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第001話:辺境からの転属と、室温18度の地下資料室

迷宮都市『アーク・バベル』の朝は、鍛冶場の煙と、傷ついた探索者たちを運ぶ担架の車輪の音から始まる。


 大陸中央の大陥没孔を取り囲むように築かれたこの巨大都市には、毎日何千人もの若者が富と名声を求めて集まってくる。彼らの腰にはピカピカの魔導剣が吊るされ、その胸には生まれつき授かった『神授スキル(天賦)』の紋章が誇らしげに輝いていた。


「どけ、どけぇっ! 第3層で新人パーティーが『待ち伏せ毒蜘蛛』の巣に突っ込んだ! 前衛が二人とも麻痺して呼吸が浅いぞ、治癒師を呼べ!」


 冒険者ギルド本部・1階ロビーの大理石の床に、緑色の毒液と泥にまみれた少年たちが運び込まれてくる。

 まだ十代半ばだろう。真新しい革鎧の胸元は無残に裂け、手には高価な火属性の魔導杖が握りしめられたままだった。


「バカな……俺にはレアスキル《紅蓮弾》があるんだぞ……なんで、たかが第3層の蜘蛛なんかに……」


 担架の上でうわ言のように呟く少年の横を、くたびれた灰色の防塵外套を羽織った一人の男が、静かに通り過ぎた。

 男の名は、ロウ・ヴァルハイト。四十二歳。

 短く整えた黒髪にはこめかみのあたりに白いものが混じり、無精髭をうっすらと蓄えたその顔は、どこにでもいる穏やかな中年男に見えた。だが、彼は担架の上の少年の「ブーツの靴紐」と「煤けた袖口」を一瞥しただけで、なぜ彼らが全滅しかけたのかを正確に理解していた。


(……右足の靴紐が縦結びになって緩んでいる。あわてて踏み込んだ時に足首が外へ逃げて、重心が浮いたな。それに左袖の焦げ跡……暗い通路で松明を目の前に掲げたまま、《紅蓮弾》を撃ったんだろう。自分の火球の閃光で夜目が焼けて、天井から降りてきた二匹目の蜘蛛の糸が見えなかったんだ)


 ロウは小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で「命があって何よりだ」と呟いた。

 彼の懐には、一枚の辞令書が入っている。


『元・北部辺境救難訓練所 主任教官 ロウ・ヴァルハイト殿。貴殿を本日付で、迷宮都市アーク・バベル冒険者ギルド本部・地下3階【安全講習・映像資料室】の室長に任ずる』


 体裁の良い転属辞令だが、要するに左遷であり、事実上の隠居勧告だった。

 ここ十年ほどの間、王国全土では『神授スキル至上主義』と呼ばれる風潮が急速に広まっていた。強力な攻撃スキルや身体強化スキルを持つ若者を優先的にスカウトし、高価な魔導具を持たせて迷宮へ送り込めば、手っ取り早く大量の魔石を回収できる――王都の魔導院やギルド上層部がそう判断した結果、ロウが二十年以上にわたって教鞭を執ってきた「スキルを持たない者のための基礎訓練所」は、予算削減の名のもとに先月で閉鎖されたのである。


「無天賦(スキルレス)の老兵が教えるロープの結び方や歩き方など、今の時代には不要だ」


 閉鎖を通告しに来た王都の役人はそう言って笑った。

 けれど、現実はどうだ。ロビーの片隅にある『本日の遭難・負傷者リスト』の黒板には、昨日だけで二十四名もの若手探索者の名前が書き連ねられている。スキルという派手な武器に頼るあまり、迷宮の風の匂いを嗅ぐことも、足元の石畳の湿り気を確かめることも知らないまま、若者たちが毎日ボロボロになって担ぎ込まれてくるのだ。


「……さて。俺の新しい職場は、もっと下だったな」


 ロウは背中の大きな麻袋を担ぎ直すと、華やかな1階ロビーの喧騒を背に、ギルド本部の最も奥にある古びた石造りの螺旋階段へと足を向けた。


 地下1階は、魔石の査定所と換金金庫。

 地下2階は、古い帳簿や破損した武具の保管庫。

 そして、誰一人すれ違う者のいない薄暗い階段をさらに降りた最奥――地下3階の突き当たりに、分厚い黒鉄の扉があった。


 扉の横には、錆びついた真鍮のプレートが斜めにぶら下がっている。

 『安全講習・映像資料室(関係者以外立入自由・無料貸出中)』。

 自由も何も、扉の前の石畳にはうっすらと綿埃が積もり、ここ数週間、外部の人間が誰一人として足を踏み入れていないことは靴跡を見れば一目瞭然だった。


 だが、ロウが黒鉄のドアノブに手をかけ、重たい扉を押し開けて一歩中へ踏み込んだ瞬間――彼の細い目が、ほんのわずかに見開かれた。


「……ほう」


 空気が違った。

 地下2階までのジメジメとしたカビ臭さや、地上から響いてくる馬車の振動が、扉を閉めた途端にナイフで断ち切ったかのように完全に消え失せたのだ。

 窓ひとつない地下3階の密室であるにもかかわらず、室内の空気は驚くほど澄み切っており、温度は冬でも夏でも快適であろう「摂氏十八度」前後にピタリと保たれている。壁や丸天井を構成しているのは、ギルド本部の白い石材ではなく、継ぎ目ひとつ見当たらない鈍色の『超古代黒曜石』だった。


(やっぱりな。ここはギルドが建つよりずっと前――三百年前の『初代迷宮守』が造った区画のままだ)


 ロウが懐かしむように黒曜石の壁を指先で撫でていると、部屋の奥に積み上げられた魔導水晶の山の中から、女の子の慌てた声と、金属製の三脚が大きく傾く音が響いた。


「ひゃあっ!? だ、誰ですか!? ここは閉鎖予定の資料室ですよ、借金の取り立てなら経理課へ――って、あ、あああっ! 三脚がっ、親機の水晶レンズが落ちちゃいますぅぅっ!!」


 水晶ケースの隙間から顔を出した丸眼鏡の少女が、バランスを崩した真鍮の三脚に袖を引っ掛けた。

 三脚のてっぺんに固定されていた、人の頭ほどもある繊細な『特級魔導記録レンズ』が外れ、硬い黒曜石の石畳へ向かって真っ逆さまに落下する。

 少女の手からは二メートル以上離れている。落ちれば粉々に砕け散る高さだった。


 少女が絶望して目を閉じた、その瞬間。

 ――音は、しなかった。

 扉の前に立っていたはずのロウの姿が、まるで陽炎(かげろう)が揺らいだかのように、入り口から四メートル離れた三脚の真下へとすでに移動していたのである。

 床を蹴る「ダンッ」という踏み込み音すらなかった。ロウは背中の大きな麻袋を揺らすことすらなく、片足をスッと前に差し出し、落下してきた高価な水晶レンズの底を――編み上げブーツの革の甲(つま先)の上へ、まるで羽毛でも受け止めるかのようにミリ単位で速度を合わせて乗せ、ピタリと静止させたのだ。


「……え?」


 ガシャンという破砕音がいつまでも響かないことに気づき、少女が恐る恐る目を開けた。

 すると、目の前にしゃがみ込んだ灰色の外套の中年男が、自分のつま先の上で傷ひとつなく鎮座している水晶レンズを両手でひょいと拾い上げ、「いいレンズだな。割れなくて何よりだ」と穏やかに微笑んで差し出していた。


「あ……、あああっ!? い、今、入り口の扉のところにいませんでしたか!? 私、足音も衣擦れの音もぜんぜん聞こえなかったんですけど……っ!?」


 少女は分厚い丸眼鏡がずり落ちるのにも構わず、信じられないものを見るようにロウの顔と、さっきまで彼が立っていた四メートル後ろの扉を交互に見た。

 身長は百五十センチそこそこだろうか。亜麻色の髪を左右のおさげに編み込み、インクの染みがついた袖まくりの白衣の下に、機能的な革ベストを着込んでいる。左右の耳には羽根ペンと魔導スタイラスを挟み、大きな琥珀色の瞳が丸眼鏡の奥でパチパチと瞬いた。


「君が、この資料室の補佐官だな。ノエル・クラウゼン技師、で間違いないか?」


 ロウがレンズを手渡しながら穏やかな声で尋ねると、少女――ノエルは慌ててレンズを抱きしめ、ずり落ちた丸眼鏡を押し上げて背筋をピンと伸ばした。


「は、はいっ! 助けていただいてありがとうございます! 元・王立魔導記録院所属、現在は当資料室補佐官のノエル・クラウゼン、十九歳です! ……もしかして、今日から赴任されると聞いていた新しい室長の、ロウ・ヴァルハイト教官ですか?」


「ああ。ただのロウでいいよ。これからよろしく頼む、ノエル」


「よ、よろしくお願いしますっ! ……というか室長、今の動き、いったい何なんですか!? まるで重力がないみたいにスーッて滑ってきて、五キロもある水晶レンズを靴の上でバウンドすらさせずに止めるなんて、S級クラン『蒼穹の旅団』の団長・《氷華の剣姫》セリア・アークライト様みたいな達人にしかできない芸当ですよ!?」


「はは、ただの荷物運びの癖だよ。辺境の訓練所じゃ、生徒が落とした鍋や薬瓶を足で受けるのが日常茶飯事だったからな」


 ロウがこともなげに笑うと、ノエルは「な、鍋と一緒にしないでください〜っ!」と目を白黒させたが、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。


「あの……せっかく辺境から来ていただいたのに、こんなことを言うのも心苦しいのですが……いま名前を出した《氷華の剣姫》セリア様たちが深層第50層の遠征に出て以来、街の若い探索者たちはみんな『派手な神授スキルで一攫千金!』と浮かれているんです。そのせいで、この『安全講習・映像資料室』は、先代の室長が半年前に辞めてから貸出実績がほぼゼロで……ギルドの首席査定官からは『来月までに利用者が増えなければ、予算を打ち切って物置にする』と通告されていまして……」


 ノエルの周囲には、リンゴほどの大きさがある目玉型の浮遊魔導具『レコーダー・スプライト(自動記録水晶)』が三機、プカプカと宙に浮いていた。

 そのうちの二機はピカピカの最新型だったが、一番後ろを飛んでいる一機――片方の小さな羽根飾りが少し曲がり、レンズの真ん中に古い十字の紋様が入った『3号機』だけは、どこか眠たそうに上下に揺れている。


「いい機材を持っているじゃないか。王立魔導記録院といえば、王国最高のエリート機関だろう? そんな場所の特級技師が、どうしてこんな地下室の番人を?」


 ロウが部屋の奥にある大きな木机へ歩み寄りながら尋ねると、ノエルはキュッと唇を噛み、拳を握りしめた。


「……私、記録院の古文書庫で気づいてしまったんです。十五年前に起きた『第7次深淵調査隊』の大崩落事故……公式記録では『先遣隊は全滅、単独で救助に向かった救難兵一名も死亡』とされていましたが、帰還者の証言テープの一部が意図的に黒塗りで消去されていました。あの日、本当は誰かが深層の底で奇跡を起こして、仲間たちを生還させたんです! 『記録は一秒たりとも嘘をついてはならない』って院長に食ってかかったら、命令違反でここへ飛ばされちゃいました……」


 ノエルは自嘲気味に笑ったが、その琥珀色の瞳には、真実を追い求める記録者としての強い誇りが宿っていた。

 ロウは一瞬だけ目を細め、ノエルに背を向けたまま、とても優しい声で言った。


「そうか。……君のお父さんも、きっとその誇りを喜んでいるだろうな」


「えっ? どうして私のお父さんも記録技師だったって知って……」


「いや、それだけ機材の手入れが丁寧なら、親御さんの教えが良かったんだろうと思ってな」


 ロウはさりげなく話を逸らすと、部屋の一番奥にある執務机の前で足を止めた。

 その机の真下――石畳の床の真ん中に、直径八十センチほどの『錆びついた丸い鉄ハッチ』があった。ハッチの縁は長年の酸化で固着しているように見え、その真上には、誰が置いたのか抱えるほど大きな灰色の漬物石が鎮座している。


「あ、すみません室長! その床ハッチ、昔の排水点検口みたいなんですけど、錆びついててビクともしないんです。机を別の場所へ動かしましょうか?」


「いや、ここがいい。この椅子の座り心地が、一番しっくりくる」


 ロウは漬物石をそのままに、鉄ハッチのちょうど真上にくる位置へ木製の椅子を引き寄せ、深く腰を下ろした。

 彼が靴底でカツン、と床ハッチの鉄板を軽く踏んだ瞬間、地下深く――それこそ何千メートルもの奈落の底から伝わってきていた微かな「魔力の脈動」が、ピタリと静まり返ったことには、ノエルも、そして浮遊カメラの1号機と2号機も気づかなかった。

 ただ一機、レンズに古代紋様を持つ『3号機(チビ)』だけが、ピピッ、と小さく鳴いてロウの足元を一瞬だけ見つめたが、ロウが人差し指を唇に当てて「シーッ」と合図すると、すぐにおとなしくノエルの肩の上へと戻っていった。


 ロウは麻袋の中から、愛用のブリキのマグカップと、手挽きの珈琲ミル、そして携帯用のアルコールランプを取り出した。

 ゴリ、ゴリ、と豆を挽く香ばしい匂いが、室温十八度の静かな地下室にふんわりと広がっていく。


「さて、ノエル。来月までにこの資料室の利用者を増やせば、閉鎖は免れるんだな?」


「え? は、はい、理論上はそうですけど……! でも、今ここにある映像資料って、十年前に王都の学者先生が作った『迷宮の歴史と魔力波長に関する考察(全八時間)』みたいな、再生開始三分で全員が寝落ちする退屈な講義ばかりなんですよ!? 今の若い探索者たちは、派手な神授スキルの使い方しか興味がありませんし……」


「だろうな。さっきも上で、靴紐を縦結びにしたまま毒蜘蛛にやられた新人が担ぎ込まれていた」


 ロウは沸かした湯をマグカップに注ぎ、立ち昇る湯気の向こうで穏やかに笑った。


「スキルというのは便利だが、基礎のない身体で振り回せば、自分の首を絞める毒になる。……ノエル、君のその浮遊カメラは、迷宮の浅層へ持ち込んで実演撮影をすることはできるか?」


「えっ!? も、もちろん可能です! 私のスキル《精密魔導記録》と《高速映像編集》を使えば、どんな暗闇でも鮮明に記録して、字幕や図解付きの『魔導記録水晶(アーカイブ)』としてその日のうちに回覧盤へ公開できます! ……で、でも室長、いったい何を撮影するんですか? 失礼ながら、室長の登録ステータス書には、神授スキルが一つも書かれていない【無天賦】とありましたが……」


 ノエルが恐る恐る差し出した羊皮紙には、確かに『保有スキル:なし』と記されていた。

 ロウは一口珈琲をすすり、美味そうに目を細めてから立ち上がった。

 その腰には、ギルドの無料支給品である何の変哲もない量産型の鉄剣と、三十メートルの麻ロープ、そして「中身が空っぽの古い黒革の短剣鞘」が吊るされている。


「派手な魔法やスキルは、俺にはこれっぽっちも分からない。だが――迷宮で誰一人死なずに、明日もこうして温かい珈琲と飯を食うための『基礎』なら、少しは教えられる」


 ロウは白チョークを指先でくるりと回し、部屋の隅にあった黒板に、流れるような文字で最初のタイトルを書き記した。


 『実戦・迷宮サバイバル術 第1講:迷宮の風の匂いと、松明の正しい掲げ方』


「さあ、カメラを持ってきてくれ、ノエル。まずは第1層へ行って、この街の新人たちが絶対に死ななくなる『最初の一歩』を撮ってこようじゃないか」


 穏やかな老教官の瞳の奥に、一瞬だけ、深淵を射抜く鷹のような鋭い光が宿った。

 この日、ギルド地下3階の誰にも見向きもされない小さな資料室から、のちに初級からS級まで世界中の探索者の常識を根底から塗り替えることになる『伝説のアーカイブ』の第一歩が、静かに幕を開けたのだった。

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