第058話:孤立聖堂からの第2報 〜魔力通信のノイズ〜
地下3階の『最高作戦司令室』。
壁一面に展開された魔導通信盤の前で、ノエルが両耳にヘッドセットを当て、微小な魔力ダイヤルを慎重にミリ単位で回していた。
「――周波数、深層第35層・古代聖堂の救難ビーコンに同期……! 雑音除去フィルター、感度最大! レオンハルト卿、応答してください! こちらギルド本部・安全講習室です!!」
ザザッ……ザザーッ……!
通信魔導器のスピーカーから、猛烈な水流の擦れる音と、激しい静電気のノイズが響き渡る。
第35層の周囲を取り巻く厚さ数百メートルの水塊と、古代の防衛結界が、通常の通信魔導波を容赦なく乱反射させていたのだ。
「ダメです……水圧による魔力減衰が激しすぎます! 王都製の最高級通信機でも、これ以上の出力は……!」
ノエルが悲痛な声を上げた、その時だった。
「ノエル、慌てるな」
背後から、ロウが穏やかな手つきでノエルの肩に手を置いた。
「水の底へ声を届ける時は、魔力を無理に強めちゃいけない。水は高い音を弾くが、【低い音】なら何キロ先までも素直に通してくれる。……通信機の周波数を三段階落とし、低周波の音響モードに切り替えてごらん」
「低周波……!? は、はいっ!」
ノエルがロウの指示通りにダイヤルを低音側へカチリと回した。
その瞬間――
『――ザ……ザザッ……! こちら、第35層……古代水没聖堂、調査団長……レオンハルト……! 聞こえるか……!? 応答してくれ……!!』
「繋がったぁぁっ!!」
ノエルが歓声を上げ、司令室に詰めていたヴェロニカとクラリス教授が「おおっ!」と身を乗り出した。
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、酷くかすれ、疲労の色が濃いながらも、確かに理知的な若き宮廷魔導師の声だった。
「レオン! レオンハルト、聞こえて!?」
セリアがマイクを奪い取るようにして叫んだ。
「私よ、セリアよ! 無事なの!? 調査団の皆さんはどうなっているのですか!!」
『……セリア……? 君なのか……?』
通信の向こうで、レオンハルトが驚いたように息を呑む気配が伝わってきた。
『いや……君がいるということは……まさか、あの方も……!?』
「ああ、レオンハルト。俺だ」
ロウがマイクの前に立つと、スピーカーの向こうの空気が、まるで神の啓示を受けたかのように一瞬で凍りついた。
『――せ、先生……っ!? ロウ先生、ご本人なのですか……っ!?』
先ほどまでの冷静な宮廷魔導師の仮面がガラガラと崩れ去り、通信機の向こうのレオンハルトの声が、泣き出しそうな子供のように激しく震え始めた。
『先生……っ! 本当に、先生なのですね……っ! 私、先生に言われた通り、水底に閉じ込められた初日に、まず聖堂の天井のドームに溜まっていた「空気溜まり」を確保しました! そして濡れた石畳を乾かすために、先生の野営教範通りに消臭炭袋を敷き詰め、魔法を使わずに火を起こして……調査団三十名、怪我人はおりますが、ただの一人も死なせずに耐え忍んでおります……っ!!』
「よくやった、レオンハルト」
ロウは優しく微笑み、マイクに向かって深く頷いた。
「お前が俺の教えを守ってくれていることは、カイくんたちが拾ってくれた金属筒の手紙で分かっていたよ。……三十人の部下を全員生かしている。お前は立派に、現場の指揮官としての役目を果たしているぞ」
『うっ……うわぁぁんっ……! 先生に……褒めていただけた……っ!』
二十代半ばにして王国最高峰の魔導師の地位に登り詰めた青年が、通信機越しにボロボロと大泣きする声が響き渡った。
「ちょっと、レオン!!」セリアが堪りかねたように割って入った。「先生の前でいつまでも泣きじゃくっているんじゃありませんわ! 国家の最高魔導師でしょう、シャキッとしなさい! ……それで、聖堂の周りの状況はどうなっているのですか!?」
『……ふ、ふん! 言われなくても分かっているさ、セリア! 君こそ、僕のいない間に先生のお茶汲み係を独占していたんじゃないだろうね!?』
泣き腫らした声でセリアに言い返すレオンハルト。二番弟子の相変わらずの態度に、セリアが額に青筋を浮かべる。
『……だが、状況は極めて深刻だ』
レオンハルトの声が、一瞬で緊迫した軍人のトーンへと戻った。
『私たちのいる聖堂は、第35層の水底ドームの中央にある。……しかし、その聖堂の外壁に、三日前から体長八十メートルを超える超巨大な水棲魔獣――神話級指定個体【深淵海竜】が取り憑いているんだ』
「深淵海竜……っ!?」
クラリス教授が顔色を変えた。
「古代の迷宮海を統べると言われる、水属性の頂点捕食者よ! なぜそんな怪物が、聖堂なんかに……!?」
『分からない……!』レオンハルトが歯噛みする。
『奴はまるで狂ったように、巨大な尾と頭を聖堂の防護隔壁に叩きつけ続けている! 私たちが展開している対魔力結界も、あと三十六時間が限界だ! ……それだけではない。奴の巨大な胴体が、第35層の底にある【古代バイパスの最終排水ゲート】をすっぽりと塞ぐ形でトグロを巻いているんだ!』
「排水ゲートを塞いでいる……!?」
ヴェロニカが叫んだ。
「それじゃあ、私たちが第8層と第31層の水門を開けたとしても、その海竜がどかなければ、水没都市の水は一滴も外へ抜けないということですの!?」
『その通りだ……!』レオンハルトの悲痛な声が響く。
『排水口が開かなければ、水圧で聖堂の隔壁が粉砕されるのが先か、あるいは私たちが結界ごと水底に圧殺されるのが先か……タイムリミットは、長く見積もってもあと三十六時間だ!』
三十六時間。
神話級の海竜を退かし、水門を開き、三十名を救出するための猶予としては、あまりにも短すぎる絶望的な数字だった。
しかし――ロウ・ヴァルハイトは、顎に手を当て、一人静かに考え込んでいた。
「……レオンハルト。一つ、確認したい」
『は、はい、先生! 何でしょうか!?』
「その深淵海竜……聖堂の壁に頭を叩きつける時、どんなリズムで暴れている? 一定の規則性はあるかい?」
『えっ……? リ、リズム……ですか……?』
唐突な質問に、レオンハルトが虚を突かれたように言葉を詰まらせた。
『え、ええと……言われてみれば、奴は闇雲に攻撃しているわけではありません。五分に一度、激しく身をよじらせて、右のエラ蓋のあたりを壁の突起に擦り付けるようにして暴れています。まるで……何かの激痛に耐えかねているかのように……』
「……なるほどな」
ロウの瞳の奥に、確信めいた知性の光が閃いた。
「よし、状況は分かった。レオンハルト、あと三十時間だけ、その空気と火を守り抜いて待っていなさい。……お前の師匠と、一番弟子と、そして新しい仲間たちが、今すぐ迎えに行ってやる」
『――はいっ!! 信じております、ロウ先生!!』
プツリ、と通信が切れた。
静まり返った司令室で、セリアが拳を握りしめてロウを振り返った。
「先生……海竜が痛がっているとは、どういうことですの?」
「海竜は、暴れたくて暴れているんじゃない」
ロウは腰の革鞘から欠けた短剣を抜き、その美しい刃先を見つめた。
「あいつのエラに、何かが引っかかっているんだ。……治療してやれば、奴はおとなしく道を譲ってくれるよ」
神話の化け物を「治療する」という前代未聞の言葉に、クラリスもヴェロニカも息を呑むしかなかった。
残り三十六時間。水底の同胞を救うための最終特訓が、いよいよ幕を開けようとしていた。




