第055話:浮遊カメラ『3号機』のオーバーホール
地下3階の安全講習室の隅、ランプの明かりが灯る作業机の上。
細かなピンセットやドライバー、魔導拡大鏡が並ぶ中、球体の浮遊魔導カメラ『3号機』が、小さな部品ごとにバラバラに解体されていた。
青銅と真鍮で組まれた外殻プレートが外され、内部の微細な歯車や、淡い青色に明滅する魔導回路がむき出しになっている。
「――ふむ、なるほどねぇ。十年前の第15層の落盤事故で埋まっていたにしては、驚くほど内部の保存状態が良いわ」
拡大鏡を目元に当て、細いピンセットで回路の接点を調べていたのは、迷宮生態学者のクラリス教授だった。
「ノエルちゃん、あなたのお父さん、相当腕の良い魔導技師だったのね。湿気や衝撃を逃がすための二重の緩衝パッキンが、当時の王立規格品以上の精度で組み込まれているわ」
「はいっ!」
隣で真鍮のレンズフードを柔らかい鹿革で磨いていたノエルが、丸眼鏡を少し上げて誇らしげに微笑んだ。
「父は、王都の記録院をクビになってこの街に流れ着いてからも、ずっと3号機の手入れだけは毎晩欠かしませんでした。『記録技師の魂は、レンズの曇りを許さないことにある』って、口癖のように言っていたんです」
「いいお父さんね」
クラリスは微笑み、ピンセットの先で3号機の中心部に埋め込まれていた【親指大の透明な多面体水晶】をそっと持ち上げた。
「さて……問題は、このメインレンズの受光コアよ。水没階層の湿度はほぼ100%、しかも空気中には微量の強酸性ガスが漂っているわ。この水晶の表面に、ミアちゃんが調合してくれた青スズナの防毒オイルを三層コーティングしておかないと、水滴で映像がぼやけてしまうの」
クラリスが小瓶から垂らした透明なオイルを、ノエルが専用の刷毛で水晶の表面へ均等に塗り広げていく。
その時だった。
カチリ、と小さな微小な音が響き、水晶の内部に刻まれていた古代の幾何学模様が、淡い黄金色の光を放ち始めた。
「……あら?」
クラリスの手がピタリと止まった。
「ちょっと待って、ノエルちゃん。この水晶……ただの記録用の魔導水晶じゃないわよ?」
「えっ……? どういうことですか、教授?」
「これを見てごらんなさい」
クラリスは魔導拡大鏡をノエルの目の前へ差し出した。
拡大された水晶の内部には、肉眼では絶対に見えないほど微細な、髪の毛の一万分の一ほどの細さの古代魔導文字が、幾重もの同心円を描いて刻み込まれていた。
「これ……王立アカデミーの禁書庫にある、三百年前の古代帝国時代の【索敵特化型・光学迷彩解除術式】よ! それも、軍用の大型哨戒機にしか搭載されていないはずの超高密度回路だわ! なぜこんな小さな個人用のカメラに組み込まれているの!?」
「え、えええぇぇっ!?」
ノエルが素っ頓狂な声を上げた。
「そ、そんな馬鹿な! 3号機は、父が迷宮のジャンク品置き場から拾ってきたスクラップを、何年もかけてコツコツ修理したカメラですよ!? そんな軍の最高機密みたいな回路が入っているなんて、父も絶対に知らなかったはずです!」
「偶然拾ったジャンク品が、たまたま古代の軍用哨戒水晶だったというわけね……でも、それなら合点がいくわ」
クラリスは眼鏡の位置を直し、深く納得したように頷いた。
「ノエルちゃん、あなた言っていたわよね? 『3号機は時々、ロウ室長の講義中にピピッ!と勝手な警告音を鳴らして、誰もいない通路の天井や暗がりへ横を向くバグがある』って」
「は、はい……! 第1講の撮影の時も、第3講の時も、急に画面が横の壁の闇を大写しにしちゃって、編集でカットするのが大変だったんです……」
「それ、バグなんかじゃないわ」
クラリスは水晶をランプの光に透かしながら、ゾッとするような確信を込めて言った。
「この古代回路の安全仕様を解読したけれど……この水晶はね、【周囲三十メートル以内に、高度な光学迷彩や魔力遮断スキルを展開した極めて危険な上位存在】が侵入した時だけ、防衛プロトコルが自動起動して、その対象へピントを合わせるように設計されているのよ」
「……っ!?」
ノエルの背筋を、冷たい氷柱のような悪寒がサッと駆け抜けた。
「じゃ、じゃあ……3号機がピピッ!と横を向いていた時って……あ、あの暗闇の中に、本当に何かがいたってことですか……!?」
「ええ。それも、ただのモンスターじゃないわ。王都の特殊部隊か、深層第50層以深にしか生息しないような『不可視の暗殺魔獣』……それも、B級やA級の探索者ですら気配に気づけずに首を撥ねられるような、本物の化け物よ」
ノエルの頭が、真っ白になった。
それじゃあ、自分とロウ室長は、あんな薄暗い地下通路で、何度も何度もそんな最悪の死神と背中合わせになりながら、のんびりと「松明の持ち方」や「靴紐の結び方」の動画を撮っていたというのか!?
「で、でも……もしそんな化け物がすぐ真横にいたんだとしたら……なんで私や室長は、一度も襲われなかったんですか……? 無天賦の室長と、戦闘力ゼロの私が、五体満足で生きて帰ってこられるはずがありません……!」
「……それが、最大の謎なのよ」
クラリスは腕を組み、険しい表情で作業机の上の部品を見つめた。
「その不可視の暗殺者たちが、なぜか一度も襲いかかってこないまま、忽然と姿を消している。……いえ、もしかしたら『姿を消した』のではなく……何か別の理由があったのかもしれないけれど……」
――コトン。
作業部屋の扉が静かに開き、湯気を立てる二つのマグカップが机の端に置かれた。
「お疲れ様、ノエル、クラリス教授。夜は冷えるからな、ハッカと蜂蜜を入れた温かいココアを淹れてきたよ」
入ってきたのは、いつもの毛玉のついたセーターを着て、穏やかに微笑むロウ・ヴァルハイトだった。
「ひゃ、ひゃいっ、室長!?」
ノエルがビクッと跳ね起き、慌てて3号機のレンズを胸に隠そうとした。
しかしロウは気にした風もなく、机の上に散らばった無数の歯車やネジを、温かい眼差しで見つめた。
「丁寧に手入れをしてくれているな、ノエル。道具っていうのは不思議なものでね、人間が真心を込めて磨いてやれば、必ずここ一番の修羅場で命を救ってくれるものだ。君のお父さんも、空の上できっと喜んでいるよ」
「し、室長……」
ロウのその濁りのない優しい笑顔を見つめていると、先ほどまでの恐怖と疑念が、まるで春の陽気に溶ける雪のようにすーっと消えていくようだった。
(……この人が、あの恐ろしい化け物の気配に気づいていないはずがない。……でも、室長はいつだって、私を怖がらせないように、何も言わずに守ってくれていたんじゃないかしら……?)
ノエルの胸の奥に、言葉にできない温かい感情と、ある一つの強い決意が芽生えた。
(……今回の水没作戦が終わったら、絶対に調べてみよう。第1講から今までの、あの3号機が横を向いた『すべてのNGカット』を……!)
「さあ、ココアが冷めないうちに飲んでくれ。明日は『甲殻ナマズの泥抜きと防錆油』の収録だ。……ノエル、君のカメラが頼りだからな」
「――はいっ、ロウ室長!!」
3号機のレンズが、まるで主人の決意に応えるかのように、青い光を一瞬だけピカリと瞬かせた。
明かされつつある過去の真実と、目の前にある温かい日常。
地下資料室の夜は、優しく、そして静かに更けていった。




