第054話:中堅『白銀の轍』、A級パーティーとしての初陣
大迷宮第28層――『水没古代都市・上層外郭』。
かつて栄華を極めた古代文明の神殿や列柱が、どこまでも広がる濁った地底湖の底に沈むこのエリアは、中層の中でも特に危険度の高いフロアとして知られていた。
普段であれば、水面上にわずかに顔を出している石造りの崩れかけた回廊を伝って歩くことができたが、今やその回廊の九割が、茶褐色の冷たい激流の下へと完全に沈没していた。
「――くそっ、退却だ! 退却しろ!!」
「水位が胸の高さまで上がってやがる! これ以上先へ進んだら、水棲蛇の餌食になるぞ!!」
第28層の入り口である大石階段の前。
びしょ濡れになって引き返してきた複数のB級・C級パーティーが、青ざめた顔で階段を駆け上がっていく。中には、甲冑に泥水を吸い込んで足をもつれさせ、仲間に担がれるようにして脱出する戦士の姿もあった。
そんな敗走する探索者たちの波を縫うようにして、静かに、しかし寸分の乱れもない足取りで大階段を降りていくスリーマンセルがいた。
先頭を行くのは、胸元に誇らしげな白銀のエンブレム――本日付でギルド本部から正式に授与された【A級探索者プレート】を輝かせた、大柄な槍使いガレス。
その後ろには、全身の装備に黒い撥水オイルを塗り込み、背中の矢筒を防水革で包んだハーフエルフの弓使いエレン。
そして最後尾には、表面がわずかに湾曲した特製タワーシールドを構え、全身を重鉄の甲冑で固めたドワーフの重戦士ボルク。
名門中堅パーティー『白銀の轍』――彼らにとって、これがA級昇格後の記念すべき最初の公式任務だった。
「おい、あんたたち! 『白銀の轍』のガレスさんか!?」
すれ違いざまに、退却してきたB級パーティーのリーダーが叫んだ。
「よした方がいい! 第28層の中央広場は完全な湖底と化している! 水深は二メートルを超え、流れが速すぎて足が着かない! しかも、濁流の中から水棲魔獣の群れが奇襲を仕掛けてきて、まともに戦える状態じゃないぞ!!」
「忠告感謝する」
ガレスは足を止めることなく、短く答えた。
「だが、第35層の水底には、三十名の同胞が取り残されている。水門を開けるためのルート確保は、我らA級の責務だ。……退くわけにはいかない」
「し、しかし、その重い甲冑を着たまま水に入ったら、一分で沈んで溺死するぞ!?」
「心配には及ばないよ」
ボルクが兜のバイザーを上げ、豪快に白い歯を見せて笑った。
「俺たちの脇の下には、大将直伝の『絶対に沈まねぇ浮袋』が二つずつ仕込んである。……それに、足元を見てみな」
ボルクが水底の石畳へ一歩足を踏み下ろした。
バシャリ、と水飛沫が上がるが、彼の足は濁流の猛烈な水圧を受けても、一ミリも横滑りすることなくピタリと止まっていた。
「靴底の鉄喰い苔と、親指・小指・踵の三点荷重だ。……水の流れなんざ、大地の重みを受け止める足裏感覚さえあれば、そよ風と大して変わらねぇよ」
三人はそのまま、腰の高さまで達する濁流の中へと迷いなく突き進んでいった。
取り残されたB級冒険者たちは、濁流をものともせずに陣形を崩さず前進していくその姿に、ただ呆然と見惚れるしかなかった。
「……ガレス、来るわよ」
エレンの涼やかな声が、激流の轟音を切り裂いた。
エレンの長い耳が、水面下で発生した微かな音の乱れを捉えていた。
「前方三十メートル、水深一メートル五十の濁流の底から、三匹。……体長五メートル級の『ハイドロ・サーペント(水棲大毒蛇)』よ。濁流に身を隠しながら、時速四十キロで突進してきているわ」
「了解だ、エレン。ボルク、受けるぞ!」
「おうよ! 大将の教え通り、『三拍子の呼吸』だ!」
ドワーフの重戦士ボルクが前へ進み出て、両手でタワーシールドを構え直した。
そのバックラーの表面には、ガンツ親方が鍛え直した【3ミリ湾曲の鉄板アタッチメント】がしっかりと溶接されていた。
ゴボォッ!!
濁流を割り、巨大な水飛沫とともに水中から飛び出してきたのは、青黒い硬質鱗に覆われた三匹の巨大蛇だった。
鋭い牙からは緑色の猛毒が滴り、時速四十キロの慣性エネルギーを乗せた質量攻撃が、ボルクの盾の正面へと同時に突き刺さる!
常識的な防御であれば、百キロを超える大蛇三匹の同時突進を受ければ、どんな巨漢であっても吹き飛ばされ、水中に倒れ込んで濁流に飲まれるはずだった。
――だが、ボルクは微動だにしなかった。
「――鼻から吸って、スゥ(1拍)……スゥ(2拍)……肩を抜いて、斜め四十五度……ハァッ(3拍目)!!」
ボルクは盾を正面からぶつけなかった。
大蛇の鼻先が激突するコンマ一秒前、盾の表面を進行方向へ【斜め四十五度】にわずかに傾け、膝のクッションを使って水流の力をそのまま上方へと逃がしたのだ!
ガガガガッ――ズバァァァンッ!!
猛烈な衝撃音が響いた瞬間、大蛇三匹の突進エネルギーは、湾曲した3ミリの鉄板に沿って斜め上へと受け流され、大蛇たちの巨体は水面から五メートル以上もの高さへと高々と打ち上げられた!
「な……っ!? 跳ね上げたぞ!!」
遠くで見守っていた探索者たちから、悲鳴のような歓声が上がった。
「――エレンッ!!」
「任せて!」
水面を割って宙を舞う三匹の大蛇に対し、エレンの白銀の長弓が引き絞られた。
しかし、空中に逃げた二匹とは異なり、残る最後の一匹は空中で身をくねらせ、再び水面下へと潜り込もうとしていた。
水中に潜った標的を弓で射抜くのは、弓使いにとって不可能に近い神業とされていた。
なぜなら、光が水面を通過する際に大きく屈折するため、水の上にいる人間の目には、標的が「実際の位置よりも数センチから数十センチ浮き上がって」見えてしまうからだ。
だが――エレンの瞳には、一切の迷いはなかった。
昨夜、ロウ先生が地下資料室の黒板に描いてくれた【光の屈折率と、水面下の急所の割り出し方】の図解が、彼女の脳裏に完璧に展開されていた。
(水の中に見えている影を狙ってはいけない。……水深五十センチなら、見えている位置の【三センチ下】。水の抵抗を計算して、矢の引き手を半ミリ絞り、斜め四十五度で水面へ滑り込ませる……!)
ヒュッ――バシュッ!!
エレンの指先から放たれた黒羽の矢が、水面へと音もなく突入した。
矢は水膜に弾かれることなく、まるで水そのものに吸い込まれるように吸角を保って直進し――濁流の下で逃げようとしていた大蛇の眉間、脳幹の急所を、狂いなく寸分違わず一撃で射抜いた!
ギャァァァッ……!
絶叫とともに、水面下に鮮血の花が咲き、大蛇の巨体が力なく水面に浮き上がった。
そして空中に跳ね上げられていた残り二匹も、ガレスの長槍の目にも留まらぬ二連刺突によって空中で心臓を貫かれ、水飛沫を上げて動かなくなった。
「……全標的、沈黙を確認」
エレンが静かに弓を下ろし、深く息を吐いた。
戦闘開始から、わずか八秒。
他の中堅パーティーが逃げ惑っていた危険な水棲魔獣の群れが、スキルも魔法も一切使わずに、ただロウに叩き込まれた【三拍子の受け流し】と【屈折を計算した基礎射法】だけで、完全無傷で完封されたのである。
「ふぅ……見たか、エレン、ボルク!」
ガレスは槍を背中に収め、頼もしそうに二人の仲間を見つめた。
「大将の教えは、この水没迷宮でも100%通用するぞ。……行くぞ、第31層の中央大水門へ! 俺たち『白銀の轍』が、必ずや水底の調査団を救い出す道を切り拓く!」
「「おおっ!!」」
かつて中層で壁にぶつかり、スキルの火力に頼りかけていた中堅パーティーは、今や無冠の老教官のサバイバル術を完璧にその血肉とし、名実ともに迷宮都市最強の一角として、堂々たる前進を続けていた。




