第002話:『第1講:迷宮の風の匂いと、松明の正しい掲げ方』
巨大迷宮『アーク・バベル』の第1層は、地上の中央広場に開いた巨大な石造りの大階段から始まる。
階段を降りるにつれて、地上の乾いた風は消え、代わりに湿った土と苔、そしてかすかな鉄錆の匂いが鼻腔をくすぐり始めた。
通路の幅はおよそ五メートル。両側の壁には数十年前に設置された魔導灯が等間隔で並んでいるものの、魔力の供給が不安定なのか、半分以上がチカチカと明滅し、足元には深い影が落ちている。
「……ふぅ、ふぅ……っ。し、室長、待ってください……っ」
第1層のメインルートから一本外れた「旧・北側坑道」の入り口で、ノエル・クラウゼンは大きな革鞄と三脚を抱えて肩で息をしていた。
その三歩前を歩いているロウ・ヴァルハイトは、まるで春の陽だまりの中を散歩しているかのような自然体で足を止めた。奇妙なことに、ぬかるんだ泥と小石が散らばる通路を歩いているにもかかわらず、ロウの編み上げブーツからは「ピチャ」という水音も、砂利が擦れる音すらも、ただの一度も鳴っていなかった。
(おかしい……っ。私の耳がおかしいのかな? 室長は身長百八十センチ以上の大柄な男性なのに、すぐ後ろを歩いていて、足音も衣擦れの音も全く聞こえないなんて……)
記録技師として人一倍『音』と『映像』に敏感なノエルは、丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳をパチパチと瞬かせた。
「よし、このあたりでいいだろう。メイン通路から百メートルほど入った場所だが、新人がよく道に迷って魔物に囲まれる典型的な十字路だ。カメラの準備はできるか、ノエル?」
「は、はいっ! お任せください! 《精密魔導記録》、起動します!」
ノエルが魔導スタイラスをひと振りすると、彼女の周囲に浮いていた三機の目玉型水晶――『レコーダー・スプライト』の1号機、2号機、そして片羽根が少し曲がった3号機が、淡い翠色の光を帯びてふわりと散開した。
1号機はロウの正面から全身を、2号機は斜め上から手元と足元のアップを、そして3号機は周囲の空間全体を立体的に記録するマルチアングル配置である。
「いつでもどうぞ、室長! 赤いランプが点灯している間が録画中です!」
「了解だ」
ロウは腰から一本の松明を抜き取り、真鍮製のオイルライターを擦って火を灯した。
パチ、パチ、と松脂が爆ぜる音とともに、赤橙色の炎が暗い坑道を照らし出す。
カメラの前に立ったロウは、気負う様子もなく、まるで目の前に新米の生徒が座っているかのような穏やかな声で語り始めた。
「――『安全講習・映像資料室』のロウ・ヴァルハイトだ。この記録水晶を見ているということは、君は今日から迷宮に入る新人か、あるいは浅層で痛い目を見て、生き残る方法を探している探索者だろう」
落ち着いた、よく通るバリトンの声だった。
十時間も説教を聞かされるような学者たちの退屈なテープとはまるで違う、現場の空気を含んだ言葉に、カメラの後ろにいるノエル自身が思わずゴクリと唾を飲み込む。
「第1講のテーマは、スキルや剣を振るうよりもずっと前の段階――『迷宮の風の匂い』と『松明の正しい掲げ方』だ。……まず、今日担ぎ込まれた新人たちが全員やっていた、一番死にやすい松明の持ち方から見せよう」
ロウは右手に持った松明を、自分の顔の前――ちょうど目線の高さにグッと突き出して掲げた。
暗い迷宮に入った人間が、恐怖心から無意識にやってしまう一番ありふれたポーズだ。
「暗闇が怖いと、人は誰でもこうして火を目の前に突き出す。だが、2号機のカメラで俺の『目元』と『足元』を見てくれ。どうなっている?」
ノエルは手元のモニター水晶を覗き込み、ハッと息を呑んだ。
目の前に掲げられた松明の強い光がロウ自身の瞳を直撃して『夜目』を完全に潰しており、さらには松明の真下――ロウの足元から前方二メートルの床に、自分自身の腕と身体による『真っ黒な死角の影』が落ちていたのだ。
「そう。火を目の前に突き出すと、人間は自分のすぐ足元にある罠のワイヤーや、ぬかるんだ毒苔が全く見えなくなる。それだけじゃない。暗い通路の奥にいる夜行性の魔物から見れば、君は『ここに目が眩んで足元が見えていない無防備な獲物がいますよ』と宣伝しながら歩いているようなものだ」
ロウはすっと腕を下ろし、松明を『腰の高さ、しかも身体の真横から半歩うしろ』の位置へと引いた。
「松明は、必ず利き手と逆の手で持ち、腰の斜め後ろに構える。これなら自分の身体が遮光板になって、強い火の光が直接目に入らない。そして光は斜め後方から前方十メートルの床を均一に照らし出し、小石ひとつの影までくっきりと浮かび上がらせる」
「す、すごい……っ!」
ノエルはモニターを見比べて声を漏らすのを必死に堪えた。
松明の位置をたった五十センチ下げて後ろへ引いただけで、モニターに映る通路の視認性が、まるで昼間の道路のように劇的に変わったのだ!
「さらに、十字路や曲がり角の手前に来たら、立ち止まって腰の位置で松明を――こうやって、ゆっくり『横の八の字』に二回振る」
ロウが手首を柔らかく返し、腰の横で松明の炎を無限大(∞)の軌道で二度揺らした。
すると、立ち昇っていた一条の黒い煙が、十字路の『右側の通路』から吹いてきた微かな湿った風に乗って、フッと左斜め下へと吸い込まれるようにたなびいた。
「見えたかな? 迷宮の空気は常に動いている。八の字に火を振って煙の尾を見れば、風向きと湿度が分かる。今、右の通路から吹いてきた風には、湿った土の匂いに混じって『濡れた犬の毛と、酸っぱい獣脂の匂い』が混じっていた。……つまり、あの角の向こう五メートルの死角に、最低でも三匹のゴブリンが息を潜めて待ち伏せしているということだ」
「えっ……!? う、嘘でしょう室長、私の索敵魔導具にはまだ何も反応が――」
ノエルが驚いて声を上げた、まさにその瞬間だった。
十字路の右の暗がりから、濁った黄色い目を光らせた三匹の『狂暴ゴブリン(マッド・ゴブリン)』が、錆びた鉈と棍棒を振り上げて音もなく飛び出してきた!
通常のゴブリンよりも一回り筋肉が膨張した、浅層の新人殺しと呼ばれる変異個体だ。
「ひっ……! し、室長、危ないっ!!」
「慌てるな、ノエル。カメラはそのまま回しておけ。……ちょうどいい、実演の続きだ」
ロウの声のトーンは、一ミリたりとも変わらなかった。
彼は腰の量産型鉄剣を――鞘から抜かなかった。
左手に松明を持ったまま、右手で鞘に収まった鉄剣の『柄頭(石突)』を軽く握り、先頭のゴブリンが棍棒を振り下ろしてくるのを見るやいなや、踵・母指球・小指球の三点に均等に体重を乗せた滑るような一歩で、ゴブリンの懐の『左斜め前』へと半歩だけ踏み込んだ。
ブンッ、とゴブリンの棍棒が虚空を切る。
なぜ当たらないのか。ゴブリンが腕を振り上げる0.5秒前――その肩の筋肉がわずかに収縮した瞬間に、ロウがすでにゴブリンの『視覚と可動域の死角』へと歩いて移動していたからだ。
「ゴブリンの頭蓋骨は分厚い。力のない新人が上から剣を叩きつけると、刃が挟まって折れるか、二匹目に横から刺される。……狙うのは頭じゃない。ここだ」
ロウは解説しながら、自分の体重が前足へ乗る自然な落下エネルギーだけを乗せて、鉄剣の丸い柄頭(石突)を、ゴブリンの右肩の付け根――『鎖骨の中央』へ向かって、斜め四十五度の角度で、コツン、と軽く突き入れた。
ゴキッ、と乾いた小さな音が響いた。
ただそれだけだった。力任せに殴ったわけでも、スキルが光ったわけでもない。にもかかわらず、鎖骨と腕の神経叢をピンポイントで打ち抜かれた一匹目のゴブリンは、棍棒を取り落とし、声すら上げられずに白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「鎖骨は人間の指くらいの太さしかないから、少女の腕力でも斜め四十五度に石突を落とせば簡単に折れる。鎖骨が折れれば、魔物は武器を握るどころか呼吸すらまともにできなくなる」
続く二匹目と三匹目が、左右から同時に錆びた鉈を突き出してくる。
ロウは三拍子の静かな呼吸のまま、二匹目の手首を鞘の先で3ミリだけ外側へ弾いて三匹目の鉈と空中で衝突させ、バランスを崩した二匹の鎖骨を、まるで拍子木でも叩くかのように「コン、コン」と二連打で打ち抜いた。
開始からわずか四秒。
三匹の狂暴ゴブリンは、一滴の返り血も散らすことなく、通路の床に綺麗に並んで気絶していた。
「……な……っ、なんだこれ……」
カメラの後ろでモニターを見つめていたノエルは、全身に鳥肌が立つのを感じていた。
速すぎるのではない。むしろロウの動きは、お手本のようにゆっくりで、誰の目にもはっきりと見えた。けれど、そこには一ミリの無駄な力みも、一ミリの予備動作も存在しない。三十年という歳月が極限まで削ぎ落とした『生きた物理法則の結晶』が、そこにはあった。
だが、その直後――
ノエルの肩の上を飛んでいた一番古い浮遊カメラ『3号機』だけが、突然「ピピッ!」と小さな電子音を鳴らし、ロウでもゴブリンでもない、『十字路のさらに奥の真っ暗な天井の隅』へと勝手にレンズを向けて二秒間だけズームした。
それとほぼ同時、カメラの死角になっていたロウの左手の小指が、ほんのわずかに弾かれたように動いた。
暗闇の奥で「パチン」と空気の爆ぜる極小の音が鳴り、何かが音もなく天井の裏へと消えたようだったが、3号機はすぐに何事もなかったかのようにロウの正面へと向き直った。
「……あ、あれ? もうっ、また3号機の自動追尾がバグって変な壁を映しちゃいました! すみません室長、今の二秒間はあとで編集でカットして――」
「いや、ノエル。カットしなくていい。そのまま残しておいてくれ」
「え? で、でもただの暗い天井が映っただけですよ?」
「いいんだ。いつか、そこまで見る目が育った奴が出てきた時に、いい教材になるからな」
ロウは悪戯っぽく目尻を下げて笑うと、気絶したゴブリンの腰から魔石袋を手際よく回収し、再びカメラに向かって向き直った。
「――以上が第1講『風の匂いと、松明の掲げ方、そして鎖骨の折り方』だ。剣を抜く必要すらない。まずは靴紐を固く締め直し、松明を腰の斜め後ろに構えてごらん。それだけで、君が今日生きてギルドへ帰れる確率は、劇的に跳ね上がるはずだ」
パチン、とロウが指を鳴らすのを合図に、ノエルは夢見心地のまま録画停止のスタイラスを振った。
「し、室長……っ! すごいです、すごすぎますこれ!! 私、王立記録院で何千本ものS級やA級冒険者の戦闘記録を見てきましたけど、こんなの見たことありません! 今すぐ資料室へ戻って、最高画質で字幕とスロー解説を入れて『第1講アーカイブ』を完成させましょう!!」
資料室へと駆け戻ったノエルは、そこから記録技師としての執念を爆発させた。
スキル《高速映像編集》をフル回転させ、ロウの実演映像の上に、初心者でも一目で要点が分かるような光の図解テロップを次々と焼き付けていったのである。
『【重要ポイント①】松明の定位置 = 利き手と逆・腰の斜め後ろ30cm(足元の死角ゼロ!)』
『【重要ポイント②】曲がり角では松明を「横の八の字(∞)」に2回振れ! 煙が流れる方向と匂いで待ち伏せを看破!』
『【実戦スロー図解】剣は抜くな! 相手の肩が縮んだ瞬間に左斜め前へ半歩 → 柄頭(石突)を「斜め四十五度」に鎖骨へ落とす!(必要筋力:少女の片腕以下/刃こぼれ修繕費:0銅貨!)』
「よしっ、完成です室長! 図解とスロー再生付き、全十五分の『実戦・迷宮サバイバル術 第1講』! さっそく貸出窓口の棚に並べて、表の告知板に張り紙を出してきますね!」
丸眼鏡をキラキラと輝かせて駆け出していくノエルに、ロウは「やれやれ、すごい仕事ぶりだな」と苦笑しながら珈琲を一口すすった。
その頃の二人はまだ知る由もなかった。
この日の夕方に地下資料室の片隅でひっそりと公開されたばかりの『第1講』の記録水晶を、借金まみれで明日にも解散しようとしていた泥だらけの少年少女たちが手に取ることになるのを。




