第012話:頭を下げた元貴族と、黒曜石の最終隔壁
室温十八度の地下資料室に、静かな沈黙が落ちていた。
黒曜石の石畳の上に両膝をつき、額が床に擦りつくほど深く頭を下げているのは、王都の騎士爵家の血を引く誇り高き中堅B級パーティー『白銀の轍』のリーダー、ガレス・フォン・シュタインである。
「な、ななな、ガレスさんっ!? B級のリーダーさんがどうして床に土下座なんかしてるんですかっ!?」
丸眼鏡のノエルが慌てふためいてスタイラスを落としかける中、ガレスは震える声で、しかしこれまでになく真っ直ぐで力強い言葉を絞り出した。
「……ヴァルハイト教官。いえ、ロウ先生と呼ばせてください。昨日の俺の無礼で傲慢な態度を、どうかお許しいただきたい……っ! そして、厚かましい願いだと承知の上で申し上げます! どうか俺たち『白銀の轍』に、先生の『基礎』を一からご指導いただけないでしょうか!!」
その後ろに立っていたハーフエルフの弓使いエレンと、ドワーフの重装盾役ボルクも、互いに目配せをしてからガレスの隣に進み出て、深く頭を下げた。
「私からもお願いします、ロウ先生。第25層の魔力減衰領域で、私たちがこれまで頼ってきたスキルも高価な装備も、すべて砂上の楼閣だったと思い知らされました。先生のアーカイブにあった『歩法』と『呼吸』こそが、私たちが生き残るための唯一の道です」
「俺からも頼むぜ、大将! あの『盾を3ミリ傾ける受け流し』、あれを自分の身体に叩き込まねぇと、俺は一生第25層の魔狼の前で震えるだけの役立たずになっちまう!」
中堅B級としてギルド内でも一目置かれていた三人が、プライドを完全に捨てて教えを請う姿。
だが、机の向こうの椅子から立ち上がったロウは、困ったように無精髭を掻きながら歩み寄ると、ガレスの肩にポンと手を置いて立ち上がらせた。
「頭を上げなさい、ガレスくん。俺はどこの誰にだろうと、生き残りたいと願う探索者に出し惜しみをするつもりはないよ。ここは誰でも利用できる『安全講習・映像資料室』だからね」
ロウの温かい掌の感触が肩に伝わった瞬間、ガレスはグッと奥歯を噛み締め、込み上げてくる熱いものを必死に堪えた。
先ほど『第3講』の最後で聞いた、あの数え歌――『一で吸って、二で沈み、三で石突を斜めに返す。焦るな若造、迷宮の夜は長いぞ』。
あれは紛れもなく、十五年前の『第7次深層救難作戦』でガレスの亡き兄を暗闇の底から背負い上げた、伝説の【灰色の救難兵】の歌だった。
(……先生は、ご自分が十五年前の英雄であることを隠しておられる。ノエル補佐官の話では、記録院の公式記録からすら名前が抹消されているという話だった。ならば、俺がここで軽々しく『兄の恩人ですか』などと騒ぎ立てるのは、先生のご迷惑になる……!)
ガレスは心の中で固く誓った。いつか自分が第25層の壁を越え、亡き兄が辿り着けなかった深層の領域へ胸を張って立てる槍使いになった時、あらためて兄の分の礼を伝えよう、と。
「よし。じゃあ三人とも、今日第24層へ再挑戦する前に、まずはその『中層で死にたがっている装備』を直そうか」
「えっ……? 俺たちの装備が、ですか?」
ロウはガレスの目の前に立つと、彼の肩から垂れ下がっている深紅の刺繍マントと、白銀のプレートアーマーの継ぎ目、そして長大な白銀槍の石突を順番に指差した。
「まずガレスくん。君が第25層で双頭魔狼に死角から跳びかかられた一番の原因は、スキルが減衰したことじゃない。その貴族時代の見栄で着けている『マントの布擦れ音』と、鎧の関節が鳴らす『金属音』だ。暗い減衰領域では、魔物は目ではなく耳で獲物を狩る。マントは今すぐ外して宿に置いていきなさい。そして鎧の肩と肘の継ぎ目には、この油を染み込ませた薄い鹿革を挟んで、金属同士がぶつかる音を消すんだ」
「は、はいっ!」
ガレスは迷うことなく、これまで自分の誇りの象徴だった深紅の貴族マントの留め金をパチンと外し、脇へ畳んで置いた。
「それから、その槍だ。地上の一騎打ちなら長い槍は有利だが、天井が低く曲がり角の多い第24層以深では、柄が長すぎると壁に石突が当たって、三拍子の3拍目の踏み込みがコンマ二秒遅れる。……ボルクくん、君は鍛冶屋の親族だったな? あとでこの槍の柄の後ろ側を『握り拳ひとつ分(約八センチ)』だけ短く切り詰めて、重心を手元へ寄せてやりなさい」
「おおっ、握り拳ひとつ分だな! 確かにそれだけで、狭い通路での取り回しが別物になるぜ!」
ボルクが感心して頷く横で、ガレスは懐から革表紙の手帳と鉛筆を取り出し、まるで熱心な士官学校の生徒のように猛烈なスピードでメモを取り始めた。
「『マントは廃止、鎧の関節には油漬けの鹿革……槍の柄は後ろから握り拳ひとつ分(八センチ)短縮して重心を丹田へ寄せる』、と……! 先生、握り位置はこれまで通り中央でよろしいのでしょうか!?」
「いや、いい質問だ、ガレスくん。ちょっとこの杖を短い槍だと思って構えてごらん」
ロウは部屋の隅にあった六尺棒をガレスに持たせ、その両手首の位置をミリ単位で直してやった。
「中層の狭い通路では、槍を大振りに振り回す余裕はない。前手の親指を穂先へ向けて添え、後ろ手は腰骨(腸骨)のすぐ横にピタリと固定する。腕の力で突くんじゃない。三拍子の2拍目で沈めた腰を、3拍目で前へ『2センチ運ぶ』だけで、槍の穂先は勝手に音速に近い速度で飛び出す。そして突いた瞬間、後ろ手の手首を半ミリ返せば、反対側の石突がそのまま背後の敵の顎を砕く第2の刃になる」
ロウが自ら六尺棒を受け取り、その場で「スッ、トン」と二拍の踏み込みと返しを実演してみせた。
棒の先端が空気を切り裂く音すら立てず、残像だけを残して前方の空間と背後の空間を同時に穿つその神業に、ガレスは「す、凄まじい……! 予備動作がまったく見えないのに、床の石畳が振動で鳴っている……!」と目を輝かせて手帳に図解を書き殴った。
普段は威厳あるB級リーダーが、正座せんばかりの勢いでメモを取る姿に、エレンは「……ガレスがあんなに純粋な目をするの、騎士団にいた頃以来ね」と苦笑交じりに微笑んだ。
続けてロウは、ボルク自身の背負っている分厚い大鉄盾をコツンと叩いた。
「ボルクくんの盾も同じだ。分厚いミスリルを貼り増す必要はない。むしろ表面の余計な飾り彫りを全部削り落として、中央から左右の外縁へ向かって『3ミリの緩やかな湾曲』と、牙を逃がすための『斜めの滑り溝』を三本彫り込むんだ。それだけで、重さを増やさずに突進を100%床へ滑らせる盾になる」
「かぁーっ、なるほどなぁ! 表面の飾り彫りに魔狼の爪が引っかかって、衝撃がモロに俺の右肘へ来てたってわけか! 叔父貴のガンツ親方に頼んで、今日中に表面を削り直してもらうぜ!」
自分の弱点を一瞬で解剖していくロウの言葉に、ボルクは嬉しそうに髭を揺らした。
そしてその時、ボルクはふと自分のすぐ横にある地下資料室の『鈍色の石壁』に手をつき、ゴツゴツとした指先でその表面を撫でてから、「……あん?」と片目のゴーグルの奥の瞳を細めた。
「どうした、ボルク?」とガレスが尋ねる。
「いや……なぁ大将、この資料室の壁、いったい何なんだ? 俺はドワーフの石工と鍛冶の家系だから、世界中の古い石組みを見てきたが……この壁の『超古代黒曜石』、目地にモルタルが1ミリも使われてねぇぞ。それどころか、表面に微細な対魔力圧縮の鍛造痕がある。これ、ギルド本部ができるずっと前……三百年前の神話時代に使われていた『対深層・最終防衛隔壁』と同じ石組みじゃねぇか?」
ボルクの何気ない一言に、ノエルが「えっ? ここってただの地下の古い物置部屋じゃないんですか?」と目を丸くした。
だがロウは、いつものように穏やかな笑顔を崩さず、ブリキのマグカップを傾けながらさらりと言った。
「昔の基礎工事が頑丈だったおかげで、こうして冬も夏も室温十八度で快適なんだろうさ。のおかげで珈琲豆も湿気なくて助かっているよ」
「……ははっ、違いねぇや!」
ボルクは豪快に笑って納得したが、その横でエレンだけは、ロウが座っている椅子の真下――大きな漬物石が乗せられた『錆びた丸い床ハッチ』に一瞬だけ視線を落とし、この部屋の底知れなさに小さく息を呑んでいた。
「さて、装備の手直しが済んだら、エレンくんの『弓の射法』も少し見せてくれ。……そして同じ頃、カイくんたちは第5層へ挑戦しているはずだ。彼らも今日、面白い発見をすることになるかもしれないな」
ロウが迷宮の古地図を見つめて微笑んだその頃。
浅層の中間地点である『第5層』へ足を踏み入れていたカイたち『灯火』の三人は、絶체絶命の危機に陥った他の新人パーティーの悲鳴を耳にしていた。




