筋が走り、その形は血管にも雷にも、何かを閉じ込めた文字にも見える。


 セナが証言台から一歩下がった。


「ルクの胸の石……」


「境界石へ衝突した際、胸部層の一部が融合した」


 バルの声が掠れた。


「谷の医術師は、声が残っていると判断した」


「なぜ、セナへ知らせなかった」


 ミレイアの問いに、長老は少女を見た。


「聞けば戻るからだ」


 セナの顔から色が消えた。


「ルクがいるの」


「いる、という言葉が正しいかは分からない」


「声があるって」


「断片だ」


「聞かせて」


「根継ぎを受けていない者には危険だ」


「聞かせて!」


 少女が証言台から下りようとし、児童支援官が腕へ触れた。セナは振り払い、石箱へ進もうとした。


 レイヴァンが名を呼んだ。


「セナ・ヴォル」


 彼女の足が止まった。


「あなたの弟に関するものです。聞きたいと望む権利を軽く扱いません。同時に、何が保存され、どのような影響があるか確認せず接触させることもできない」


「国も同じことを言う」


「何が」


「危険だから待て。守るために離れろ。調べるまで触るな。みんな私のためと言って、私より先に決める」


 レイヴァンは、その非難を否定しなかった。


「その通りです」


 少女の瞳が揺れた。


「裁判所も、いま決めています。あなたが直ちに石へ触れる自由と、何が起きるか調べてから選ぶ可能性のどちらを守るかを。待たせることが苦痛であり、その時間を私たちがあなたから奪うことも認めます」


「認めたら、奪っていいの」


「よくありません」


「止めないでしょう」


「止めます」


「私を」


「接触を」


「同じです」


「あなたにとっては、そうでしょう」


 セナは、理解されたことに安堵しなかった。


 安堵する義務もない。


「どれくらい待つの」


「本日の審理中に、非接触検査を行います。重大な危険がないと分かれば、あなた自身へ説明し、聞くかどうかを選んでもらいます」


「長老が反対しても」


「長老の許可を条件にはしません」


「国が反対しても」


「国家の許可も条件にしません」


「裁判所が危険だと思ったら」


「危険の程度と、あなたの理解能力を審理します。危険があるというだけで、永遠に禁じることはしない」


「死ぬかもしれなくても」


「自分の生命へ重大な危険を伴う選択を、未成年者へどこまで認めるかは、簡単な問いではありません」


「また待てって言う」


「ええ」


 レイヴァンは言った。


「私は、あなたへ都合のよい裁判官ではありません」


 少女は彼を睨んだ。


「誰に都合がいいの」


「その問いへの答えが、国や長老だけにならないようにするため、ここにいます」


 審理は一時中断され、ルクの石片に対する非接触検査が始まった。


 大衡廷の中央へ透明な保護膜が張られ、石片の周囲の風圧、魔力、残留思念、記憶波形が測定される。ユノアは夢継族の感応を用いず、誰が検査しても同じ値を得られる方法を優先した。検証できない感覚を証拠へ使えば、専門家の身体そのものが秘密の証言台になる。


 波形は存在した。


 不規則で弱く、何度も途切れている。


 音声へ変換すると幼い声に似た響きがわずかに現れ、同時に複数の低い声が下層へ重なった。


 ルク一人の記憶ではない。


 境界石へ蓄積された、過去の離脱者たちの声だった。


『戻れ』


『行きたい』


『母を置いていけない』


『名前を捨てるな』


『息が苦しい』


『外は寒い』


『谷を忘れないで』


『忘れたい』


『戻れ』


『行け』


 反対の言葉が、同じ石の中で繰り返されている。


 共同体の命令だけではない。


 離れた者の恐怖、残った者の祈り、出ることを望んだ者、出たことを後悔した者、追放され帰りたかった者、谷を憎みながら谷の歌を忘れられなかった者たちの声が、境界を越えるたび石へ刻まれ、長い時間をかけて一つの層になっていた。


「根継ぎで受け取る祖先の記憶も、この形式ですか」


 レイヴァンが尋ねた。


 バルは答えなかった。


 代わりに、トゥル・ガランの記憶守が立ち上がった。百九十歳ほどの女で、片方の目が完全に鉱石化し、額から顎へ青い筋が走っている。


「同じ系統です」


「個別の記憶を、そのまま保存しているのではない」


「声は混ざります」


「誰の記憶か区別できなくなる」


「初めは。根継ぎを受けた者は、時間をかけて声を分けることを学ぶ」


「分けられない者は」


「祖先と深く結ばれた者として、記憶守が支える」


「外部の医療を受けられますか」


「外の医術は、声を病として消そうとする」


「希望すれば」


「共同体が判断する」


「本人ではなく」


「本人の声が、本人だけのものか分からないからだ」


 レイヴァンは、風待館で発見した自分の記録を思い出した。


 死んだ兄レイヴァンの記憶を移され、出生名エイルを忘れ、別の名によって千年以上生きてきた自分。


 自分の声が、どこまで自分だけのものか。


 その疑いを抱いたからといって、彼の発言を共同体が代わりに決めてよいことにはならない。


「根継ぎ後、本人が谷を離れたいと望むことはありますか」


「あります」


「離れられますか」


「長期間、家石から離れると身体に亀裂が生じる」


「治療法は」


「ない」


 国家側の医術官が立ち上がった。


「異議があります。王立医術院は、共鳴層を段階的に弱める離脱治療を開発しています」


 記憶守が医術官を見た。


「死亡率は」


 医術官は答えなかった。


「答えてください」


 レイヴァンが促した。


「初期試験では、三割二分です」


「重度の記憶障害を含めれば」


「五割近く」


「谷を出た者の半数が、死ぬか、記憶を損なう」


「現時点では」


「その治療を、自由への道と呼ぶのか」


 記憶守の声には、怒りより哀れみがあった。


 国家法務官は反論した。


「根継ぎを受けなければ、その危険自体が生じません。自治領は幼少期から儀式を義務づけ、離脱困難な身体を作ったうえで、身体上の危険を理由に移動を制限しています」


「我らの身体を作るのは、谷の石と血だ」


「自然に生じる共鳴ではなく、儀式によって強化している」


「強化しなければ、寿命が短くなる」


「医術院の研究では、平均寿命への影響は十一年から二十年」


「お前たちには短いか」


 石殻族の平均寿命は三百年前後。


 十一年を小さいと見るか、長いと見るかは、計算だけでは決まらない。


「寿命を延ばすために、自由を制限できるのですか」


「自由のために寿命を削ることを、国が勧めるのか」


「選択肢を与えるべきです」


「子が、二十年の命と谷の声を捨てる意味を理解できると」


「理解させないまま儀式を行うよりは」


 双方の言葉は、互いの恐れているものを映していた。


 国家は共同体が保護と伝統を名目に、本人が拒めない身体と心を作ることを恐れている。


 トゥル・ガランは、国家が自由を名目に、自分たちの身体、寿命、言語、記憶を多数者の生活様式へ合わせることを恐れている。


 どちらの恐怖にも根拠がある。


 どちらの恐怖も、相手の選択を奪う理由として使われ得る。


「国家側へ尋ねます」


 レイヴァンが言った。


「根継ぎを受けず谷を離れた石殻族の子どもは、過去二十年で何名ですか」


「百八十三名です」


「現在の状況は」


「教育、住居、医療を提供しています」


「質問へ答えてください」


 国家法務官は資料を確認した。


「王都および自治都市で生活している者が九十二名。故郷へ戻った者が三十一名。所在不明が二十七名。死亡が三十三名」


 法廷が静まり返った。


「死因は」


「共鳴不全、鉱質崩壊、感染症、自死、事故」


「三十三名のうち、共鳴不全と鉱質崩壊は」


「十九名」


「国は、その数字をトゥル・ガランへ伝えていましたか」


「公開年報に記載しています」


「自治領語で」


「王都語です」


「谷へ届けましたか」


「公開文書です」


「届けたかと尋ねています」


「特別な送付はしていません」


 バル長老が、石板の上で両手を組んだ。


「これが国の自由だ」


 国家法務官は反論しようとした。


 レイヴァンは続けた。


「死者の中に、トゥル・ガラン出身者は」


「七名」


「自治領側は把握していましたか」


 バルは答えなかった。


「把握していましたか」


「五名は」


「残る二名は」


「家族が、国の記録を信じなかった」


「では、少なくとも五名の死亡を知っていた。谷の子どもたちへ伝えましたか」


「根継ぎを受けず外へ出れば、身体を損なうと教えている」


「氏名と経過を」


「死者を、外へ出るなと脅す道具にはしない」


「情報を与えず、危険だけを教えることは、脅しとどう異なりますか」


 バルの喉が小さく鳴った。


「国も、外で生きることに成功した者を学校へ連れてきた。死んだ者は見せなかった」


「双方が、自分の望む選択を明るく見せるため、不都合な生を隠した」


 レイヴァンの声は穏やかだった。


「子どもたちへ自由に選べと告げながら、選択の結果を半分ずつ隠していた」


 国も、谷も、否定しなかった。


 セナは証言台で、両側を見た。


「ルクは知ってたの」


 誰へ向けた問いか分からなかった。


「外へ出た子が死んだこと」


 バルが答えた。


「知っていた」


「私には言わなかった」


「お前を怖がらせたくなかったのだろう」


「谷へ戻すために、母の声は使ったのに」


 長老の顔へ、初めて痛みが現れた。


「ルクは、母の声を使ったのではない。聞こえたのだ」


「同じだよ」


「違う」


「聞こえた声に従うしかなかったなら、同じだよ」


 保護膜の中で、ルクの石片がわずかに震えた。


 検証官が息を呑み、波形板へ目を向ける。


「反応が上がっています」


 石片から音が流れた。


 最初は雑音。


 続いて、少年の呼吸。


『姉さん』


 セナの身体が硬直した。


『戻って』


 長老たちが目を閉じた。


 セナは一歩進み、保護膜の前で止まった。


『戻って』


 同じ言葉が繰り返される。


「ルク」


『戻って』


「どこへ」


 石片の波形が乱れる。


『僕が』


 音が途切れた。


『戻れない』


 セナの唇が震えた。


『姉さんまで行ったら』


 複数の古い声が重なる。


『家が消える』


『母が消える』


『僕を忘れる』


『外へ行きたい』


 最後の言葉だけが、ほとんど息のように小さかった。


 セナは保護膜へ手を置いた。


「私も行きたい」


『知ってる』


 その返答がルク自身の意思なのか、残留記憶が姉の言葉へ反応しただけなのか、誰にも断定できない。


「一緒に行こうって言えばよかった」


『怖かった』


「私も」


『母が泣く』


「泣かせればよかった」


 傍聴席で、セナの母が声を上げた。


 それは抗議でも悲鳴でもなく、自分の子どもたちが自分の悲しみを避けるため互いの願いを隠していたことを知った者の、形を持たない音だった。


『姉さん』


「なに」


『行って』


 谷の住民たちが動いた。


 長老は石板から立ち上がらず、記憶守は鉱石化した片目を閉じ、国家法務官は記録官へ何かを指示しかけて手を止めた。


『行って』


 声が繰り返される。


『僕も』


 途切れる。


『行きたかった』


 セナは泣かなかった。


 涙が出る前の顔で、石を見つめ続けた。


「連れていく」


 彼女は言った。


「ルクの石を持っていく」


 バル長老が首を振った。


「境界石の一部だ。谷の外へ出せば、声は消える」


「私の弟です」


「弟だけではない。過去の声が重なっている」


「だから谷のものなの」


「誰の所有物でもない」


「なら、どうして長老が決めるの」


 バルは答えなかった。


「国が保管します」


 国家法務官が言った。


「証拠として、法院の管理下へ移す必要があります」


 セナは彼を見た。


「国のものになるの」


「国のものではありません。中立的に保全します」


「私が会うたび、許可を取るの」


「安全確認のため」


「長老と同じ」


「同じでは」


「同じだよ」


 少女の声は大きくなかった。


「みんな、自分だけは違うと思ってる」


 大衡廷を風が通り抜けた。


 誰もその風を呼ばなかった。


 どこで生まれどの窓から入り、どこへ抜けるかも分からない風が、保護膜の表面を揺らしながら石片の声を細く伸ばした。


 レイヴァンは、未在者席へ視線を向けた。


 未来の者。


 法的人格をまだ認められていない者。


 審理へ参加できない者。


 そして、共同体の存続を理由に生まれる前から所属を決められる子どもたち。


 国家の自由を受け入れるか、谷の記憶を継ぐか、その二つ以外の道をまだ与えられていない者たち。


「本日の審理で、暫定命令を出します」


 レイヴァンが言うと、国と自治領の双方が身構えた。


「第一に、セナ・ヴォルの身柄を国家またはトゥル・ガランの単独管理へ置きません。本人が選んだ居所を基礎とし、未成年者代理人と独立支援官が生活および教育を支援する。谷との通信、家族との面会を、本人が望む範囲で保障します」


 バルが口を開こうとした。


「第二に、ルク・ヴォルの石片は法院が押収しません。セナ、家族、自治領、検証官の共同保全とします。接触方法と移動については、当事者全員の意見を聞き、石片へ含まれる複数の声の利益も考慮して決めます」


「声の利益」


 国家法務官が問い返した。


「法的人格が認められていない記憶断片です」


「認められていないことは、利益が存在しないことを意味しません」


「誰が代理するのです」


「未在者代理人を追加で選任します」


「石へ弁護士を付けるのですか」


「声を持たないと決めた者だけで、声の処分を決めないためです」


 傍聴席の新聞記者たちが一斉に記録を始めた。


「第三に、トゥル・ガランは、判決まで根継ぎを強制してはならない。沈石室への非自発的収容、食事制限、家族との面会制限、離脱希望者への公的制裁を停止します」


 谷の住民たちから怒りの声が上がった。


 バルは立ち上がった。


「根継ぎの時期は、国の裁判を待たない」


「説明してください」


「今年の継承期は、九日後に終わる。家石と子らの身体が共鳴するのは、三年に一度の九日間だけだ。逃せば、次は三年後。現在待つ三十八名のうち、十二名は身体成熟が進み、次回には根継ぎを受けられない」


「受けられなければ」


「家石の声を継げず、鉱質寿命が短くなる。家族によっては、継承者がいなくなる」


「判決を待てば、権利が失われる」


「そうだ」


 法廷の視線がレイヴァンへ集まった。


 司法が慎重に審理する時間そのものが、共同体の儀式を不可能にする。


 暫定的に止めるという決定が、実質的な禁止となる。


 急いで許せば、拒みたい子どもへ戻れない変化を与える。


 待てば、受けたい子どもからも機会を奪う。


「三十八名全員の意思確認は」


「谷の記憶守が行った」


「独立した支援者の立会いは」


「ない」


「拒否した場合の不利益を説明した上で」


「当然だ」


「それを自由意思の確認として十分とは認められません」


「九日で、国の方式を整えるつもりか」


「整えます」


 国家側の行政官たちが驚いてレイヴァンを見た。


「首席衡理官」


 オルゼン・ハルバートが初めて発言した。


「独立面談、医療説明、自治領語の支援、家族からの分離、三十八名分を九日以内に実施するには、行政の人員も施設も足りません」


「足りない理由は」


「想定されていない手続だからです」


「権利は、行政が想定していない日に消えるのですか」


「現実の能力を越えた命令は、実施できません」


「実施可能な案を、本日中に提出してください」


「法院は、行政の資源を無制限に命じられない」


「無制限ではありません。三十八名が、戻れない選択を行う前に、何を選ぶか理解し、拒否しても即座に生活を失わない条件を作る。そのために必要な範囲です」


「九日では不完全なものになる」


「完全な制度が整うまで三年待てと、子どもたちへ命じますか」


 オルゼンは答えなかった。


 レイヴァンはバルへ向いた。


「自治領は、国家の支援者が谷へ入ることを認めますか」


「根継ぎを妨害しないなら」


「拒否の選択も説明します」


「外へ出ることを勧める者は入れない」


「勧めない。残ることも勧めない。選択の結果を、双方の不都合な事実を含めて説明する」


「そのような者がいると思うか」


「探します」


「九日で」


「九日で」


 バルは長くレイヴァンを見た。


「失敗したら」


「記録します」


「それだけか」


「責任を問われます」


「誰が」


「私も含めて」


「裁判官は、子らの身体が壊れても法衣を脱ぐだけだ」


 バルの言葉は、法廷にいる全員へ向けられた。


「谷では、判断を誤れば家の声が絶える。国の官吏は任期を終え、裁判官は判決を書き、医術官は論文を残す。失うものが違う者が、同じ高さに座ったから平等だと言うな」


 レイヴァンは、自分の前の机を見た。


 裁判官席は当事者席より三段だけ高い。


 高さを減らしても、判決を下す権限の差は消えない。


「言いません」


「ならば何を言う」


「失うものが同じでないからこそ、失う側だけへ判断を押しつけることも、権力を持つ側だけで決めることもしない。そのための手続を作る、と言います」


「手続で声は継げない」


「手続が声を継ぐとは考えていません」


「法は、谷を守れない」


「守れないでしょう」


 トゥル・ガランから来た者たちの間に、怒りとは異なる動揺が走った。


 国家の裁判官が、自らの法に限界があると明言することを彼らは予想していなかった。


「法は文化を愛せません。祖先の声を聞けず、家石の温度を感じず、谷の雨がどのような匂いかも知らない。条文へ命じて、それらを守らせることはできない。法にできるのは、文化を守るという名で現在を生きる者が器にされないようにすること、自由を与えるという名で共同体が解体される過程を見えなくしないこと、その双方へ理由を求めることです」


「それで足りると」


「足りません」


 レイヴァンの声が大衡廷へ広がった。


「足りないからといって、誰か一人へすべてを決めさせるよりはましです」


 バルは座らなかった。


「我らは離脱する」


「その申立ても審理します」


「国の法で」


「現時点で、あなた方は流律憲章の下にあります」


「その法から離れるための判断を、その法へ求めろと」


「そうです」


「鎖を外す鍵を、鎖の持ち主へ頼めと」


「国家を鎖と呼ぶなら、その比喩は理解します」


「理解したふりをするな」


「ふりかもしれません」


 法廷の空気が止まった。


「私は、谷で生まれていない。根継ぎを知らず、祖先の声を身体へ持たない。自分が理解したと断言するほうが、あなた方を自分の言葉へ閉じ込めることになる。それでも、国家の力が及んでいる以上、判断を放棄できません」


「その傲慢さを、正直と呼ぶのか」


「呼びません。責任と呼びます」


 風鐘が再び鳴った。


 一度。


 少し遅れて、法廷の外から別の音が返る。


 五つの鐘ではない。


 深く、地面の中から響く鐘だった。


 トゥル・ガランの継承鐘。


 王都から遠く離れた動かない谷で鳴らされた音が、どのように大衡法院へ届いたのか、誰にも分からなかった。ウィルが大陸の風路を結び、離れた鐘の音を運び始めて以来、距離は音にとって以前ほど確かな壁ではなくなっている。


 石片の中の声が震えた。


『谷が』


 ルクの声。


『呼んでる』


 バル長老が目を閉じた。


 セナは保護膜へ手を置いたまま、遠い鐘を聞いた。


『姉さん』


「聞こえてる」


『帰りたい』


 セナの顔が歪んだ。


「さっき行けって言った」


『行きたい』


「どっちなの」


『分からない』


「死んでも分からないの」


『ごめん』


 セナの頬を、ようやく涙が流れた。


「謝らないで」


『谷が』


 鐘がさらに低く響く。


『落ちてる』


 バル長老が目を開いた。


「何を言った」


 記憶守が床へ手をついた。


 法廷の石床を通じ、遠い振動を感じ取ろうとする。


 その表情が変わった。


「基鎖が動いている」


「地震ですか」


「違う」


 トゥル・ガランの使節たちが一斉に立ち上がった。


「谷の高さが、下がっている」


 動かない谷。


 八百年以上、巨大な鉱石鎖によって地上深くの岩盤へ繋がれ、風に流されず同じ場所へ留まり続けた浮島が、ゆっくりと雲海へ沈み始めている。


 国家側の連絡官が風信機へ駆け寄った。


「自治領観測所から緊急信号。高度が十分間で二十七尋低下。外縁部で崩落。原因不明」


「根継ぎの共鳴が乱れた」


 バルが言った。


「なぜ」


 レイヴァンの問いに、長老は答えなかった。


「根継ぎを延期したからではありません。命令は今出されたばかりです」


 ユノアが指摘する。


 記憶守が、石片を見つめた。


「境界石が谷を離れた」


 全員の視線が黒い箱へ集まる。


「ルクの石片を王都へ運んだことで、基鎖の記憶環が欠けた」


 国家法務官が声を荒らげた。


「一片で浮島が沈むはずがない」


「一片ではない」


 記憶守の鉱石化した目から、細いひびが頬へ伸びた。


「境界石に残っていた声が、鐘へ流れ始めた。ウィルと呼ばれる風が、谷の記憶を外へ運んでいる」


「それが島の構造へ」


「我らの谷は、石だけで繋がっているのではない」


 バル長老は、初めて恐怖を隠さなかった。


「記憶で留まっている」


 大衡廷の床下から、五つの鐘の音が重なった。


 空を流れることを拒み、地上へ根を下ろした谷。


 その谷を八百年間、同じ場所へ繋ぎ止めていたものが、鉱石の鎖だけではなく、そこに生き、死に、名を継ぎ、離れずに残った者たちの記憶であるなら。


 外へ流れ始めた声は、自由になったのか。


 それとも、谷を支えていたものを奪われたのか。


 ウィルは、閉じ込められた声を運ぶ。


 誰の所有物にもせず、聞く場所へ届ける。


 その行為が、声によって支えられていた土地を沈めるなら、解放は救済と呼べるのか。


「首席衡理官」


 オルゼン・ハルバートが立ち上がった。


「非常救難権限を発動します。全行政風船、軍用輸送艇、医術船をトゥル・ガランへ向かわせる。住民の強制退避も視野に入れます」


「強制退避を行えば、根継ぎを受けた者の身体が」


「島とともに沈めるわけにはいかない」


「移動による死亡可能性があります」


「残れば全員が死ぬ可能性がある」


 バルが叫んだ。


「国の船を谷へ入れるな!」


「住民の生命が危険です」


「外へ運べば、谷より先に死ぬ者がいる!」


「選ばせる時間はありません」


「だから国が選ぶのか!」


 声が重なる。


 レイヴァンは机上の風信機を取った。


「現在の下降速度、基鎖の状態、避難可能経路、住民数、移動困難者、共鳴依存度を確認してください。国家救難隊は自治領の許可を待たず出発。ただし領域侵入と強制移動は、生命への差し迫った危険が確認されるまで保留。トゥル・ガラン側は、救難隊との通信を遮断してはならない」


「首席には行政の指揮権がない」


 オルゼンが言った。


「ありません。これは暫定保全命令です。あなたの救難権限を止めるものではなく、住民の意思確認を完全に省略することだけを禁じます」


「一刻ごとに島が沈む」


「ゆえに、審理を終えません」


 レイヴァンは十三名の衡理官を見た。


「大衡廷を非常法廷へ移行します。行政、自治領、医術院、風路技師、記憶術師、住民代表を接続。公開記録を維持し、機密が必要な部分だけ理由を示して閉じます」


「判決まで続けるのですか」


「判決ではありません」


「では何を」


 レイヴァンは、遠い谷から届く鐘を聞いた。


「誰を救うかを、救う側だけで決めさせないために、ここに残ります」


 セナが保護膜へ額をつけた。


「ルク」


『姉さん』


「谷を助けたい」


『うん』


「外へも行きたい」


『うん』


「両方は無理なの」


 返事はなかった。


 遠くで、何か巨大なものが軋む音がした。


 雲海の下へ根を張っていた鉱石鎖が、八百年の荷重に耐えきれず動き始めたのか、記憶を失った石が、自らの形を忘れ始めたのか。


 トゥル・ガランの空で、谷の外縁が崩れ、石片が雲海へ落ちていく。


 浮島の上では、三十八名の子どもたちが根継ぎを待っている。


 受ければ谷を支える声の一部になる。


 受けなければ共同体の記憶が薄れ、島そのものがさらに沈む可能性がある。


 儀式を選ぶことは、文化を継ぐ選択であると同時に、崩れゆく土地を支えるため自分の記憶と身体を差し出す選択へ変わりつつあった。


 拒む自由は、谷を沈めるかもしれない。


 残る自由は、子どもたちを柱へ変えるかもしれない。


 国家が救えば、共同体は生き延びながら別のものになる。


 国家が手を出さなければ、自治を尊重したまま全員を失う可能性がある。


 善い選択は、法廷のどこにも置かれていなかった。


 悪い選択だけが並んでいるわけでもない。


 どの道にも守ろうとするものがあり、失われるものがある。


 レイヴァンは、首席衡理官の銀環へ触れた。


 彼が法廷へ立つ理由は、正しい道を知っているからではない。


 正しい道が存在しないとき、誰か一人の恐怖や善意や権力がすべての者の道を決めることを防ぐためだった。


「セナ・ヴォル」


 彼は少女を呼んだ。


「あなたの証言は終わっていません」


 セナが振り返った。


「谷が沈んでるのに」


「沈んでいるからです」


「何を聞くの」


「あなたが、何を望むかを」


「私が決めたら、谷が助かるの」


「分かりません」


「弟が戻るの」


「戻りません」


「みんなが納得するの」


「しないでしょう」


「それでも聞くの」


「ええ」


 レイヴァンは、沈み始めた谷の鐘と法廷を通り抜ける風の中で告げた。


「望みが必ず叶うから、意思を聞くのではありません。叶わないかもしれないときほど、誰の願いが失われたかを、後から都合よく書き換えないために聞くのです」


 セナは、胸元のルクの石片を握った。


 遠いトゥル・ガランの空では、家々が傾き、家石の間を避難の鐘が流れ、根継ぎを待つ子どもたちが祖先の声と自分の声をまだ分けられないまま、崩れ始めた地面へ立っている。


 大衡廷では、王国の行政官、谷の長老、十三名の裁判官、名を失った声、死んだ弟の断片、外へ行きたい少女が、同じ高さではない力を持ちながら、同じ一つの問いへ向き合っていた。


 自由とは、去ることか。


 残ることか。


 誰かの記憶を背負うことか。


 背負わないと決めることか。


 共同体を救うため自らを差し出す選択を、自由と呼べるのか。


 その選択を危険だとして禁じる国家は、救済者なのか、支配者なのか。


 風は答えなかった。


 風は谷から王都へ声を運び、王都から谷へ命令と祈りを運び、浮島を支える鉱石の鎖を震わせ、崩れた石の粉を雲海へ散らしながら、どこにも留まらず流れ続けた。


 セナは証言台へ戻った。


 涙の跡を拭わず、谷の衣を着たまま王都語で答えた。


「私は、谷を出たいです」


 バル長老が目を閉じた。


「谷をなくしたくありません」


 国家法務官が顔を上げた。


「根継ぎを受けたくありません」


 記憶守の鉱石化した頬へ亀裂が増えた。


「祖母の声を聞きたいです」


 セナ自身が、言葉の矛盾に苦しむように息を止めた。


「弟を連れていきたい。母を置いていきたくない。建築を学びたい。谷がどうして動かないのか知りたい。谷を動かして、外の空へ連れていけるなら、そうしたい」


 少女は遠い鐘を聞いた。


「どれか一つだけを選べと言われたら、選べません」


「選べないことを、意思がないとは扱いません」


 レイヴァンは答えた。


「選べないままでも、あなたの証言です」


 谷の下降を知らせる警報が、風信機から響いた。


 高度低下、さらに十八尋。


 基鎖の北側で断裂。


 外縁集落の避難開始。


 重度共鳴者七百名、移動困難。


 根継ぎ予定者三十八名。


 残された時間、推定十三時間。


 十三時間後、トゥル・ガランは雲海の下へ沈む可能性がある。


 レイヴァンは大衡廷の扉を閉じなかった。


 風を止めれば、声も届かない。


 風を通せば、谷を支えていた記憶がさらに流出するかもしれない。


 開かれた法廷そのものが、救済と破壊の両方へ繋がっている。


「非常審理を開始します」


 書記官が風鐘へ手を伸ばす前に、鐘は自ら鳴った。


 音は王都を越え、雲海を渡り、沈みゆく谷へ向かった。


 その行き先を、誰も決めてはいなかった。


 それでも声は流れ始めた。


 根を持つ者たちが、初めて自分たちの土地ごと空へ流されようとしている、その長い夜の始まりを告げながら。


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