第009話:中堅B級『白銀の轍』の惨敗と、酒場の噂
ギルド本部一階の正面ロビーに、ヴェロニカ首席査定官の直筆署名が入った真鍮製の公式推奨プレートが掲げられたその日の夕刻。
迷宮からの帰還門が鈍い青光を放ち、そこから三人の探索者が足を引きずるようにして姿を現した。
「……くそっ。ボルク、まだ血が止まらないか! エレン、残りの上級治癒薬を全部あいつに回せ!」
「もう最後の一本を飲ませたわよ、ガレス。……あなたこそ、左肩の鎖骨にヒビが入ってるわ。そんなに大声を出したら余計に響くでしょ」
焦燥に満ちた声を上げたのは、身長百八十五センチの長身を白銀のプレートアーマーに包んだ青年――中堅B級パーティー『白銀の轍』のリーダー、ガレス・フォン・シュタイン(二十六歳)だった。
かつて王都の騎士爵家の三男として生まれ、華麗な槍スキル《白銀閃光》を引っ提げて迷宮都市へ乗り込んできたエリートである。オールバックに撫でつけた金髪は泥と煤にまみれ、貴族時代の見栄で肩から下げていた深紅の刺繍マントは、無惨にも半分近くが引き裂かれていた。
その隣で、銀緑色のポニーテールを揺らしながら冷静に止血包帯を巻いている長身のハーフエルフ美女が、副長にして弓使いのエレン(二十四歳)。
そして二人に肩を貸され、表面が無惨に凹んでひび割れた分厚い大鉄盾を背負いながら「……すまねぇな、リーダー。俺の《剛鉄城壁》が、あんなところで途切れるなんざ……」と悔しげに唸っているのが、赤褐色の顎鬚を三つ編みにしたドワーフの重装盾役、ボルク(三十二歳)だった。
B級パーティー『白銀の轍』。
浅層から中層前半(第1層〜第20層)までは、ガレスの高速突撃スキルとボルクの防御スキル、そしてエレンの魔力追尾矢を組み合わせた王道のエリート戦術で順調に駆け上がってきた実力派である。
だが――ここ三ヶ月、彼らは中層中盤である『第25層』の壁にぶつかり、完全に足踏みを強いられていた。
第20層の古代門を越えた先から始まる中層領域、とりわけ第24層から第26層にかけて広がる『魔力減衰領域』。
そこは空気中の魔素が極端に希薄なうえ、壁や床の黒い結晶岩が探索者の練り上げたスキル魔力を霧散させてしまう魔の階層だった。
「……バカな話だ。俺たちの連携は完璧だったはずなのに……!」
救護室での応急処置を終え、ギルド併設の酒場『大釜亭』の隅のテーブルに崩れ落ちるように座り込んだガレスは、包帯の巻かれた拳をギリッと握りしめた。
今日の探索で、彼らは第25層の岩陰から飛び出してきた中層の難敵『双頭魔狼』の群れ五頭と遭遇した。体長二メートルを超え、左右の顎から異なるリズムで噛みついてくる凶悪な魔獣だ。
いつも通りボルクが防御スキル《剛鉄城壁》を発動して突進を受け止め、ガレスが《白銀閃光》で一掃するはずだった。
しかし、魔力減衰領域の中ではスキルの発動がコンマ五秒遅れ、青い防御障壁が展開される前に魔狼の三百キロの巨体がボルクの大盾へ正面から激突した。
ガシャアァンッ!! と鼓膜を破るような衝撃音が響き、光り輝くはずのボルクの盾はただの重い鉄板と化して内側にベコリと凹み、その衝撃でボルクの右肘の腱がブチリと音を立てて軋んだ。
さらに、ガレスがスキルに頼り切った大振りの突きを放った瞬間、魔力が減衰して穂先が失速。プレートアーマーの擦れる金属音と派手なマントの羽織音を聞きつけた別個体の双頭魔狼が、死角の天井から音もなく跳びかかり、ガレスの左肩の装甲を牙で食い破って鎖骨にヒビを入れたのだ。エレンが咄嗟に短弓を連射して牽制しなければ、今頃三人の首は第25層の石畳に転がっていたに違いなかった。
「……今回の探索の収支よ」
エレンが重い溜息とともに、換金窓口の精算伝票をテーブルに置いた。
「討伐できた双頭魔狼は二頭だけ。しかもガレスがスキルで強引に胴体を突き破ったせいで、胸の魔石にヒビが入って買取額は半額。そこから今日使い切ったハイ・ポーション六本分と、ボルクの大盾の修理見積もり、それに救護室の治療費を差し引くと……純損失、マイナス銀貨百二十枚よ」
「ぐっ……! 先週の赤字と合わせれば、もうパーティーの運転資金が底をつくぞ……!」
ガレスが呻き、ボルクが申し訳なさそうにジョッキの安エールを煽った。
「なあリーダー、やっぱり俺の盾を叔父貴(ガンツ親方)の工房へ持ち込んで、もっと分厚いミスリル合金を貼り増してもらうしかねぇんじゃねえか? 重さは今の倍になるが、スキルが効かねぇなら物理的な厚みで耐えるしか……」
「ダメよ、ボルク。今の装備重量でも、第25層のあの妙に乾いて息苦しい空気の中では、三十分歩いただけであなたの呼吸が乱れているわ。これ以上盾を重くしたら、魔狼の群れに囲まれた時に足が止まって全滅する」
エレンの的確で冷徹な指摘に、ボルクもガレスも言葉を失った。
それが「中層の壁」だった。
浅層までは天賦のスキルと高価な装備のゴリ押しで通用した。だが、スキルが封じられ、空気すら薄く乾いていく第20層以深では、ごまかしの効かない「生身の立ち回り」が露骨に試される。
プライドの高いガレスは、自分たちが「スキルがなければただの鈍重な的に過ぎない」という現実を突きつけられ、奥歯を噛み締めていた。
――その時だった。
薄暗い空気の漂う彼らのテーブルとは対照的に、酒場の入り口付近から、明るく弾けるような若い歓声が聞こえてきたのは。
「お疲れ様でしたーっ! ほらピノ、ミア、今日は約束通り『大釜亭』の特上ローストビーフと果実酒でお祝いだぞ!」
「わーいっ! お肉! それに私、ミアが燻してくれたトカゲのジャーキーもまだ食べたい!」
「ふふっ、あんまり食べすぎるとお腹が痛くなるわよ、ピノ」
ガレスが顔を上げると、そこには見覚えのある三人組の少年少女――F級からE級へ昇格したばかりの新米パーティー『灯火』のカイ、山猫獣人のピノ、そして見習い治癒師のミアが、輝くような笑顔でテーブルを囲んでいた。
しかも彼らだけではない。その隣のテーブルでも、以前なら毎日泥だらけで救護室に担ぎ込まれていたはずの浅層パーティー『錆びた小盾』や『緑の風車』の面々が、無傷のピカピカな装備のまま、銀貨がぎっしり詰まった革袋を前に乾杯を上げていたのである。
「……おい、あれはどういうことだ?」
ボルクが片目のゴーグルを押し上げ、信じられないという顔で顎鬚を撫でた。
「あの『灯火』の坊主たち……三日前までは借金まみれで、俺たちが第1層の入り口ですれ違った時も、縦結びのブーツを引きずって今にも解散しそうなツラをしてたはずだぞ? なんであんなに羽振りがいいんだ?」
「それだけじゃないわ、ガレス、ボルク。あの三人の装備と歩き方を見て」
弓使いの鋭い観察眼を持つエレンが、紫の瞳を細めてカイたちの姿をじっと見つめた。
「あの少年……腰に下げているのはギルド支給の一番安い鉄剣よ。なのに、酒場の混雑したテーブルの間を歩くとき、重心がまったく上下にブレていない。あの山猫族の娘も、以前ならベルトの金具をチャラチャラ鳴らしていたのに、今はすべての金具に黒い消音布を巻いて、足音ひとつ立てずに給仕係の後ろをすり抜けているわ」
「な、なんだと……?」
ガレスも目を凝らした。
確かにエレンの言う通りだった。新米特有の落ち着きのない動きが消え、まるで熟練の猟兵のように無駄のない姿勢で椅子に腰を下ろしている。それどころか、彼らの鎧には毒蜘蛛の酸を浴びた跡も、爪で引っ掻かれた傷ひとつ見当たらなかった。
すると、近くのカウンターで飲んでいた中堅のC級探索者たちが、声を潜めてこんな噂話をしているのがガレスたちの耳に飛び込んできた。
『おい、見たかよ。さっき正面ロビーに張り出されたヴェロニカ首席査定官の特別告示!』
『ああ、見た見た! なんでも地下3階の閉鎖寸前だったボロ資料室に、辺境からヤバい老教官が赴任してきたらしいぞ。その人が撮った【基礎アーカイブ】って記録水晶を見た底辺パーティー七組が、今日一日で負傷者ゼロ・生還率100%、おまけに平均利益を五倍に跳ね上げたんだとよ!』
『ははっ、生還率100%だぁ? どうせ第1層や第2層の雑魚相手の話だろ?』
『いや、それがよ……換金窓口の連中が青い顔で言ってたんだけどな。あの『灯火』のカイたちが今日第3層の北水路から持ち帰った毒蜘蛛と岩毒トカゲの魔石、五十個すべてに刃物の傷ひとつなくて、しかも全員剣を一度も抜かずに討伐してきたって話だぜ……!』
ガシャン、とガレスの手からフォークが落ちた。
「剣を一度も抜かずに、第3層の毒蜘蛛と岩毒トカゲの群れを五十匹無傷で制圧した、だと……!?」
ガレスの顔から血の気が引いた。
第3層の浅層魔物とはいえ、五十匹もの群れを相手にして、前衛が剣を抜かずにかすり傷ひとつ負わないなど、通常の戦術ではあり得ない。ましてやスキルも持たないF級上がりの少年少女が、だ。
「……地下3階の『安全講習・映像資料室』、ね」
エレンが静かに席を立ち、ガレスを見下ろした。
「ガレス。私たち、このまま宿に帰って腐っている場合じゃないわ。あの新米たちがたった二日で何を見たのか……いえ、その辺境帰りの老教官とやらが何を教えているのか、自分の目で確かめに行くわよ」
「……っ、しかしエレン! 俺たちは中堅のB級だぞ! 今さらF級の新米向け安全講習の映像などを見て、何になるというんだ!」
「プライドで第25層の魔狼が倒せるなら、あなたの左肩は折れていないわよ」
エレンの氷のように澄んだ一言に、ガレスはぐっと言葉に詰まり、やがて悔しげに唇を噛んで立ち上がった。
「……わかった。行こう、ボルク! ただし、もし中身が新米向けのくだらない精神論だったら、三分で席を立つからな!」
こうして、誇り高きB級パーティー『白銀の轍』の三人は、夜の帳が下りたギルド本部の地下階段を、冷たい空気の流れる地下3階最奥へと降りていったのである。




