第008話:首席査定官ヴェロニカの査察 〜「予算の無駄……えっ、生還率100%?」〜
「ひゃあっ!? き、来ちゃいました室長! 『氷の天秤』こと、首席査定官のヴェロニカさんですっ!」
ノエル・クラウゼンが蒼白になって丸眼鏡を押さえるのと同時に、地下資料室の黒鉄の扉が音もなく開いた。
そこに立っていたのは、一点の染みもないダークネイビーの監査官制服を颯爽と着こなした、身長百七十センチを超える長身の美女だった。
耳の下で切り揃えられた艶やかな黒髪、氷の刃のように涼やかで鋭い切れ長の瞳。左腕には真鍮枠の分厚いクリップボードと魔導計算機を抱え、右手で白手袋の端をキュッと引き締めている。
冒険者ギルド本部・財務監査部門の最高責任者にして首席査定官、ヴェロニカ・クロフォード(二十九歳)。
「数字にならない部署には銅貨一枚たりとも出さない」という徹底した合理主義で知られ、ギルド内の無駄な委員会や赤字施設を次々と整理してきた敏腕の金庫番である。
「失礼します。……あら、意外ね。半年前に来た時はカビと埃の巣窟だったはずだけれど、少しは掃除をしたようね」
ヴェロニカは室温十八度の快適な室内を見渡し、それから鼻先をわずかに動かした。
「それに、ずいぶんと香ばしい珈琲と……燻製肉の匂いがするわね。結構なことだわ、ヴァルハイト室長。閉鎖前の最後の思い出作りとして、優雅なティータイムを楽しんでいたのかしら?」
「いや、これは教材の試作品でね。良ければクロフォード査定官も一杯どうかな。豆は深煎りだ」
床ハッチの上の椅子から立ち上がったロウが、まったく動じる様子もなくブリキのマグカップを勧めると、ヴェロニカは冷ややかに片眉を上げた。
「結構よ。私はおしゃべりに来たのではなく、数字を確認しに来たの。……ノエル補佐官、先月通告した通り、この『安全講習・映像資料室』の年間維持費は銀貨二百四十枚。対して、過去半年間のアーカイブ貸出収益はゼロ。さらに新任のヴァルハイト室長は、保有スキルゼロの【無天賦】。……厳しいことを言うようだけれど、今の探索者たちが求めているのは高ランクのスキル教本であって、無天賦の退役教官による精神論ではないわ」
ヴェロニカはクリップボードから一枚の『部署閉鎖・備品接収命令書』を取り出し、羽根ペンを構えた。
「来月を待つまでもなく、今週をもって当資料室を閉鎖し、浮遊カメラなどの高価な魔導記録機材はすべて1階の広報課へ移管――」
「ま、待ってくださいヴェロニカ査定官っ!!」
ノエルが両手を広げて机の前に立ち塞がった。
「貸出実績はゼロじゃありません! 室長が昨日と今日で制作した『実戦・迷宮サバイバル術 第1講』と『第2講』は、すでにF級・E級の若手パーティー計七組に貸し出されています! あの、さっきまでここにいた『灯火』のカイくんたちをはじめ、彼らが窓口で推薦してくれた他の赤字パーティー六組も、今朝から『第1講』を見て迷宮へ潜っているんです!」
「七組? 無料貸出でしょう? それのどこがギルドの収益になるの」
ヴェロニカは冷たい溜息をついた。
「いいこと、ノエル補佐官。ギルドが今一番頭を抱えているのは、F級やE級の底辺パーティーが浅層で毎日のように大怪我をして帰ってくることなのよ。彼らが治癒院に担ぎ込まれるたび、ギルドの共済基金から一人あたり銀貨十枚以上の医療補助金が吹き飛ぶ。その上、貸し出したギルド支給の鉄剣や革鎧はボロボロに壊されて修繕費が嵩み、魔石はろくに持ち帰らない。……つまり、底辺パーティーが迷宮へ潜れば潜るほど、ギルドの帳簿は血を流すの。あなたが貸し出したというその七組も、どうせ今頃、1階の救護室で唸っているわよ」
ヴェロニカはそう断じると、腰のベルトからギルド本部の『リアルタイム精算・救護集計端末(魔導通信盤)』を取り出し、コンマ一秒の迷いもなく魔力を流し込んでデータを呼び出した。
「証拠を見せてあげるわ。その七組のパーティー名を言いなさい」
「えっと、『灯火』、『錆びた小盾』、『緑の風車』、『朝霧の犬』、それから……」
ノエルが貸出簿を読み上げるのに合わせ、ヴェロニカの白く細い指が魔導計算機の珠をパチパチと高速で弾いていく。
「ふん、どれもこれも先月だけで銀貨五十枚以上の赤字と医療費を出している常習犯ばかりね。さて、本日の彼らの救護室利用件数と、魔石精算額は――」
ピタリ。
ヴェロニカの指が、計算機の上で凍りついた。
「……え?」
氷の天秤と呼ばれる彼女の切れ長の瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。
「ちょ、ちょっと待ちなさい……この通信端末、故障しているのかしら……?」
ヴェロニカは端末を二度、三度と軽く叩き、もう一度本部のメイン帳簿からデータを再受信した。
しかし、空中に浮かび上がった緑色の数字は、一桁たりとも変わらなかった。
『対象:F級・E級パーティー計7組(総員23名)
前週までの平均負傷率:68.4% / 1日平均赤字額:マイナス銀貨9.2枚
↓
【本日(第1講視聴後)の実績】
・救護室搬送・負傷者数:0名(生還・無傷率 100.0%)
・解毒・治癒ポーション前借消費:0本
・貸出武具の破損・刃こぼれ修繕費:0銅貨
・1組あたり平均魔石・素材純利益:プラス銀貨38.5枚(前週比 480%増)』
「な……っ、なにこれ……!? なんなのよこの数字はぁっ!?」
クールビューティーの仮面が音を立てて崩れ落ち、ヴェロニカはクリップボードを落としそうになりながら画面に顔を近づけた。
「七組・二十三名が全員かすり傷ひとつ負わずに帰還して、ポーション消費ゼロ、武具の破損ゼロ!? それどころか、いつもなら中堅のD級パーティーしか持ち帰れない『無傷の毒蜘蛛の毒袋』や『特級魔石』を大量に換金して、たった一日でギルドに銀貨二百七十枚もの手数料収入をもたらしているじゃない!? ……ノエル補佐官! あなたたち、あの落ちこぼれの新人たちにいったいどんな禁呪や違法薬物を使ったの!?」
「い、違法薬物なんかじゃありませんっ! これを見てください!」
ノエルが再生盤のスイッチを入れると、空中にロウの『第1講:迷宮の風の匂いと、松明の正しい掲げ方』と『第2講:鉄喰い苔の滑り止めと、岩毒トカゲの無毒化燻製』が再生された。
ヴェロニカは腕を組んだまま、最初は疑わしげに画面を睨んでいた。
だが、ロウが「松明を腰の斜め後ろに構えるだけで足元の影が消える」と実演したところで彼女の眉がピクリと動き、続いて「狂暴ゴブリン三匹を、剣すら抜かずに石突の斜め四十五度打撃だけで四秒で無傷制圧する」シーンが流れた瞬間――ヴェロニカはゴクリと喉を鳴らした。
「……剣を抜かずに、柄頭で鎖骨だけを折る……確かにこれなら、鉄剣の刃こぼれ修繕費は絶対に発生しないし、ゴブリンの胸にある魔石を傷つけて査定額を下げることもないわ……!」
さらに『第2講』で、誰も見向きもしない無料の『鉄喰い苔』を炙ってブーツの滑り止めにし、捨てられていた『岩毒トカゲ』のリンパ管を抜いて高栄養の携帯食に変える映像が終わる頃には、ヴェロニカの瞳は完全に「金脈を発見した監査官の目」になっていた。
「……原価ゼロの迷宮の雑草とゴミ魔物が、靴の修繕費を減らし、食費と解毒薬代を浮かせ、探索者の生存率を100%に引き上げる……な、なんて恐ろしいコストパフォーマンスなの……! これをギルドの全初級パーティーに義務付ければ、年間で金貨三百枚以上の医療補助金が丸々浮いて、魔石の買取利益が三倍に跳ね上がるわ!!」
ヴェロニカは手にしていた『部署閉鎖命令書』を、ビリビリッ! と目にも留まらぬ速さで真っ二つに破り捨て、ゴミ箱へ放り込んだ。
そして、くるりとロウの方へ向き直ると、さっきまでの冷酷さが嘘のような輝く笑顔で、ロウの両手をガシッと握りしめた。
「ヴァルハイト室長っ! いえ、ロウ先生と呼ばせていただきますわ! 先ほどの非礼をお許しください、私の目が節穴でした! 当資料室の閉鎖はただちに撤回! それどころか、私の首席査定官権限で、来月からの資料室予算を現行の五倍に増額し、1階ロビーの中央回覧盤に『地下資料室・特別枠』を設置いたします!」
「お、おいおい、そんなに急に増やされても、俺がやることは変わらないぞ?」
「いいえ! 先生はここで美味しい珈琲を飲みながら、その魔法のような『基礎アーカイブ』をどんどん撮ってくださいまし! もしギルドの上層部や王都の連中で文句を言う奴がいたら、私がこの分厚い帳簿の角で物理的に黙らせておきますから!」
頼もしすぎる金庫番の突然の掌返し(そして心強いパトロン化)に、ノエルは「やったあぁっ!」とガッツポーズを決めた。
そして、ヴェロニカは宣言通りその日の夕方のうちに、1階ロビーの中央掲示板のど真ん中に『【ギルド監査部・特級推奨】生存率100%! 地下3階・安全講習アーカイブ(無料貸出)』という黄金の飾り枠付きプレートを設置し、そのすぐ下に利用者たちが自由に感想や質問を書き込める『実戦検証・伝言黒板』を据え付けた。
すると、今日生還してきたばかりの若手探索者たちが、誇らしげに白チョークを取って次々と書き込みを始めたのである。
『【F級・錆びた小盾】最初は半信半疑だったけど、第1講の通りに松明を腰の後ろに下げて八の字に振ったら、第3層の毒蜘蛛の待ち伏せが100m手前から丸見えだった! 今日初めてポーション代ゼロで銀貨35枚稼げたぞ!!』
『【E級・緑の風車】剣を抜かずに石突を斜め四十五度に落とすやつ、マジでヤバい。力のないうちの斥候でも狂暴ゴブリンが一撃で沈むし、鉄剣が全く刃こぼれしないから修繕費がゼロになった!』
『【F級・朝霧の犬】第2講のおまけの「岩毒トカゲの燻製ジャーキー」作ってみた! あんなゴミ魔物が酒場の特上ベーコンより美味い携帯食になるなんて、地下の室長さん何者なんだよ!?』
『【D級・名無しの弓使い】おい、誰か第1講の終了2分前のところ見た奴いるか? 3号機ってカメラが勝手に暗い天井を映した瞬間、何か透明なヤバいもんが弾け飛んでないか……?』
黒板の周囲には瞬く間に黒山の人だかりができ、半信半疑だった他の探索者たちも「おい、本当にそんなに稼げるのか!?」「タダなら俺たちも借りに行こうぜ!」と地下階段へ殺到し始めた。
そして同じ頃――第25層の壁にぶつかり、ボロボロに傷ついて帰還してきた一つの中堅B級パーティーが、その熱狂の渦を目にすることになる。




