第007話:北水路の奇妙なぬるま湯と、赤い苔のサンプル
翌日、午前八時。
第3層のメインルートを歩く『灯火』の三人の足取りは、二日前とは別人のように軽やかだった。
昨日の夜、宿に戻ったカイたちは、ロウの『第2講』の映像を思い出しながら、第1層の入り口付近で少しだけ採ってきた『鉄喰い苔』を火で炙り、松脂で自分たちのブーツの底に貼り付ける作業を行っていた。
「……本当に全然滑らないぞ、これ! ぬかるんだ石畳の上なのに、靴底が吸盤みたいにピタッと床に吸い付くし、カツカツっていう足音が全く鳴らない!」
カイが嬉しそうにその場でステップを踏むと、山猫耳のピノも「うん! 自分の足音が消えたおかげで、遠くにいる魔物の足音が昨日の三倍くらいハッキリ聞こえるよ!」と笑顔を見せた。
二時間ほどの探索で、カイとピノは『斜め四十五度の石突打撃』を使って狂暴ゴブリン十匹と岩毒トカゲ八匹を無傷で仕留め、ミアは『おまけ動画』で見た通りの手つきで、トカゲの顎下から白い毒リンパ管をスルスルと見事に引き抜いてみせた。
「できたっ! 見てカイくん、ピノちゃん! ロウ先生が動画でやってた通りに小刀の刃先を二ミリだけ入れたら、本当にリンパ管がぷるんって抜けたよ! 塩苔とハッカの葉で揉み込んだから、帰ったらすぐに燻製にできるわ!」
「さすがミアだな! よし、今日のノルマの魔石はもう十分に稼いだから、帰る前に『第3層の北側・旧水路』に寄って、予備の鉄喰い苔をたくさん剥がして帰ろう。この滑り止めゴム、予備を作っておけば他の新人にも売れるかもしれないぞ」
「ええ! あ、ちょっと待ってね、今のリンパ管の抜き方、私の『薬草絵本』の余白にもメモしておくわ」
ミアは胸元のポケットから、孤児院時代から十年間ずっと大切に持ち歩いている『差出人不明の手書き薬草絵本』を取り出し、羽根ペンで余白に図解を書き込んだ。
ふと横からそのページを覗き込んだカイとピノは、そこに描かれていた『元の挿絵の岩毒トカゲ』を見て、思わず微妙な顔で吹き出した。
「……なあミア、いつ見ても思うんだけどさ。その絵本を書いて送ってくれた足長おじさん、薬草の効能とか解毒の知識は神様みたいに詳しいのに、なんでトカゲの絵だけ『足が六本生えたジャガイモの化け物』みたいな激マズ画伯なんだろうな……?」
「も、もうっ、笑わないでカイくん! 絵はちょっと……ううん、だいぶ個性的だけど、昨日のロウ先生のお話と同じくらい優しくて実践的なことがたくさん書いてあるんだから!」
ミアが顔を赤くして絵本を胸にしまい込む。まさか自分たちがたった今感謝している地下資料室の老教官と、この『壊滅的なトカゲの絵』を描いた十年前の送り主が同一人物だとは、今の三人には知る由もなかった。
さらに北側へ向かう途中、三人は通路の分かれ道で、昨日自分たちが地下資料室の窓口で『第1講』の視聴を勧めた同期のF級パーティー『錆びた小盾』の面々と鉢合わせた。
彼らもまた、松明を腰の斜め後ろに構え、昨日までの生傷だらけの姿が嘘のように無傷で魔石袋を膨らませていた。
「おう、カイたちじゃないか! 昨日は教えてくれて本当にありがとな! あの老教官の『第1講』の通りに松明を下げて歩いたら、毒蜘蛛の待ち伏せが百メートル先から丸見えでさ、今日は俺たちもかすり傷ひとつなしだぜ!」
「よかったな! そうだ、お前たちにもこれを見せてやるよ。昨日の夕方に公開された『第2講』の鉄喰い苔の滑り止めだ」
カイが自分のブーツの裏を見せて簡単に仕組みを教えてやると、『錆びた小盾』のリーダーは目を丸くして「すげえ! 帰ったらすぐ俺たちも『第2講』を借りに行く!」と大喜びで帰還していった。
自分たちが救われただけでなく、同じように苦しんでいた仲間たちにも生還の輪が広がっていくことに誇らしい気持ちを抱きながら、カイたち三人は第3層のマップの北端にある、普段はあまり探索者が立ち寄らない古い排水路跡へと足を向けた。
ここで一つの奇妙な現象があった。
本来、この大迷宮『アーク・バベル』は、地下深くへ降りれば降りるほど、なぜか空気が乾燥して肌寒くなり、気圧が少しずつ下がっていくという性質を持っている(一般の探索者たちはそれを「深層の魔力圧のせいだ」と教えられていた)。
第3層の南側も、秋雨が降った後とはいえ、吐く息がうっすら白くなりそうなほどひんやりとしていたはずだった。
ところが――北側の旧水路へと続く細いアーチ通路に入った途端、先頭を歩いていたピノが「あれっ?」と足を止めた。
「……カイくん、ミアちゃん。なんかこの通路だけ、空気がモワッと温かくない?」
「本当だ……なんだかお風呂場の近くみたいに蒸し暑いわね」
ミアが額の汗を拭い、腰の後ろに構えていた松明を『横の八の字』に二回振った。
すると煙は、旧水路の突き当たりにある「崩落して塞がった北壁の隙間」から、まるで生き物の吐息のように規則正しく吹き出してくる温かい気流に押されて揺らいだ。
さらに、その北壁の下を流れる浅い水路に近づいたカイは、石畳を覆う『鉄喰い苔』の色を見て眉をひそめた。
「おい、これを見てくれ……普通の鉄喰い苔は真っ黒なはずなのに、この北壁の周りの苔だけ、まるで茹でたエビみたいに『赤黒く変色』してるぞ」
カイが革手袋をはめた手で水路の水に指先を浸してみると、氷のように冷たいはずの地下水が、まるで日向に置いた水か、あるいは『ぬるま湯(摂氏三十度近く)』のように生温かくなっていたのだ。
しかもその赤い苔からは、かすかに温泉の湯の花のような、硫黄と鉄が混じった独特の匂いが立ち昇っている。
「うーん……第3層に温泉なんてあったっけ? ピノ、この壁の奥に火を吐く魔物でもいるのか?」
ピノは山猫耳を壁の隙間にピタリと近づけ、目を閉じてしばらく音を聞いていたが、やがて不思議そうに首を振った。
「ううん、魔物の足音や呼吸は全然しないよ。でもね、この壁のずーっと奥……ううん、ずーっと『下』の方から、すごくかすかに『ゴォォ……』って、大きなお釜でお湯を沸かしてるみたいな低い音が響いてくるの。それに、昨日くしゃみが出たあの『甘い桃のお花の匂い』も、この隙間からほんのちょっとだけ混ざって吹いてきてる……っ、くしゅん!」
ピノが鼻をこすってくしゃみをするのを見て、カイはすぐに判断を下した。
「ロウ先生が『迷宮で少しでも普段と違う匂いや温度を感じたら、自分の頭で勝手に解釈せず、一歩下がって記録しろ』って言ってたよな。……よし、普通の黒い苔とは別に、この『温かくて赤い鉄喰い苔』と『水路のぬるま湯』を空き瓶に詰めて、ロウ先生に見てもらおう!」
「うん、それがいいわ!」
ミアが空のポーション瓶(昨日のうちに洗っておいたもの)に赤い苔とぬるま湯を採取してコルク栓を閉め、三人は長居をせずに北水路から撤退した。
◇
一時間後。
ギルド地下3階の『安全講習・映像資料室』の机の上に、まだほんのりと温かみが残るガラス瓶が置かれた。
「――なるほど。第3層の北側旧水路の突き当たりだけ、水温が三十度近くまで上がっていて、鉄喰い苔が赤く変色していた、か」
ロウ・ヴァルハイトは瓶の中の赤い苔をピンセットでつまみ上げ、アルコールランプの光に透かして見た。
その普段は穏やかな糸目が、ほんの一瞬だけ、針のように鋭く細められる。
「し、室長? この赤い苔、ただの突然変異じゃないんですか?」
横から丸眼鏡のノエルが覗き込むと、ロウはピンセットで赤い苔を軽く引っ張ってみせた。
「鉄喰い苔が赤く変色するのは、ただのお湯に浸かった時じゃない。『高濃度の火属性魔力を含んだ水蒸気』に、昼夜問わず晒され続けた時だけだ。……しかもピノ、君は壁のずっと下の方から、お釜が沸くような低い音が聞こえたと言ったな?」
「は、はいっ! とっても小さい音ですけど、地面の奥が『ゴォォ……』って震えてました!」
「でかしたぞ、三人とも。誰も見向きもしないような小さな違和感に気づいて、無理に奥へ進まずサンプルだけを持ち帰る――それでこそ一人前の斥候だ」
ロウはカイ、ピノ、ミアの頭を順番にポンポンと撫でると、そのガラス瓶を机の引き出しの奥へと大切にしまい込んだ。
三人が嬉しそうに『第2講』のお礼を言って帰っていくのを見送ったあと、ロウは壁に貼られた迷宮の古地図の前に立ち、第3層の北側旧水路の位置に、白チョークで小さな『×』印をつけた。
(第3層の北壁の裏……あそこは三百年前の設計図で言えば、深層まで繋がる『古い縦穴』が通っている場所のはずだが……まだ判断するには材料が足りないな)
それが、やがて迷宮都市全体を揺るがすことになる巨大なパズル――『第1の点』が地下資料室に置かれた瞬間だった。
だがその直後、地下3階の静寂を破るように、階段の上からカツ、カツ、カツ、と氷のように冷たく規則正しいハイヒールの足音が近づいてきた。
「――ノエル補佐官、および新任のヴァルハイト室長! ギルド本部・首席査定官のヴェロニカ・クロフォードです。当資料室の『閉鎖および予算凍結』に関する最終査定に参りました。扉を開けなさい!」




