第005話:実践・第3層リベンジ! 〜山猫耳のくしゃみと、無傷の生還〜
翌朝、午前七時。
大迷宮『アーク・バベル』の地下第3層へと降りる石階段の前に、初級パーティー『灯火』の三人が立っていた。
昨日の雨の影響で、第3層の空気はいつも以上に湿っぽく、薄暗い通路の奥からは不気味な水滴の音が反響してくる。昨日ここで毒蜘蛛の巣に引っかかり、ゴブリンの棍棒で殴り倒された恐怖が蘇りそうになった瞬間――カイは自分の右足のブーツをトントンと床に打ち鳴らした。
「……よし。靴紐は『二重猟師結び』で完璧だ。盾のベルトも肘の下、指二本分。……行くぞ、ピノ、ミア。今日は俺たちのやり方を全部変える。ロウ先生の『第1講』の通りに動くんだ!」
「うんっ! 松明はミアちゃんが持って、腰の高さ・斜め後ろだね!」
「任せて! 私が二人の足元から十メートル先まで、絶対に影を作らないように照らすから!」
三人は隊列を組んで第3層の南側区画へと踏み出した。
昨日までの彼らなら、先頭のカイが松明を目の前に掲げ、緊張で肩を怒らせながらドタドタと足音を立てて歩いていたはずだ。
しかし今日は違う。
松明は三番目を歩くミアが左手の腰の斜め後ろに低く構え、カイとピノの背中越しに前方の石畳を斜めから照らし出している。
「……すごいよ、カイくん! 松明の光が直接目に入らないから、暗闇の奥までくっきり見える! しかも、床の石畳の僅かな凹凸まで影が伸びて、どこが滑るか一目で分かるよ!」
先頭を行く山猫耳の少女・ピノが、弾むような小声で言った。
昨日までは迷宮のあらゆる反響音に怯えていたピノだったが、ロウから『遠くの反響音は無視しろ。自分の鼻先三メートルに吹いてくる風と、床の影だけを見ろ』と助言されたことで、彼女の生まれ持った獣人の感覚が初めて研ぎ澄まされたセンサーとして機能し始めていた。
通路を百メートルほど進み、昨日彼らが罠にハマった「旧水路前の十字路」の手前に差し掛かった時だった。
カイが片手を上げてピタリと足を止め、後ろのミアに目配せした。
「ミア、ここで『八の字』だ」
「うん!」
ミアが腰の横で、松明をゆっくりと横の無限大(∞)の軌道に二回振った。
すると、赤橙色の炎から立ち昇った細い煙の筋が、十字路の『北側の崩れた通気穴』から吹いてきた気流に押され、さらに『左側の通路の天井』へ向かって不自然に渦を巻いた。
その気流を鼻先で受けたピノの大きな山猫耳が、ピルピルッ、と小刻みに震えた。
「……っ、くしゅん!」
ピノは小さな可愛いくしゃみを一つすると、あわてて両手で自分の鼻と口を押さえた。
「どうした、ピノ? 風邪か?」
「う、ううん、違うのカイくん……! 今、右側の北の風穴の方から、なんだか『熟れた甘い桃のお花』みたいな匂いがほんのちょっとだけ混ざってて、鼻の奥がムズムズしたの……でも、それより左の通路! 煙が天井に向かって渦を巻いてるすぐ上に、昨日と同じ『待ち伏せ毒蜘蛛』の酸っぱい匂いと、ゴブリンの脂の匂いが三匹分あるよ!!」
「よし、完全に読めたぞ! しかも見ろ、腰の高さの松明の光に照らされて、床の三メートル先に張られた蜘蛛の警報糸がキラキラ光って見えてる!」
カイは思わず武者震いした。
昨日は松明を顔の前に掲げていたせいで、自分たちの影に隠れて全く見えなかった透明な警報糸が、今は銀色の線のようにハッキリと視認できるのだ。
「俺が蜘蛛の糸を切らずに跨いで、ゴブリンを前に引きずり出す。ピノとミアは半歩後ろで待機だ!」
カイはロウのアーカイブ映像を脳裏に焼き付けながら、踵・母指球・小指球の三点に体重を乗せ、警報糸の上を音もなく跨いで十字路の中央へと踏み込んだ。
餌が網にかからないことに業を煮やした三匹の『狂暴ゴブリン』が、「ギャギャッ!」と短い奇声を上げて左の暗がりから飛び出してくる。
(来た……! 昨日ならここで怖くなって、力任せに剣を振り回してた。でも――よく見ろ、ゴブリンの肩を!)
目が暗闇に完全に順応しているカイには、先頭のゴブリンが錆びた棍棒を振り上げる瞬間、その右肩の筋肉がグッと縮み、重心が前足へ偏る様子が、まるでスローモーションのように見えた。
(ロウ先生が言ってた通りだ……! 棍棒が振り下ろされるのを待つな、肩が縮んだ瞬間に『左斜め前』へ半歩歩く!)
カイは地面を強く蹴ることすらしない。ただ膝の力を抜いて、左斜め前へとスッと半歩だけ身体を運んだ。
直後、ゴブリンの棍棒がカイのいた場所の石畳を空振りして火花を散らす。
目の前には、大振りして完全に無防備になったゴブリンの右肩――その首の付け根から伸びる『鎖骨』が、まるでお誂え向きの的のように晒されていた。
「――斜め、四十五度っ!!」
カイは鞘から抜いていない鉄剣の柄頭(石突)を逆手に握り、昨夜百回反復した通りの角度で、自分の体重を乗せてゴブリンの鎖骨の中央へ「ガツン!」と落とした。
メキッ、という確かな手応えが掌に伝わる。
一撃だった。昨日あれほど恐ろしかった狂暴ゴブリンが、棍棒を握る力を失い、「グ、ガ……」と泡を吹いてその場に前のめりに昏倒したのだ!
「やった……っ! 本当に一発で倒れた!!」
「カイくん、上! 天井から毒蜘蛛が降りてくるよ!」
ピノの鋭い声と同時に、天井の暗がりから体長一メートル近い『待ち伏せ毒蜘蛛』が、粘液の糸を引いて音もなく急降下してきた。
昨日、カイの革鎧を紙切れのように食い破り、神経毒で彼らを全滅寸前に追い込んだ、鋼鉄並みの硬度を持つ二本の黒牙が、カイの首筋めがけて真っ直ぐに突き立てられる!
(昨日なら、ここで足がすくんで背中から噛みつかれてた……! でも今は、ベルトを肘のすぐ下に締め直したこの盾がある!)
カイは息を止めず、昨日ロウに直してもらった通りの位置にある左腕のバックラー(小型丸盾)を、思考と同じ速度でスッと頭上へ掲げた。
しかも真っ正面から受け止めない。肘をほんの少し引き、盾の表面を斜めに傾けて牙の軌跡へ滑り込ませたのだ。
――ギャリィンッ!!
暗闇の中で火花が散り、毒蜘蛛の鋭い牙から滴った緑色の猛毒液が、カイの鼻先わずか五センチの空気を掠めて石畳へ飛び散り、ジュウウッ! と白い煙を上げて岩を溶かした。
だが、バックラーの斜面を滑った毒蜘蛛の巨体は、自分の落下速度を制御できずに空中で大きく体勢を崩し、カイの目の前へ無防備な腹と脚の付け根を晒して着地した!
「ピノ、今だ!」
「うんっ! 斜め四十五度――えいっ!!」
カイの背後から無音で飛び出したピノが、着地して体勢を崩した毒蜘蛛の頭胸部と脚の付け根の関節へ向かって、短剣の柄頭を斜め四十五度に叩き込んだ。神経節をピンポイントで潰された毒蜘蛛が脚を丸めて痙攣し、残った二匹のゴブリンも、カイとピノの落ち着いた石突の連携によって、わずか十数秒のうちに無力化された。
戦いが終わった十字路には、静寂だけが戻ってきた。
カイは荒い息を吐きながら、自分の両手と、無傷のピノとミアの顔を順番に見た。
「……怪我は、二人とも?」
「な、ないよ! かすり傷ひとつない!」
「カイくん、ピノちゃん……私、今日まだ一回もヒールを使ってないよ! 解毒ポーションも一本も開けてない……っ!!」
ミアが自分の背負子を抱きしめて、信じられないというように声を震わせた。
剣の刃すら一度も抜いていないから、刃こぼれの修繕費もゼロ。ポーションの消費もゼロ。
そしてそれからの三時間――『灯火』の三人は、まるで迷宮が生まれ変わったかのように、第3層の魔物の待ち伏せをすべて事前に風と煙で看破し、一滴の血も流すことなく討伐を続けたのである。
◇
その日の午後二時。
ギルド本部の精算窓口に並んだ『灯火』の三人の前に、窓口職員が目を丸くしながら銀貨の山と伝票を差し出した。
「き、君たち……昨日まで毎日赤字だったF級の『灯火』だよな!? 狂暴ゴブリンの無傷の魔石が十八個に、待ち伏せ毒蜘蛛の完全な毒袋が六個……! 修繕費も薬代の差し引きも無しで、本日の純利益――銀貨四十五枚の大黒字だぞ!!」
「「「ぎ、銀貨四十五枚ぃぃっ!?」」」
チャリン、と革袋に詰められた銀貨のずっしりとした重みを両手で受け取ったカイは、ピノとミアと顔を見合わせ、次の瞬間、精算窓口の前で三人一緒に飛び上がって抱き合った。
宿代の滞納を一括で払っても、まだ一ヶ月分の生活費と新しい備品代がお釣りが来るほどの金額だ!
「すごい……本当に、本当にロウ先生の言った通りになった……!」
「行こう、カイくん、ミアちゃん! 今すぐ地下3階の資料室へ行って、ロウ先生とノエルさんに報告しようよ!!」
周囲の探索者たちが「おい、あの底辺の三人が無傷で銀貨四十五枚稼いだぞ!?」「いったいどんなチートスキルを使ったんだ!?」とざわめく中、カイたちは輝くような笑顔で地下階段へと駆け出していった。
そして、この小さな新米パーティーの劇的な変化こそが、やがて迷宮都市の中堅・上位陣をも巻き込む大旋風の最初の火種となるのだった。




