第059話:セリアとガレスの合同特訓 〜水中での無音踏み込み〜
地下3階の奥深く、深さ四メートルの旧式・魔導潜水訓練水槽。
強化ガラスで仕切られた水槽の中を、白銀の細剣を手にしたセリアと、二メートルを超える長槍を構えたガレスが、足元に重石を括り付けて水底の石畳に立っていた。
水槽の上部からは強力な人工水流発生器によって、秒速四メートルもの激しい濁流が吹き込まれており、水槽内には無数の激しい渦潮が渦巻いていた。
「――いいか、二人とも。水の中で『地上と同じ速度で動こう』としてはいけない」
水槽の縁、ガラス越しに見下ろす位置に立ったロウ・ヴァルハイトが、手元の通信魔導マイクを通じて二人の耳元へと静かに語りかけた。
「人間の身体は、水の中にいる時、常に水圧という『巨大な手のひら』で全身を押し包まれている。筋肉の力だけでその手のひらを振り払おうとすれば、余計に水が抵抗となって筋肉を締め付ける。……力を抜け。三拍子の呼吸で、水圧の手のひらに身を預けるんだ」
ガラスの向こうで、セリアとガレスが同時に深く息を整えた。
口に咥えたハッカ炭袋のマウスピースから、細かな泡が一筋、水面へとスーッと立ち上る。
鼻から吸って、スゥ(1拍)……スゥ(2拍)……肩の関節から完全に力を抜き、丹田(へその下)に重心を落として、ハァーッ(3拍目)。
「――水流の渦には、必ず中心に【無圧力の目(気圧の隙間)】が存在する」
ロウの声が、静かに水底へと響く。
「台風の目と同じだ。周囲がどんなに猛烈な激流であっても、渦の中心軸の真ん中だけは、水が互いに引っ張り合って抵抗がゼロになっている。……足裏の三点で水底の石畳を捉え、その『目』へ向かって、刃先を斜め四十五度に滑り込ませろ」
ゴボォォォッ!!
水流発生器から、水槽の底に沈められた木製の魔獣標的に向けて、巨大な水流の塊が撃ち出された。
水槽全体が白く濁るほどの猛烈な水圧の波。普通であれば、大柄な戦士であっても水底を転がされ、ガラス壁に叩きつけられる衝撃だった。
――だが、セリアの瞳が、青く澄んだ光を宿した。
(……見える。水流が渦を巻き、螺旋を描いて割れていく……その真ん中の、一筋の細い隙間が……!)
セリアの右足が、水底の石畳をトンッと蹴った。
足裏の親指、小指、踵の三点で体重を乗せたその一歩は、水に逆らうことなく、水流の渦の縁を撫でるようにして、まるで魚が身を翻すかのように前へと滑り出した。
――スッ……!
地上よりも速い。
水の抵抗を受けて減速するどころか、渦の回転エネルギーをそのまま背中に受けたセリアの身体は、まるで弓から放たれた矢のように、無音で水槽の中央へと吸い込まれていった。
そして――手首をわずかに半ミリ返し、細剣の峰(背中)を水流の隙間へ【斜め四十五度】に滑り込ませる!
――サクッ。
気泡が、ただの一粒も立たなかった。
水面を揺らす波紋すら起こさず、セリアの細剣の切っ先は、木製標的の急所――心臓部に描かれた小さな赤い印を、音もなく寸分違わず貫いていたのである!
「す、凄いわ……っ!」
ガラスの外で見ていたクラリス教授が、息を呑んで眼鏡を押し上げた。
「水の中で、一粒の気泡も立てない無音刺突……! 水の抵抗をゼロにするどころか、水流の渦をそのまま刃の推進力に変えているわ!」
「――次は俺だっ!!」
ガレスの長槍が唸りを上げた。
大柄な重戦士は、長槍の石突を腰の真横に引き絞ると、濁流の第二波に対して、槍の柄を円を描くようにして薙ぎ払った。
ガレスが繰り出したのは、ロウ直伝の【水圧利用の斜め四十五度・回転払い】だった。
長槍の広い側面で真っ向から水を受け止めるのではなく、槍の刃を斜め四十五度に傾け、水流の圧力を槍の螺旋回転の力へと変換する。
ズオォォッ――バシュゥゥンッ!!
猛烈な水流が槍の回転に巻き込まれ、水槽の底に巨大な水流の竜巻が発生した。
ガレスはその竜巻の中心に身を沈めながら、槍の石突を反転させ、標的の頭部へと強烈な一撃を叩き込んだ!
ドゴォンッ! という重厚な破壊音が水槽のガラスをビリビリと震わせ、分厚い樫の木の標的が真っ二つに砕け散った。
「ふぅ……っ!」
水槽の底で、ガレスが槍を引き、力強く親指を立てた。
「カット! 特訓終了です!!」
ノエルの合図とともに水流発生器が停止し、水槽の排水バルブが開かれた。
水槽の梯子を上がり、濡れた髪をタオルで拭きながら出てきたセリアとガレスの表情には、もはや一抹の不安も焦りもなかった。
地上で培ってきた研ぎ澄まされた技が、ロウのサバイバル術によって、水の中でも100%以上の威力を発揮できることが完全に証明されたのだ。
ガラスの向こうで見守っていたカイやピノ、ミアたちも、興奮のあまり両手を叩いて駆け寄ってきた。
「凄いです、セリア様、ガレスさん! 水流の渦の真ん中を抜ける時、水飛沫ひとつ立たなかったなんて信じられません!」
「うんっ、ピノも見てて鳥肌立っちゃった! まるで水槽の中に、綺麗な銀色の魚が泳ぎ抜けたみたいだったよ!」
「ふふ、ありがとう、カイくん、ピノちゃん」
セリアはタオルで首筋を拭いながら、どこか照れくさそうに微笑んだ。そして、パイプ椅子に腰掛けて優しく見守っていたロウの前へと進み出ると、細剣を背に回し、深々と礼を捧げた。
「……先生、本当にありがとうございます。水が、こんなにも優しく、頼もしい味方になるとは思ってもみませんでした。これなら……水底で暴れる深淵海竜であっても、決して遅れは取りませんわ」
「よく掴んだな、セリア、ガレスくん」
ロウは二人にお茶の入った湯呑みを手渡しながら、温かく目を細めた。
「力に頼るな。自然の理に寄り添え。水は本来、人間を殺すために流れているんじゃない。ただ高いところから低いところへ、大地の骨格に従って巡っているだけだ。……お前たちの技は、もう立派に完成しているよ。自信を持っていい」
「はいっ!」
ガレスも湯呑みを両手で受け止め、熱いお茶を一気に飲み干して力強く頷いた。
「先生の数え歌のリズムが、水底でこれほど明確なコンパスになるとは思いもしませんでした。これなら、濁流に視界を奪われても、呼吸の拍子さえ崩さなければ絶対に迷いません!」
その時、水槽室の重厚な鉄扉がガタガタと音を立てて開いた。
「おう、大将! 若い連中の特訓が終わったなら、俺の番だぜ!」
入ってきたのは、両腕に大きな木箱を抱えた鍛冶親方のガンツだった。
作業台の上にドスンと置かれた木箱を開けると、中には黒光りする鋭いスパイク金具が、全員の足のサイズに合わせてズラリと並んでいた。油の焼けた香ばしい匂いが、水槽室にフワリと広がる。
「親方、これは……?」
カイが目を丸くして尋ねた。
「昨日の第8層のミスリル青銅歯車を見てからな、一睡もせずに鍛え上げた特製品だ!」
ガンツは煤で汚れた手鼻をグッと拭い、誇らしげに胸を叩いた。
「大将の『三点荷重の歩法』に合わせて、親指、小指、踵の三箇所に、水流の圧力を受けると自動的に爪が飛び出す【水圧連動式スパイク】を仕込んである! 靴底の鉄喰い苔とこいつを組み合わせりゃ、激流のど真ん中だろうが、百トンの水圧が上から降ってこようが、足裏が岩肌から一ミリも剥がれねぇぜ! カイ坊主たちの分も、ガレスたちのも、セリアのお嬢ちゃんの分も、全員分叩いてきたぜ!」
「わあっ……! ありがとうございます、ガンツ親方!!」
カイ、ピノ、ミア、そしてエレンとボルクが、嬉しそうに金具を手に取った。
それぞれの足の形に寸分の狂いもなく吸い付くように馴染むその金具には、無骨な職人の「生きて帰ってこい」という熱い祈りが込められていた。
エレンがスパイクの爪を指で弾きながら、小さく微笑んだ。
「……素晴らしいバランスです。これなら、濡れた斜面を全力で駆け上がりながらでも、正確に矢を放てますわ」
「さあ、全員装備を整えてちょうだい」
クリップボードを抱えたヴェロニカが、最新の作戦書を全員の手元へ配り、凛と張り詰めた引き締まった声で告げた。
「第35層のレオンハルト卿の結界が耐えられるのは、残り三十時間を切りました。王都の理不尽な捜索禁止命令など、この地下資料室には届いておりませんわ。……これより、ギルド本部・最高司令室において、全階層連動【大水没領域突破・救助作戦】の最終ブリーフィングを行います!」
「「「了解っ!!」」」
知恵、技術、装備、そして互いを信じ抜く絆。
水底に囚われた三十名の同胞を必ず生きて連れ帰るための準備は、今、ここに完璧な極致へと達していた。




