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第053話:第8層の青銅歯車と、300年前の打撃痕

地下3階の安全講習室の木製テーブルの上に、大きな一枚の炭紙(拓本)が広げられていた。


 それは、第8層の水脈回廊から帰還した初級パーティー『灯火』のカイとミアが、激流の中で露出していた巨大な青銅歯車から慎重に写し取ってきた、実物大の石摺りだった。

 青銅の表面の微細なサビの浮き具合から、歯車の歯の欠けに至るまで、黒い炭の粉によって克明に紙の上に浮かび上がっている。


「……おいおいおい、嘘だろ。冗談じゃねぇぞ、こいつは……」


 真っ先に身を乗り出し、太い指先で拓本の中心部をなぞったのは、鍛冶親方のガンツだった。

 分厚い作業用エプロンを着けた頑固親方は、額の汗を拭うのも忘れ、血走った目で紙の上の凹凸を凝視していた。


「親方、何か分かったんですか?」

 カイが心配そうに尋ねる。


「分かるも何もねぇよ、カイ坊主!」

 ガンツは唸るような声を上げ、拓本の中心に刻まれた深い打撃痕をバンッと平手で叩いた。

「この歯車の材質は、三百年前の古代帝国でしか精錬できなかった『ミスリル青銅合金』だ。硬度は現代の最高級鋼鉄の三倍以上、魔法の直撃を喰らっても傷ひとつ付かねぇ代物だぞ。……それをよ、刃物じゃねぇ、鉄の棒切れの先端(石突)で、一点集中でここまで深くヘコませて軸を固定してやがる!」


 ガンツは顔を上げ、テーブルの向かいでお茶を飲んでいたロウ・ヴァルハイトを射抜くように見つめた。


「しかも、叩き込んだ角度を見ろ。……中心軸の結晶格子に対して、狂いなく【斜め四十五度】。それも、ただ力任せにぶん殴ったんじゃねぇ。金属の共振周波数に合わせて、一撃目の打撃で表面の歪みを抜き、二撃目で内部のロックピンだけをパキンと跳ね除けてやがる。……大将、あんたがいつも新米どもに教えている『斜め四十五度の打撃』と、完全に同じ手の内だぞ!?」


「な……っ!?」

 室内にいた全員が息を呑んだ。


 ノエルが丸眼鏡を落としそうになり、クラリス教授が金髪をかき上げて拓本を覗き込む。

 セリアもまた、細剣の柄を握りしめたまま、信じられないものを見るようにロウの顔を凝視していた。


「先生……! まさか、その第8層の歯車を叩いたのは、先生なのですか……!?」


「いや」

 ロウは静かに首を横に振ると、湯呑みをソーサーの上にカチャリと置いた。

 その双眸は、拓本の上に刻まれた斜め四十五度の打撃痕を、どこか遠い日を懐かしむような優しい光で見つめていた。


「俺じゃないよ。この打撃痕がついたのは、おそらく三百年も昔のことじゃない。……今から三十五年ほど前、俺がまだ二十歳そこそこの新米兵士だった頃だ」


「三十五年前……?」

 ガレスが低く呟いた。


「ああ。当時、俺の養父――辺境の山奥で俺を拾って育ててくれた、無口な老猟師の親父がいてな。ある日、ふらりと家を出て迷宮へ向かう親父の後を俺がこっそりつけていった時、この第8層の歯車の前で、親父が俺に言ったんだ」


 ロウは、自分の大きな掌を見つめながら、穏やかな口調で当時の光景を語り始めた。


『――いいか、ロウ。迷宮っていうのはな、生きている巨大な生き物と同じだ。腹の中に水が溜まりすぎれば腹痛を起こして暴れ出すし、息が詰まれば熱を出して噴火する。……だから、定期的にこうやって、外へ水を逃がすための「栓」を抜いてやらなきゃならん』


 老教官の声は、まるでその場に三十五年前の老猟師が立っているかのような、深い説得力に満ちていた。


『――魔力なんぞ使うな。スキルに頼れば、迷宮の壁がその魔力を喰って余計に硬くなる。……足裏の三点を大地に預けろ。三拍子で息を吸って、吐いて、肩の力を抜いて、結晶の目に沿って斜め四十五度だ。力で叩くな、大地の重みをそのまま石突へ通してやるんだ』


「……そう言って親父が、持っていた古びた杖の石突で『コンッ』と叩いたのが、まさにその歯車だったよ」

 ロウが話を締めくくると、地下資料室の中は、針が落ちても聞こえるほどの静寂に包まれた。


「お、親父さん……!?」

 ノエルが震える声で呟いた。

「室長の育ての親の猟師さん……一体、何者だったんですか……!? ミスリル青銅の古代歯車を、ただの杖の石突で一撃で固定するなんて、そんなの人間業じゃありませんよ……!」


「さあな」

 ロウは肩をすくめ、苦笑した。

「俺にとっては、いつも鹿の干し肉を噛みながら、ブツブツと山や風の機嫌ばかり気にしていた、ただの頑固な親父だったよ。『お前は生まれつきスキルの天賦が何もないから、生き残りたければ身体の動かし方だけは徹底的に叩き込んでおけ』と、毎朝井戸水を汲む姿勢から厳しく躾けられたものさ」


「……ただの親父なわけないでしょうがぁぁっ!!」

 クラリス教授が耐えかねたように机をバンッと叩いて立ち上がった。


「ミスリル青銅の結晶軸を肉眼で見抜き、打撃一発で古代の防衛水門を制御する技術なんて、神話時代にこの迷宮を建造した『初代迷宮守(ラビリンス・メーカー)』の直系一族にしか伝わっていない失われた門外不出の極意よ!! あなたのその養父、絶対に初代迷宮守の末裔か、迷宮管理者の生き残りよ!!」


「まあまあ、クラリス教授」

 ロウは困ったように眉を下げた。

「親父が誰の末裔だろうと、俺にとっては親父だ。親父が教えてくれたのは、世界を救う秘術なんかじゃない。『山で迷ったら風を読め』『濡れたら火を起こせ』『決して仲間を見捨てるな』……ただそれだけの、死なないための知恵だよ」


 ロウのその飾らない言葉に、ガレスとエレンは深く胸を打たれたように目を伏せた。

 どれほど超絶的な技術であっても、それを「人を殺すための暴力」や「己を誇るための特権」として使わず、ただ目の前の小さな命を生かすための「道具」として扱い続ける。その一貫した哲学こそが、ロウ・ヴァルハイトという男の底知れぬ器の大きさだった。


「……それで、クラリス教授」

 ヴェロニカが冷静さを取り戻し、眼鏡を直しながら本題へ引き戻した。

「その第8層の歯車が動くとなれば、水没領域の救難作戦にどのような影響が出ますの?」


「ええ、ここからが本題よ」

 クラリスは深呼吸をして、机の上に迷宮の全体水流図を広げた。


「カイくんたちが拓本を取ってきてくれたおかげで、この第8層の水門の役割が完全に判明したわ。この歯車は、単独の水門じゃない。……第8層(浅層)、第31層(中層)、そして第58層(深層)にある三つの巨大水門と、魔導パイプで完全に連動している『古代地下バイパス大運河』の最上部バルブよ!」


「古代地下バイパス大運河……!?」

 カイが目を輝かせた。


「そうよ。三百年前、大水没領域の水位を一定に保つために建造された、迷宮の外の乾燥地帯へ水を一気に排出するための巨大な排水トンネルよ。……もしこの三つの水門を同時に開けることができれば、第30層から第35層を水没させている数百億ガロンの濁流は、わずか数時間でバイパスへと吸い込まれ、水没都市は完全に干上がるわ!」


「水が引けば……!」セリアが立ち上がった。「レオンたちのいる聖堂へ、舟や潜水具を使わずに、歩いて救出へ向かえますわね!」


「ええ、その通りよ! ただし――」

 クラリスは人差し指を立て、厳しい表情を崩さなかった。


「水門を開けるためには、第8層、第31層、第58層の三箇所にある歯車の要石を、前回の排気ルーバーと同じように【完全な同時打撃】で叩き割らなければならないわ。しかも今度は、濁流の渦巻く水中での作業よ。……地上部隊の練度が、前回の作戦の二倍以上求められるわ」


「任せてください、クラリス教授」

 カイが前へ進み出て、胸のD級プレートをギュッと握りしめた。

「第8層の水門は、俺たち『灯火』が絶対に開けてみせます! 先生に教わったサバイバル術があれば、どんな濁流の中でも、正確に斜め四十五度で打ち抜けます!」


「頼もしいな、カイくん」

 ロウは温かく目を細め、力強く頷いた。


「よし。次は中層・第31層の水門ルートの確保だ。……ガレスくん、エレン、ボルクくん。『白銀の轍』の三人に出番をお願いしてもいいかい?」


「――はっ!!」

 A級重戦士ガレスが、誇らしく胸を叩いて最敬礼を捧げた。

「我がパーティーの総力を挙げ、第31層の水門要石を必ずや確保してご覧に入れます、ロウ先生!!」


 三十五年前の老猟師の教えと、現代の若き探索者たちの誓い。

 大迷宮の底に眠る古代の仕掛けを巡り、水底の同胞を救うための連動の歯車が、力強く噛み合い始めていた。

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