第003話:解散寸前の新米パーティー『灯火』と、折れた真鍮の笛
夕方になると、迷宮都市『アーク・バベル』の空から冷たい秋雨が降り始めた。
冒険者ギルド本部の裏手にある「F級・E級向け精算窓口」の軒下で、泥と雨水に濡れた三人の少年少女が、肩を寄せ合うようにして一枚の小さな精算伝票を見つめていた。
「……本日の魔石買取額、銀貨四枚と銅貨二十枚。そこから解毒ポーション二本分のツケと、貸出防具の修繕費を引いて……差し引き、銀貨八枚の赤字、か」
かすれた声でそう呟いたのは、鳶色の短髪をした十六歳の少年剣士――カイだった。
頬には新しい擦り傷の上に貼られた安物の絆創膏があり、着ている中古の革鎧は胸当ての留め具が一つ千切れている。
彼の隣では、山猫の獣人族の少女・ピノが、銀灰色のショートボブの上にある大きな山猫耳をぺたんと横に伏せ、今にも泣き出しそうな声で言った。
「ご、ごめんねカイくん、ミアちゃん……ボクが第3層の曲がり角で、風の音と蜘蛛の足音が混ざってパニックになっちゃったから……っ。ボクの鼻と耳がもっと役に立てば、解毒ポーションなんて使わずに済んだのに……」
「ピノちゃんのせいじゃないよ! 私こそ、魔力量がすっごく少ないせいで、初級治癒を一回使っただけでフラフラになっちゃって……ごめんね」
栗色の髪を後ろで一つに束ねた十六歳の少女・ミアが、冷え切ったピノの両手を自分の掌で包み込みながら首を振った。
彼ら三人――初級パーティー『灯火』が結成されてから、今日でちょうど一ヶ月になる。
カイとミアは都市外れの貧しい孤児院で一緒に育った幼馴染であり、ピノは獣人だからと他の新人パーティーから弾き出されていたところをカイが誘って仲間になった。
三人とも、世間でもてはやされているような派手な『神授スキル』は持っていない。カイはただの無天賦の剣士見習い、ピノは少し耳と鼻が良いだけの斥候見習い、そしてミアは魔力量が人並み以下の治癒師見習いだった。
「おいおい、見ろよ。また『灯火』の連中が赤字伝票を抱えて突っ立ってるぞ」
「スキル無しが三人集まって第3層へ行こうなんて、無謀にも程があるっての。大人しく荷運びの日雇いでもやってりゃいいのに」
精算窓口の横を通り過ぎていく同期の新人探索者たち――派手なスキル紋章を光らせた『紅蓮の翼』のメンバーが、鼻で笑いながら雨の街へと去っていく。
カイは悔しさで奥歯を噛みしめたが、言い返す言葉はなかった。
今日で宿代の滞納も三日目になる。手元に残ったのは、明日のパンを買うのがやっとの銅貨数枚だけ。もし明日も赤字を出せば、ギルドの規則で防具を差し押さえられ、『灯火』は強制解散となってしまう。
(くそっ……俺がもっと強ければ。せめて、あの時の救難兵の人みたいに、どんな暗闇でも仲間を守れる力があれば……!)
カイは泥だらけの右手で、自分の首から革紐で下げている「半分に折れた真鍮の警笛」を強く握りしめた。
今から十年前、カイがまだ六歳だった頃のことだ。
迷宮の表層崩落事故に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになった荷馬車の中で泣いていたカイを、灰色の外套を着た名もなき救難兵が掘り出してくれた。
その男は、自分の首にかけていた真鍮の警笛を石で半分に叩き折り、笛として音が鳴る先端側を幼いカイの手に握らせて、こう言ったのだ。
『怖くなったらこれを吹け、坊主。どんなに深い穴の底でも、この音が鳴る限り、俺が絶対に見つけて背負って帰ってやる。……大きくなったら、残りの半分を俺に返しに来い』
あの日、自分を背負って暗闇を走り抜けてくれた男の広く温かい背中。
それに憧れて探索者になったというのに、今の自分は第3層のゴブリンと毒蜘蛛にすら歯が立たず、大切な仲間二人にひもじい思いをさせている。
「……ねえ、カイくん」
うつむいていたミアが、自分の背負子の胸ポケットから、油紙で大切に包まれた一冊の古い手書きの冊子を取り出した。
それは十年前から毎月欠かさず、カイとミアが育った孤児院の玄関先に差出人不明で届けられていた木箱――子供たちが勝手に『森の賢者様(足長おじさん)』と呼んでいた謎の恩人からの仕送りの中に入っていた、『迷宮の毒草と薬草の見分け方絵本』だった。
「この絵本を描いてくれた『森の賢者様』も、最後のページに書いてくれてたじゃない。『迷宮で生き残るのは、強い魔法を持つ者ではない。正しい知識と準備を持つ者だ』って」
ミアが開いたページには、驚くほど的確で実践的な薬草の煎じ方が丁寧な文字で書かれていた。ただし、その横に添えられた「毒トカゲに注意」という挿絵だけは、なぜか頭がジャガイモのように歪み、関節が逆向きに曲がった足が六本も生えているという、見る者が夢にうなされそうなほど絶望的に下手くそな画風だったが、ミアにとっては命の次に大切な宝物だった。
「そうだよ、カイくん! ボクたち、まだ諦めたくないよ……っ。ね、あそこの掲示板の隅っこに貼ってある紙を見て!」
ピノが山猫耳をピッと立てて、精算窓口の脇の雨に濡れた告知板を指差した。
そこには、丸っこくて几帳面な女の子の字(ノエルの筆跡)で書かれた、真新しい張り紙が一枚だけ貼られていた。
『【新設・無料公開!】第1層〜第3層で怪我や赤字が続いている新人探索者へ。
本日よりギルド地下3階【安全講習・映像資料室】にて、元・辺境救難訓練所主任教官による『実戦・迷宮サバイバル術 第1講』の記録水晶を無料公開しています!
※室内は暖かいです。雨宿りついでにどうぞ!』
「……無料、だって。しかも『元・救難訓練所の教官』……!」
『救難』という二文字に、カイの胸元の折れた真鍮の笛が、コトリと小さく揺れた。
「行ってみよう、二人とも。どうせこのまま宿に帰っても、冷たい水しか飲むものがないんだ。……明日、最後の探索に挑む前に、学べるものは何でも学ぼう!」
「うんっ!」
「いこう、カイくん!」
三人は濡れた外套の裾を絞り、ギルド本部の奥にある地下階段へと駆け込んだ。
地下1階、地下2階と降りるにつれ、冷たい湿気でピノが「ぶるっ」と身震いする。
本当にこんな暗い地下のどん詰まりに講習室なんかあるのかと不安になりかけたその時――地下3階の突き当たりにある黒鉄の扉の前で、ピノが突然「あっ」と鼻をひくつかせた。
「……カイくん、ミアちゃん。この扉の向こうから、すっごくいい匂いがする! 焦がした豆の香ばしい匂いと……すごく穏やかで、暖かい空気の匂い!」
カイが意を決して黒鉄の扉をノックし、ゆっくりと押し開けた。
「し、失礼します……! 表の張り紙を見て、講習を受けに来たんですが……!」
一歩中へ入った瞬間、三人は同時に目を丸くして立ち尽くした。
外の氷雨が嘘のように、部屋の中は春の陽だまりのような摂氏十八度の暖かさに満ちており、湿った服がみるみる乾いていくような心地よさがあった。
そして部屋の奥――大きな木机の向こう側で、ブリキのマグカップを片手に黒板の文字を整えていた灰色の外套の中年男と、三機の浮遊カメラを調整していた丸眼鏡の少女が、ぱっと顔を上げて振り返った。
「いらっしゃい! わあっ、室長、本当に来てくれましたよ! 記念すべき第1号の利用者さんですっ!」
ノエル・クラウゼンが椅子から飛び上がって大喜びする横で、室長と呼ばれた男――ロウ・ヴァルハイトは、泥だらけの三人の姿を頭から爪先まで穏やかな目で見渡し、そしてカイの首元に下がった「半分に折れた真鍮の警笛」と、ミアの胸ポケットから覗く「手書き絵本の端」に視線を留めた。
ほんの一瞬だけ、ロウの目尻が深く、懐かしそうに細められた。
だが彼はそれをおくびにも出さず、部屋の隅から乾いたタオルを三枚取って三人に投げ渡しながら、落ち着いた声で言った。
「よく来たな。まずは濡れた頭を拭いて、そこのストーブの近くに座りなさい。……風邪をひいたまま迷宮に入る奴は、ゴブリンに出会う前に自分の熱で倒れるぞ」
その声の不思議と安心する響きに、カイはなぜか、十年前の暗闇の中で聞いたあの救難兵の声を思い出し、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。




