↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/15

第010話:中堅リーダーが凍りついた夜 〜「3号機が映した小指の動き」〜

ギルド地下3階、北回廊の突き当たり。

 薄暗い魔導灯がぽつんと照らす黒鉄の扉の前に立ったガレスは、不機嫌そうに眉間のシワを深くした。


「……ここか。『安全講習・映像資料室』。ふん、中堅の俺たちが足を踏み入れるような場所じゃないな」


 ガレスが重い扉を押し開けると、意外にもそこにはカビ臭さはなく、室温十八度のさらりとした快適な空気と、ほのかな深煎り珈琲の香りが漂っていた。

 室内にはすでに先客はいなかった。奥の大きな木机では、無精髭を生やしたくたびれた灰色のコート姿の中年男――ロウ・ヴァルハイトが、明日の撮影に使うらしい乾燥した樹皮と炭を小刀で静かに削っており、その隣で丸眼鏡の少女ノエルが貸出帳の整理をしていた。


「あ、いらっしゃいませ! アーカイブの視聴ですか?」


 ノエルがぱっと顔を上げて駆け寄ってくる。

 しかし、ガレスたちの胸元で輝く銀色の『B級認識票』と、実戦帰りの血生臭い傷跡を見た瞬間、ノエルは「ひゃっ」と小さく肩をすくめた。これまで資料室を訪れたのはF級やE級の若い新米ばかりで、ベテランのB級パーティーが来たのは初めてだったからだ。


「……ああ。表の掲示板で、ここに新米向けの迷宮サバイバル術があると聞いた。俺たちは『白銀の轍』だ。話題の『第1講』と『第2講』をここで見せてもらおう」


 ガレスが腕を組んで尊大な態度で告げると、奥の机から顔を上げたロウは、怒るでもなく穏やかな目元を緩めた。


「おや、第25層あたりからの帰りかな。槍使いの君は左の鎖骨にヒビが入っているし、盾役のドワーフさんは右肘の腱を痛めているね。……ノエル、そこの視聴卓に『第1講』と『第2講』をセットしてあげなさい。それから、痛み止めに温かい柳の樹皮茶を淹れてあげよう」


「……っ!? な、なぜ俺たちが第25層帰りで、怪我の箇所までわかる……!?」


 ガレスがギョッとして一歩後ずさった。

 包帯は鎧の下に巻いてあり、外からは見えないはずだ。それに第25層に行ったことなど一言も口にしていない。


「いやなに、君の白銀鎧の裾に付着している黒い結晶粉は、第24層から第26層の魔力減衰領域にしか出ない『黒吸魔岩』の削り粉だからね。それと、君が扉を開けた時に左肩をかばって重心が右へ二センチ逃げていたし、後ろのドワーフさんは盾を背負う革帯の角度が右肘をかばう位置にズレていた。……まあ、立ち話もなんだ、座ってゆっくり見ていくといい」


 ロウはそれだけ言うと、再び手元の樹皮削りに戻ってしまった。

 ガレスとボルク、そしてエレンの三人は、呆気にとられたまま顔を見合わせ、無言で部屋の隅にある視聴卓の丸椅子に腰を下ろした。


「……おいリーダー、今のジイさん、ただ者じゃねぇぞ。俺が右肘を痛めてることは、エレンにだって黙ってたのに……」

「た、たまたまだ、ボルク! 長年訓練所にいたなら、怪我の見分けくらいつくだろうさ!」


 ガレスは動揺を振り払うように言い張り、ノエルがセットしてくれた再生盤の魔導水晶を睨みつけた。

 やがて水晶が淡い光を放ち、空中に立体映像――『実戦・迷宮サバイバル術 第1講:迷宮の風の匂いと、松明の正しい掲げ方』が映し出された。


 画面の冒頭、第1層の薄暗い石畳に立ったロウが、「松明を目の前に掲げるな。斜め後ろ、腰の高さで八の字に振れ」と語り始める。

 それを見た瞬間、ガレスは鼻で笑おうとした。


「ふん、やはり第1層の松明の持ち方か。俺たちは魔導ランタンを使っているんだ、こんな初歩的な――」


「――黙って、ガレス。足元を見て!!」


 隣に座っていたエレンが、かつてないほど鋭く低い声でガレスの言葉を遮った。

 ガレスがハッとしてエレンの横顔を見ると、ハーフエルフの弓使いの紫の瞳が、画面の下半分に釘付けになっていた。


「あ、足元だと……? ただ第1層の通路を歩いているだけじゃ……」


 言いかけたガレスの口から、すうっ、と笑い声が消えた。

 画面の中で、ロウは初心者向けに気流の解説をしながら、湿った砂と小石が散らばる第1層の石畳をゆっくりと歩いている。

 だが――

 ノエルの浮遊カメラ『1号機』が、靴紐の結び方を映すためにロウの足元へズームしたその映像には、中堅B級の彼らにとって信じがたい光景が記録されていたのである。


「……砂が、舞っていない……?」


 ボルクがゴクリと唾を飲み込んだ。

 通常の探索者が迷宮の石畳を歩けば、どれほど忍び足を意識しても、踵(かかと)が着地する瞬間にわずかな砂塵が舞い、小石が擦れる音が鳴る。特に今日、第25層で双頭魔狼に気づかれたガレスたちは、自分たちの足音と金属音がいかに響いていたかを痛感したばかりだった。


 しかし、画面の中のロウのブーツはどうだ。

 踵、小指の付け根(外縁)、親指の付け根(母趾球)という足裏の三点に、まるで水滴が岩に染み込むような滑らかさで体重が移動している。

 靴底が地面を蹴っていない。地面の凹凸を吸い上げるように重心が水平移動しているため、乾燥した砂の上を歩いているにもかかわらず、砂粒ひとつ跳ね上がらず、上半身の頭の位置がミリ単位でピタリと水平に保たれているのだ!


「これが……新米向けの歩き方、だと……? バカな、王都の近衛騎士団長でも、これほど無音でブレのない歩法は見たことがないぞ……!」


 ガレスの背筋に、冷たい汗がツーッと伝った。

 だが、本当の戦慄はその十秒後にやってきた。


 映像の中で、通路の脇の排水溝から三匹の狂暴ゴブリンが飛び出してくる。

 ロウは「おっと、ちょうどいい見本が来たな」と穏やかな声で言いながら、半歩だけ足を引いてゴブリンたちの間合いへ滑り込んだ。


「……ッ!? 待て、ノエル嬢ちゃん! 今の一瞬を、五分の一の速度で巻き戻してくれ!!」


 ガレスが椅子から立ち上がり、悲鳴のような声を上げた。

 ノエルが「えっ? あ、はいっ!」と再生盤のダイヤルを回し、ゴブリンが飛び出す瞬間をスロー再生する。


 槍使いとして数千回の実戦を潜り抜けてきたガレスには、スロー再生された映像の意味が痛いほど理解できた。

 ロウが半歩足を引いたタイミング――それは、ゴブリンが排水溝から飛び出した後ではない。

 暗がりの中でゴブリンのふくらはぎの筋肉が収縮し、跳躍の予備動作に入ったコンマ五秒前に、ロウの足はすでに「ゴブリンが着地して首が無防備に伸びきる一点」へと移動を完了していたのだ!


 そして、一匹目の鎖骨を鞘の石突で斜め四十五度に小突き、その反動を利用して二匹目の顎を跳ね上げ、三匹目の膝関節を靴の側面で刈り取る。

 一切のスキル発光はない。魔力の高まりすらゼロだ。

 ただ純粋な「重心移動」と「骨格の理解」、そして「斜め四十五度の打撃角度」だけで、三匹の魔物がまるで糸の切れた操り人形のように、わずか四秒で無音のまま床へ沈んでいた。


「……スキルを、使っていない……それどころか、剣すら抜いていないのに、俺の《白銀閃光》より速く、正確に急所だけを砕いている……!」


 ガレスは膝から力が抜け、丸椅子へドサリと尻餅をついた。

 今日、第25層でスキルが減衰した途端に大振りの突きを空振りし、魔狼に噛みつかれた自分の無様な姿が脳裏をよぎる。もし自分があの時、この老教官のように「スキルに頼らず、半歩の重心移動と石突の打撃」を知っていれば、左肩の鎖骨を折られることなど万に一つもなかっただろう。


「……ねえ、ガレス、ボルク。……もっと恐ろしいことに気づいたわ」


 その時、隣で画面の右上――浮遊カメラ『3号機(チビ)』の別アングル映像を凝視していたエレンが、唇をわなわなと震わせながら呟いた。

 彼女の手先は、氷に触れたかのように真っ白になっていた。


「エレン……? どうしたんだ、そんなに青い顔をして」


「この……三匹のゴブリンを倒した直後の、二秒間を見て」


 エレンは震える指で、画面の一点を指し示した。

 それは、ロウがゴブリンを倒した直後、ポンコツの浮遊カメラ『3号機』がピピッ! と電子音を鳴らし、ロウからカメラを逸らして「何もいないはずの天井の暗い死角」を二秒間だけ映した謎のカットだった。


「ああ、そこですか?」とノエルが苦笑しながら説明する。「すみません、その3号機は一番古い初期型で、ときどき魔力センサーがバグって変な方向を向いちゃうんです。私が編集でカットしようとしたら、室長が『いや、そのまま残しておけ』って仰るので……」


「……違うわ」


 エレンは首を横に振った。中層屈指の索敵眼を持つハーフエルフの瞳が、1号機のメイン映像の端にかろうじて映り込んでいた「ロウの左手」を拡大させた。


「3号機が天井の暗がりを向く、ほんのコンマ一秒前……カメラの枠の端にある、ヴァルハイト教官の『左手の小指』を見て!!」


 ガレスとボルクが画面に顔を近づける。

 スロー再生された映像の中で、穏やかな笑顔で「これが基本の呼吸だ」とカメラに語りかけているロウの左手が、腰の後ろで――目にも留まらぬ超高速で、親指と小指を弾いて「足元から拾い上げた小石」を天井の暗がりへ向けて指弾(はじ)いていたのである!


 しかも、その小石が放たれた瞬間、音すら残さずに空気の波紋が弾け、3号機が映した天井の暗がりから「透明な粘液のようなしぶき」がほんの一滴だけ蒸発して消えていた。


「……い、今の、なんだ……? 小指で弾いた小石が、音速を超えて消えたぞ……!?」

「それに、あの天井の暗がりにいたのって……まさか、浅層にはいないはずの光学迷彩系の魔物を、解説をしながらカメラの死角で、小指一本で消し飛ばしたっていうの……!?」


 エレンとボルクが声を潜めて震え上がる。

 ガレスはゆっくりと首を巡らせ、部屋の奥で穏やかに樹皮茶を淹れている老教官の背中を見つめた。


 新米向けの安全講習? 無天賦の窓際室長?

 冗談ではない。この地下資料室にいるのは、自分たちB級探索者が束になっても足元にも及ばない、底知れぬ深淵の怪物――いや、本物の『達人』だ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。