第006話:『第2講:鉄喰い苔の滑り止め』と、5分間の野営メシ講座
「ロウ先生っ! ノエルさんっ! 聞いてください!!」
ギルド地下3階の黒鉄の扉が勢いよく開き、頬を紅潮させたカイ、ピノ、ミアの三人が転がり込むように入ってきた。
カイがその場で革袋の口を開けて机の上に傾けると、チャリン、チャリンと軽快な音を立てて、白銀色に輝く四十五枚もの銀貨が小さな山を作った。
「す、すごいです先生! 今日一日、第3層に潜って、一度も怪我をしなかったんです! ミアのヒールも解毒ポーションも一回も使わずに、狂暴ゴブリン十八匹と毒蜘蛛六匹を無傷で倒せました!!」
「ボクね、先生が教えてくれた通りに『横の八の字』の煙と風の匂いだけに集中したら、曲がり角の向こうにいる蜘蛛の居場所がぜんぶ分かったんだよ!」
「カイくんもピノちゃんも、斜め四十五度の石突だけで一発で魔物を気絶させちゃって……私、松明を持って後ろを歩いてただけなのに、銀貨四十五枚も稼げちゃいました!」
昨日まで雨に濡れた捨て犬のように肩を落としていた三人が、今は太陽のように顔を輝かせて競い合うように報告してくる。
丸眼鏡のノエルは「わああっ、本当に初日から黒字転換しましたよ室長! 私の編集した字幕、ちゃんと役に立ちましたか!?」と手を取って飛び跳ね、床ハッチの真上の椅子で珈琲を飲んでいたロウも、目尻に深い皺を寄せて嬉しそうに頷いた。
「よくやったな、三人とも。それは俺の力じゃない。君たちが恐怖に負けず、昨日のうちに百回の反復をサボらずにやり抜いた結果だ」
ロウに穏やかな声で褒められた瞬間、カイは鼻の奥がツンとして、あわてて袖で目元を拭った。孤児院を出てからずっと「スキル無しの無能」と馬鹿にされ続けてきた彼らにとって、それは生まれて初めて大人から認められた瞬間だったからだ。
「だが――」
ロウはカップを置き、少しだけ真面目な教官の顔になってカイのブーツを指差した。
「一日うまくいった翌日が、探索者にとって一番危ない。『もう第3層は楽勝だ』と気が緩んだ時に、足元をすくわれる。……カイ、ピノ。今日、水路の近くでゴブリンを突いた時、左足の靴底がほんの二ミリほど泥で滑った瞬間があっただろう?」
「えっ……!? あ、はい! 三匹目のゴブリンを突いた時、石畳に生えてた黒い苔を踏んで、ちょっとだけヒヤッとしました……でも、なんで見てたみたいに分かるんですか!?」
「左足のブーツの外側だけ、泥の跳ね方が斜めになっているからな。……ちょうどいい。君たちが来る前にノエルと一緒に第2層へ行って、その『滑り』を完全に防ぐための新しいアーカイブを撮ってきたところだ。座って見てごらん」
ノエルが「ふふん、今度の『第2講』は後半に特別なおまけコーナーも付いているんですよ!」と胸を張り、二本目の魔導記録水晶を再生盤にセットした。
空中に浮かび上がった立体映像には、『実戦・迷宮サバイバル術 第2講:厄介者の「鉄喰い苔」を味方につける靴底加工術』というタイトル文字が躍っていた。
「――第2講だ。浅層から中層にかけての水場には、踏むと氷のように滑り、しかも鉄製の武具に付着すると一晩で錆びさせる厄介な黒い苔『鉄喰い苔』が群生している。探索者はみんなこれを嫌って避けて通るが、実はこれほど優秀な無料素材は他にない」
画面の中のロウは、水路の壁からヘラで剥がし取った真っ黒な『鉄喰い苔』を、平らな石の上に乗せ、下から松明の火で十秒ほど軽く炙ってみせた。
すると、ヌルヌルしていた黒い苔から水分と酸性の毒気が抜け、パチパチと音を立てて『黒くて弾力のある天然ゴム状のシート』へと変化したのだ!
「鉄喰い苔の粘液は、熱を加えるとタンパク質が凝固して、濡れた岩肌に吸い付く天然の滑り止めゴムに変わる。これを松脂でブーツの踵とつま先の裏に貼り付けておけば、水路の濡れた石畳の上を走っても一ミリも滑らないし、足音も完全に消える」
「す、すげえええっ!! あの邪魔でしかなかった鉄喰い苔が、火で炙るだけで無音の滑り止めゴムになるなんて!?」
カイとピノが目を丸くして画面に身を乗り出す。
だが、彼らをさらに釘付けにしたのは、本編の解説が終わった直後に始まった『残り五分間のおまけ映像』だった。
画面の隅に、ノエルが可愛い手書きフォントで入れた『【おまけ:5分でできる!迷宮野営メシ講座】』という字幕が出る。
映像の中のロウは、第2層の岩場でよく見かける、体長四十センチほどの茶色いトカゲ――『岩毒トカゲ(ロック・リザード)』の死骸をまな板代わりの平石の上に乗せていた。
「うわっ、岩毒トカゲだ……あれ、浅層にうようよいるけど、肉がアンモニアみたいに臭くて、しかも食べるとお腹を下す麻痺毒があるから、ゴブリンですら食べないゴミ魔物ですよね?」
ミアが顔をしかめると、画面の中のロウがまるでその言葉に答えるかのように微笑んだ。
「みんながこの岩毒トカゲを捨てて帰るのは、肉そのものに毒があると思っているからだ。だが違う。臭みと毒の原因は、下顎の付け根から左の鎖骨の裏にかけて通っている、この『白い糸のような二本の毒リンパ管』だけだ。……死んでから五分以内に、ここをこうして抜く」
ロウは腰の鉄剣ではなく、料理用の小さな小刀を逆手に持ち、トカゲの顎下に刃先をわずか二ミリだけ滑り込ませた。
すると画面の横に、ノエルが編集で追加した拡大図解ウィンドウ『【解剖図解】下顎から深さ2ミリ! 白い2本の毒リンパ管を切らずに親指の腹でつまみ出す!』がピコンと浮かび上がる。
ロウはピンセットでも扱うかのように、刃の腹と親指の腹で白い糸のような管を摘まみ、スルスルッ、と一本の途中で切れることもなく綺麗に引き抜いてみせたのだ!
「えっ……!? あんな細い管、傷つけずにスッと抜けるものなの!?」
「リンパ管さえ抜けば、残るのは鶏のささみよりも上質な高タンパクの白身肉だ。これを一口大に削ぎ切りにして、迷宮の壁に生えている『塩苔』と『野ハッカの葉』と一緒に革袋に入れてよく揉み込む。そして、焚き火の直接の炎ではなく、少し離した場所で桜や乾燥苔の煙を三十分ほど当てて燻してやる」
画面が切り替わると、ノエルの手書き字幕『【レシピ要点】塩苔1:野ハッカ2で揉み込み、直火を避けて30分温燻!』というテロップとともに、小さな鉄鍋の網の上で、飴色に輝くトカゲ肉のジャーキーから「ジュワッ……」と黄金色の脂が弾け、白い香ばしい煙が立ち昇るドアップ映像が映し出された。
カメラのマイクが拾った「パチパチ、ジュウウ……」という音があまりにもリアルで、カイ、ピノ、ミアの三人のお腹が同時に「グゥゥ〜ッ!」と盛大に鳴り響いた。
「あはは、いい音だな。画面を見ているだけじゃ腹は膨れない。……ほら、さっき撮った時の実物だ。食べてごらん」
ロウが机の引き出しから取り出した油紙の包みを開くと、室温十八度の資料室いっぱいに、スモーキーな燻製の香りと爽やかなハッカの香りが爆発するように広がった。
「い、いただきますっ! ……はむっ」
一切れ口に放り込んだピノの金色の猫目が、カッと見開かれた。
次の瞬間、ピノは無表情のまま両手で頬を押さえ、お尻の山猫の尻尾だけがブンブンブンッ!!とプロペラのように超高速で左右に回転し始めた。
「んん〜〜〜っ!! なにこれ、すっごく美味しいよぉっ!! 全然臭くないどころか、噛むたびに鶏肉みたいな甘い肉汁と燻製のいい香りがジュワ〜って出てきて、あとからハッカがスッとして……いくらでも噛んでいられるよ!!」
「ほんとだ……っ! しかも不思議、ひと口食べただけで、さっきまでの足の疲れがスーッと引いて、身体の芯がポカポカしてくる……!」
ミアとカイも夢中でジャーキーを頬張り、そのあまりの美味しさに涙目になった。
彼らにはまだ分からなかったが、この『岩毒トカゲの無毒化燻製ジャーキー』には、トカゲが持つ微量の抗毒成分が加熱熟成によって変化し、迷宮の瘴気や神経毒を体内から弾き返すという、高価な抗毒ポーション以上の効果が秘められていたのである。
「そのジャーキーは一ヶ月は絶対に腐らないし、歩きながらでも噛める最高の携帯食になる。作り方は全部アーカイブに入れてあるから、明日は第3層で鉄喰い苔と岩毒トカゲを集めて、自分たちで作ってみるといい」
「はいっ!! 私、孤児院で料理番だったから、絶対にマスターしてみせます!」
ミアが瞳を輝かせて頷き、カイとピノも「明日は靴底の滑り止め用の苔採りと、トカゲ狩りだ!」と拳を突き合わせた。
だが翌日――この『鉄喰い苔』を採りに第3層の北側旧水路へと向かったカイたちは、そこで迷宮都市の運命を揺るがすことになる「最初の奇妙な異変(点)」に出会うことになるのだった。




