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第004話:縦結びの靴紐と、左遷された記録技師の矜持

乾いたタオルで雨水を拭き取り、地下資料室の長椅子に並べて座らされたカイ、ピノ、ミアの三人は、緊張で膝の上に置いた拳を固く握りしめていた。


 目の前には、ノエルが淹れてくれた温かい麦茶のカップが三つ並んでいる。

 そして机の向こう側――床の錆びた鉄ハッチの真上に置かれた椅子に深く腰掛けたロウ・ヴァルハイトは、三人に名前やスキルを尋ねるよりも先に、彼らの『足元』と『手元』をじっと観察していた。


「……ふむ。君たち、今日は第3層の南側区画に入って、『待ち伏せ毒蜘蛛』と『狂暴ゴブリン』の混成群にやられたな?」


 ロウが何気ない口調でそう言った瞬間、カイたちは麦茶のカップを取り落としそうになった。


「えっ!? な、なんで分かるんですか!? 僕たち、まだ名前も今日の探索場所も一言も言ってないのに……! も、もしかして《千里眼》や《鑑定》のスキルをお持ちなんですか!?」


「いや、俺はスキルを一つも持っていない無天賦(スキルレス)だよ」


 ロウは苦笑して首を振ると、手にした白チョークの先で、カイのブーツ、ピノの耳、そしてミアの袖口を順番に指差した。


「スキルがなくても、見れば分かる。まず前衛の少年――君のブーツの底の溝に、赤茶色の粘土と、細かい石英の砂が詰まっているだろう。第1層から第3層の中で、赤い粘土と石英砂が混じるのは第3層の南側水路付近だけだ」


「あ……っ、ほんとだ……!」


「次に、君の右足の靴紐が『縦結び』になって緩んでいる。さらに左腕の革甲(ガントレット)の肘のすぐ下に、真新しいゴブリンの棍棒の打撲痕があるな。……つまり、暗い通路で前ばかり見て歩いていて、足元の毒蜘蛛の粘着糸に右足を取られた。縦結びのせいで靴の中で足首がぐらつき、重心が浮いたところへ横からゴブリンに飛び出され、盾を構えるのがコンマ五秒遅れた。なぜ盾が遅れたか分かるか?」


 カイはゴクリと唾を飲み込み、自分の左腕の小型盾(バックラー)を見た。


「俺の……動きが鈍かったから、ですか?」


「違う。君の反射神経は悪くない。盾を固定する革ベルトの位置が、肘寄りではなく『手首寄り』に三センチずれているせいだ。手首の近くに重心が来ると、盾が実際の重さの二倍重く感じられ、咄嗟に持ち上げる時に肩の筋肉が引っかかる」


 ロウは立ち上がってカイの傍らへ歩み寄ると、流れるような手つきでカイの左腕の革ベルトの金具を一度外し、肘の関節から指二本分上の位置へと締め直した。

 さらにその場に片膝をつき、カイの右足のブーツの紐をほどいて、靴底から足首まで均一にテンションがかかる『二重猟師結び』でキュッと結び直してみせた。


「……さあ、その状態で一度立ち上がって、盾を構えてごらん」


 言われるがままに立ち上がり、左腕をスッと上げたカイは、自分の目を見開いた。


「か、軽い……っ!? 嘘だろ、さっきまで鉛みたいに重かった盾が、腕の一部みたいにスッと上がる! しかも足首がブーツと一体化してるみたいで、どんな姿勢でもフラつかないぞ!!」


 魔法も強化スキルも一切使っていない。ただ革ベルトの位置を三センチ動かし、靴紐の結び方を変えただけなのに、自分の身体がまるで別人のように軽く動く事実に、カイは雷に打たれたような衝撃を受けた。


 ロウは続けて、山猫耳をぴくぴくさせているピノと、不安そうなミアにも優しい目を向けた。


「そっちの獣人のお嬢ちゃんは、耳が良すぎるせいで、迷宮の反響音まで全部拾ってしまって敵の距離感が分からなくなったんだな。そして後ろの治癒師のお嬢ちゃんは、前衛が傷つくたびに慌ててヒールを唱えて魔力切れを起こした。……三人とも、才能がないわけじゃない。『迷宮で死なないための基礎』を、誰からも教わっていないだけだ」


「ぼ、僕たちでも……スキルがない僕たちでも、第3層で生き残れるようになりますか!?」


 身を乗り出したカイの問いに、隣で機材をセットしていたノエル・クラウゼンが、丸眼鏡をクイッと押し上げて力強く頷いた。


「もちろんです! 私、元・王立魔導記録院の特級技師として断言します! さっき私が第1層で撮影して、たった今字幕とスロー解説を入れ終わったばかりのこの映像を見れば、あなたたちの明日の探索は百八十度変わりますよ!」


 ノエルは自慢げに胸を張ると、自分がなぜ王都の記録院からこの地下室へ飛ばされてきたのかを少しだけ語った。

 十五年前の深層大崩落事故で、誰かが命懸けで仲間を生還させた真実の記録が抹消されていたこと。そして『本当に人を救う記録を残したい』と願っていた彼女が、今日ロウの実演を見て、これこそが探索者の命を救う本物の記録だと確信したことを。


「――再生します! これが当資料室の第1号アーカイブ、『実戦・迷宮サバイバル術 第1講』ですっ!」


 ノエルが中央の再生盤に拳大の魔導水晶をセットすると、空中に横幅二メートルほどの鮮明な立体映像が浮かび上がった。

 画面の中で、第1層の薄暗い坑道に立つロウが、松明を目の前に突き出す危険性と、『腰の高さ・斜め後ろ』に構えることで足元の影を消し、夜目を守る原理を実演していく。


「すごい……っ! 松明を腰の後ろに下げただけで、床の蜘蛛の糸がこんなにハッキリ光って見えるんだ……!」

「それに見て、ピノちゃん! 十字路の前で松明を『横の八の字』に二回振ると、煙が風の吹いてくる方向を教えてくれるって!」


 ミアとピノが目を輝かせて画面に釘付けになる。

 そして映像が後半――暗がりから三匹の狂暴ゴブリンが飛び出してくるシーンに差し掛かった瞬間、前衛であるカイは息をするのも忘れて画面を凝視した。


 画面の中のロウは、剣すら抜いていなかった。

 ノエルが丁寧に入れた『【注目!肩の筋肉が縮む0.5秒前に死角へ半歩移動!】』という赤い矢印字幕の通り、ロウは滑るような足運びでゴブリンの棍棒を空振りさせ、鞘に収まった鉄剣の柄頭(石突)を斜め四十五度の角度でゴブリンの鎖骨へコツンと落とした。

 たったそれだけで、昨日カイたちが三人がかりで苦戦した狂暴ゴブリンが、四秒で三匹とも無傷のまま昏倒したのだ。


「す、すげええええっ!! 剣を抜いてすらいないのに、石突で鎖骨を斜め四十五度に突くだけで、ゴブリンが一発で沈んだぞ!?」

「これなら腕力のないボクの短剣の柄でも、ミアちゃんの杖の石突でもできるよ!!」


 カイとピノが歓声を上げる中、映像の終盤で一箇所だけ、カメラ(3号機)が「ピピッ!」と勝手に暗い天井の隅を二秒間だけ映す奇妙なカットがあったが、今のカイたちにはそれが何を意味するのかまでは分からなかった。ただ、画面の中のロウの佇まいが、まるで迷宮そのものを支配しているかのように圧倒的であることだけは、肌でビリビリと伝わってきた。


「どうだ、難しそうに見えたか?」


 映像が終わると、ロウは微笑みながら自分の腰の量産型鉄剣を抜き、その柄頭をカイに見せた。


「人間の鎖骨もゴブリンの鎖骨も、構造は同じだ。上から叩けば筋肉がクッションになるが、首の付け根から斜め四十五度の角度で体重を乗せれば、骨は簡単にたわんで神経を圧迫する。……さあ、明日の朝までに、その場で百回、斜め四十五度に石突を落とす角度だけを身体に覚え込ませなさい」


「は、はいっ!! やります、今すぐやります先生っ!!」


 カイの瞳に、一時間前までの絶望は微塵も残っていなかった。

 ピノも耳をピンと立てて「横の八の字の風読み」を何度も練習し、ミアはノエルから借りた羊皮紙に講義のポイントを一文字も漏らさず書き写していく。


 それから二時間後。

 室温十八度の地下資料室でみっちりと『基礎の型』だけを反復した三人は、見違えるほど晴れやかな顔で、明日の第3層リベンジへと向かうために地上への階段を駆け上がっていった。


 本当にあの「松明の持ち方」と「斜め四十五度の石突」だけで、昨日全滅しかけた第3層を突破できるのか――その答えは、翌朝の迷宮で、彼ら自身が誰よりも鮮烈に体験することになる。

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