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第011話:『第3講:三拍子の呼吸』と、苦いハッカ樹皮のガム

翌朝、地下3階の『安全講習・映像資料室』には、朝から熱気と活気が満ちていた。

 前夜にヴェロニカ首席査定官が設置した公式推奨プレートの効果もあり、貸出窓口にはF級・E級の若手パーティーだけでなく、D級やC級の探索者たちも次々と記録水晶を借りに訪れていたのだ。


 そして部屋の隅のベンチでは、昨夜あれほど尊大だったB級『白銀の轍』のリーダー・ガレスが、エレンやボルクとともに背筋をピンと伸ばして座り、今日公開される新作アーカイブ『第3講』の完成を今や遅しと待ち構えていた。

 その隣には、朝の探索前に挨拶に寄った初級パーティー『灯火』のカイ、ピノ、ミアの三人も並んでいる。


「お待たせしました皆さん! 今朝室長と第4層で撮影してきた最新作、『実戦・迷宮サバイバル術 第3講:三拍子の呼吸と、盾の3ミリ傾斜受け流し』の編集が終わりましたっ!」


 ノエルが誇らしげに魔導水晶を再生盤へセットすると、ガレスもカイも同時に身を乗り出した。

 空中に浮かび上がった立体映像の中で、ロウは第4層の広間に立ち、重装盾役と前衛に向けた解説を始めた。


『第3講では、迷宮で最も大切な「呼吸」と、大盾の「角度」について話す。……多くの探索者は、深い階層へ潜って空気が薄く乾いてくると、苦しくなって肩で浅く速い息をしてしまう。だが、迷宮で肩を上下させて息を吸うと、肺の底に古い空気が溜まって頭が痺れる【迷宮酩酊】を起こすうえ、重心が浮いてスキルの発動も一歩遅れる』


 その言葉に、ガレスとボルクはハッと息を呑んだ。

 まさに昨日、彼らが第25層で経験した息苦しさと動きの鈍りそのものだったからだ。


『だから迷宮を歩く時も、武器を振るう時も、必ず【三拍子の呼吸】を体に刻みなさい。……鼻から一拍で静かに吸い、二拍目で息を止めて丹田(へそ下)へ落とし、三拍目で奥歯の隙間から細く長く吐き切りながら踏み込む。吐き切ることで肺の底が完全に空になり、次の酸素が自然と入ってくる』


 続けてロウは、片手に持った練習用の鉄盾を構えて見せた。


『次に盾役だ。魔物の突進や爪を、盾の平面で真っ正面から受け止めてはいけない。どれほど分厚いミスリルの盾でも、正面から衝撃を受ければ腕の骨と肘の腱が先に悲鳴を上げる。……魔物がぶつかる瞬間、肘をほんの少し引き、盾の表面を【外へ3ミリだけ傾けなさい】。正面から受け止めるのではなく、盾の表面を滑り台にして、相手の突進力を斜め後ろの床へと滑らせて逃がすんだ』


 直後、画面の中で第4層の大型魔獣『鉄甲イノシシ(アイアン・ボア)』が、岩をも砕く勢いでロウへ突進してきた。

 ロウは一歩も退かず、三拍子の3拍目でふっと息を吐きながら膝を2センチ沈め、構えた鉄盾の角度をほんの3ミリだけ斜め下へ傾けた。


 ――シュパンッ!!

 重苦しい激突音ではなく、まるで水面を石が滑ったかのような軽快な擦過音が響いた。

 画面の横に、ノエルが編集で入れた立体図解ウィンドウ『【物理検証】盾の傾斜角:外へ3ミリ / 腕への衝撃負荷:98%カット(正面受け止め時との比較)』が鮮やかに表示される。

 体重三百キロを超える鉄甲イノシシの突進エネルギーが、3ミリ傾いた盾の表面をツルリと滑り落ち、ロウの腕に一切の衝撃を残さないまま、イノシシ自身の重みで斜め前の石畳へ顔面から激突して自滅したのだ!


「なっ……!? 正面から止めずに、3ミリ傾けて床へ滑らせるだと……!? これならスキルが減衰していても、俺の右肘に負担がまったくかからねぇじゃねえか!!」


 ボルクが目を見開いて膝を叩いた。


 さらに映像の後半、恒例の『最後のおまけコーナー(5分間)』に切り替わると、ノエルの手書きテロップ『【おまけクラフト】原価0銅貨! 魔石灰1:消し炭2で作る「消臭・防毒炭袋」!』という字幕とともに、ロウは焚き火の脇で「迷宮のどこにでもある白い魔石灰(ましょうかい)の粉と、焚き火の消し炭を1対2で混ぜ、粗い麻布で二重に包んだ【消臭・湿気取り炭袋】」の作り方を実演してみせた。


『これをブーツの中や背負子の底に入れておけば、靴擦れの原因になる湿気を吸い取ってくれるし、万が一迷宮で嫌な臭いのガスや瘴気に出くわした時、水で濡らして口と鼻に当てれば簡易の濾過マスクになる。原価はタダ同然だから、一人二つは持っておくといい』


 そして、映像が終了する最後の数秒間。

 画面の中のロウは、焚き火の道具を片付けながら、まるで昔の仲間に語りかけるような懐かしい節回しで、ふとこんな「呼吸の数え歌」を口ずさんだ。


『――そうそう。三拍子のリズムを忘れた時は、こう心の中で唱えるといい。

 “一(ひと)で吸って、二(ふた)で沈み、三(み)で石突を斜めに返す。焦るな若造、迷宮の夜は長いぞ”……ってね』


 再生が終わり、魔導水晶の光が消えた。

 カイやミアが「すごい! あの炭袋、さっそく今日作ってみよう!」と目を輝かせる中――

 隣に座っていたB級リーダーのガレスだけが、まるで雷に撃たれたかのように全身を硬直させ、椅子から立ち上がったまま凍りついていた。


「……ガレス? どうしたの、さっきから瞬きひとつしてないわよ」


 エレンが訝しげに声をかけると、ガレスの碧眼から、信じられないものを見るような震えがこぼれた。


「……今の、数え歌……『一で吸って、二で沈み、三で石突を斜めに返す。焦るな若造、迷宮の夜は長いぞ』……!」


 ガレスの脳裏に、十五年前の記憶が鮮烈に蘇った。

 当時十一歳だったガレスには、誰よりも尊敬する年の離れた長兄――王都の精鋭探索者だった兄がいた。

 十五年前、この迷宮の深層で発生した未曽有の大崩落事故『第7次深層救難作戦』。調査隊のほぼ全員が絶望視される中、重傷を負ったガレスの兄を含む数名だけが、名もなき一人の救難兵によって奇跡的に地上へ押し上げられたのだ。


 兄はその後、深層で浴びた高濃度の瘴気の後遺症で騎士を引退し、数年前に病死したが、亡くなる直前までガレスの手を握り、憑かれたようにこう遺言していたのである。


『ガレス、もしお前が迷宮都市アーク・バベルへ行ったら、スキルなどに頼るな。あの日、暗闇の底で俺たちを背負い、折れた短剣一本で深層の魔獣の群れを無音で屠り続けた【灰色の救難兵】を探せ。……あのお方は、俺がパニックで息が吸えなくなった時、背中を叩きながらこう歌ってくれたんだ。“一で吸って、二で沈み、三で石突を斜めに返す。焦るな若造、迷宮の夜は長いぞ”……と!』


「あ……、あああ……っ!!」


 ガレスは勢いよく振り返り、部屋の奥の机で日誌を書いていたロウ・ヴァルハイトを見つめた。

 年齢は四十代前半。左目の眉の上から頬にかけて走る、古い一文字の刀傷。そして、無造作に羽織られた灰色の外套。

 十五年前、ギルドの公式記録からなぜか名前を抹消され、死亡したと聞かされていた伝説の救難兵の面影が、目の前の「無天賦の窓際室長」と完全に重なり合ったのだ!


(ま、間違いない……! このお方こそ、十五年前に兄さんの命を救い、兄さんが生涯をかけて追い求めた『灰色の救難兵』ご本人だ……!!)


 ガレスが感極まって駆け寄ろうとした、ちょうどその時だった。

 『灯火』の斥候少女、山猫獣人のピノが、思い出したようにピルピルと大きな耳を揺らしてロウに話しかけた。


「あ、そうだロウ先生! 今の『炭袋』のお話で思い出したんですけど、私、一昨日と昨日、第3層の北側の古い水路の近くを通った時だけ、なんだか鼻の奥がムズムズして『くしゅん!』ってくしゃみが出たんです」


「ほう、くしゃみかい?」


 ロウは穏やかに顔を上げた。「風邪かな、ピノくん」


「ううん、違うんです! カビ臭い匂いじゃなくて、その北側の風穴の隙間からだけ、なんだかすごく『甘くて熟れた桃のお花みたいな匂い』がほんの少しだけ漂ってきて……それを嗅ぐと、私の鼻が勝手にムズムズしてくしゃみで弾き出しちゃうんです!」


 ピノが両手でちょこんと鼻を押さえて見せた、その瞬間だった。

 ――ピシッ。

 室温十八度の資料室の空気が、ほんのコンマ一秒だけ、絶対零度の刃のように張り詰めた。


 ロウの手元で動いていた羽根ペンが止まり、普段は眠たげに垂れている彼の双眸が、深淵を睨み据える鷹のように鋭く細められたのである。

 すぐ近くにいたガレスとエレンは、その一瞬の気配の変貌だけで心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚え、息を止めた。


(あ、甘い桃の花の匂い……? 第3層で? いや、そんなはずはない。あれは深層第60層より下の熱帯樹海にしか生息しない、S級指定の即死寄生植物【夢喰い胞子(ドリーム・イーター)】の芳香だぞ……! なぜそれが第3層の北水路に漏れている? ……昨日の「温かい赤い苔」といい、北側の地下深くで何かが起きているのか……?)


 だが、ロウは新米のピノたちを怯えさせないよう、次の瞬間にはいつもの柔和な笑顔へと戻っていた。


「……そうか。ピノくんの鼻は、どんな魔導探知機よりも優秀な一流の斥候の鼻だな。よく教えてくれた」


 ロウは立ち上がると、机の引き出しから、自分が辺境の薬木から煮出して作っておいた保存用の小袋を取り出した。

 中に入っていたのは、黒っぽくて四角い、樹液を固めたような粒だった。


「ほら、カイくん、ピノくん、ミアくん。それからそこのB級パーティーの君たちも、これを一袋ずつ持っていきなさい」


「えっ、なんですかこれ?」


 カイが受け取って匂いを嗅ぐと、鼻の奥がツンと通るような強烈なハッカと薬草の香りがした。


「俺が眠気覚ましに作っている『苦いハッカ樹皮と苦木(にがき)の噛みガム』だよ。……いいかい、これは大事な基礎として覚えておきなさい。これから迷宮のどの階層であっても、もしピノくんが言ったような『場違いに甘い花の匂い』を少しでも感じたら、すぐに息を止めてこの苦いガムを奥歯で噛み潰し、風上へ退避するんだ。この苦木とハッカの成分が、鼻と喉の粘膜を守ってくれるからね」


「は、はいっ! ありがとうございます、ロウ先生!」


 カイたちは無邪気に礼を言ってガムの小袋をポーチにしまい、元気に本日の探索へと出発していった。

 そして資料室に残されたのは、ロウとノエル、そして立ち尽くすB級『白銀の轍』の三人。


 ガレスはゆっくりとロウの机の前へ歩み出ると――誇り高き元貴族のプライドを完全にかなぐり捨て、石畳の床に両膝をついて、額が床に擦りつくほど深く頭を下げたのであった。

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