第052話:初級『灯火』の急成長! D級上位の初仕事
大迷宮『アーク・バベル』の地下第8層――『水脈回廊』。
浅層と中層の境界近くに位置するこのエリアは、普段であれば天井の鍾乳石から滴る清水が、石畳の脇の細い側溝をサラサラと流れるだけの、比較的穏やかなフロアだった。
しかし今、その回廊を埋め尽くしていたのは、膝下まで達する轟々たる茶褐色の濁流だった。
「――うわぁぁっ!? だ、誰か助けてくれぇっ!!」
濁流の渦巻く通路の曲がり角。
立ち往生していたのは、四人組の若手パーティーだった。
急激な増水によって足場を奪われ、中央の孤立した小さな岩棚にしがみつきながら、冷たい水しぶきを浴びてガタガタと震えている。足元の水嵩は刻一刻と増しており、あと数分もすれば岩棚ごと濁流に飲み込まれて、下層への排水竪坑へと押し流されてしまう絶体絶命の危機だった。
「おい、しっかり掴まってろ! 手を離すなよ!!」
「無理だよ、足が凍えるように冷たくて感覚がないんだ……! 助けて、ギルドの救援部隊はまだ来ないのかよぉぉっ!?」
絶叫が、水音にかき消されそうになった、その時だった。
「――大丈夫です、動かないで!! 今、助けに行きます!!」
濁流の向こう側の濡れた石畳から、力強く澄んだ声が響き渡った。
水煙を切り裂いて駆けつけてきたのは、真新しい黒革の軽鎧を身に纏い、腰に短い木槍を佩いた三人の探索者――本日付で正式に【D級上位】への昇格を果たしたパーティー『灯火』のリーダー、カイだった。
「カイ、流速は秒速およそ三メートル! 水深は一番深いところで一メートル二十センチだよ!」
カイの斜め後ろで、ぴんと尖った山猫耳を小刻みに動かしながら水面を睨みつけていたのは、スカウトの少女ピノだった。
ピノは懐から取り出したタンポポの綿毛をフッと水面へ散らし、風の流れと水流の渦の切れ目を瞬時に見極めていた。
「渦の中心は岩棚の右側! 左側の壁沿いなら、水流が反転して流れが緩やかになってる『反転流』ができてるよ!」
「了解だ、ピノ! ミア、浮袋とロープの準備を!」
「はいっ、カイくん! 『第6講』の二重もやい結び、セット完了です!」
ミアが背嚢から取り出したのは、今朝地下資料室でロウから教わったばかりの、牛の膀胱で作った即席浮袋だった。
二つの浮袋に七割の呼気を吹き込み、麻ロープの先端に素早く二重の輪を作ると、ミアはカイの両脇の下へタスキ掛けに固定し、カチリとバックルを締めた。
「よし……行くぞ!」
カイは大きく息を吸い込むと、足裏の三点――親指の付け根、小指の付け根、そして踵を意識して、濁流の中へと迷いなく踏み込んだ。
ザバァッ!!
激しい水圧がカイの太ももを叩く。
しかし、カイの身体は一ミリも流されなかった。
靴底にしっかりと塗り込まれた『鉄喰い苔』の粘着成分が、水膜を押し除けて濡れた石畳の凸凹にガッチリと食い込んでいたからだ。さらに、ピノが指示した壁沿いの反転流に身体を沿わせ、進行方向に対して半身になりながら、刃先のように水流を受け流して進む。
「お、おい……見ろよ、あいつ……!」
岩棚の上で震えていた若手探索者たちが、目を丸くして息を呑んだ。
「濁流の中を……まるで普通の浅瀬を歩くみたいに、真っ直ぐこっちへ歩いてくるぞ……!?」
「――手を伸ばしてください!」
わずか十数秒。
激流をものともせずに岩棚の足元まで到達したカイは、背嚢から予備の二つの浮袋を取り出し、岩棚の上の四人へと投げ渡した。
「慌てないで、脇の下にタスキ掛けにしてバックルを留めてください! それさえつければ、どんなに水に流されても絶対に顔が沈みません! 一人ずつ、俺のロープに掴まって!」
「わ、分かった……っ!」
若手探索者たちが震える手で浮袋を胸に装着する。
カイは腰の命綱を岩棚の窪みに素早く引っ掛けると、一人、また一人と、濁流の中から引きずり下ろして自分の背後へ誘導した。
「ミア、ピノ、引っ張ってくれ!」
「「せーのっ、よいしょぉぉっ!!」」
通路の安全地帯から、ミアとピノが息を合わせてロープを巻き上げる。
ガンツ親方が打ってくれた滑車金具のおかげで、重い成人男性の身体が、まるで軽い木切れのようにスルスルと水面を滑り、わずか数分ですべての要救助者が安全な乾いた通路へと引き上げられた。
「あ、危なかったぁぁぁっ……!!」
「生きてる……助かったんだ、俺たち……っ!!」
冷たい石畳の上に倒れ込み、涙を流して抱き合う四人の若手探索者たち。
その胸元には、F級の登録プレートが光っていた。
かつて、ほんの一週間前まで、第1層のゴブリンの棍棒に怯え、靴紐の結び方すら知らずに解散寸前まで追い込まれていた自分たちの姿と、寸分違わず重なっていた。
「あ、あの……ありがとうございます、先輩方……っ!」
F級のリーダーの少年が、濡れた顔を拭いながらカイの前に両膝をついて頭を下げた。
「俺たち、第8層で急に水が増えてきてパニックになって……死ぬかと思いました! あなたたちは、一体どこの高ランクパーティーなんですか……!?」
「あはは、先輩だなんて滅相もないよ」
カイは照れくさそうに笑い、ずぶ濡れの手袋を外して少年に手を差し伸べた。
「俺たちも、ほんの数日前まで君たちと同じF級だったんだ。……これ、地下3階の安全講習室でロウ先生が配ってくれた『即席浮袋』と『滑り止めの苔』だよ。君たちにあげるから、これを使ってゆっくり地上へ戻りな」
「えっ……地下3階の、安全講習室……?」
「うん! ロウ先生の動画を見れば、靴紐の結び方から水の中の歩き方まで、全部優しく教えてくれるから!」
ピノが誇らしげに胸を張り、ミアも温かいハッカの気付け薬を四人に手渡した。
「あ、ありがとうございます……っ! 地上に戻ったら、真っ先に地下資料室へお礼に行きます!!」
深々と頭を下げる四人の背中を見送りながら、カイは自分の掌をじっと見つめた。
(……助けられた。俺たちの手で、誰かの命を守ることができたんだ……!)
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
十年前、北部の崩落事故の暗闇の中で、名も知らぬ老救難兵が自分を助けてくれた時の手のぬくもり。そのぬくもりを、今度は自分が別の誰かへと手渡すことができた。その確かな手応えが、カイの心を強く震わせていた。
「カイくん、見て!」
不意に、水路の奥を調べていたピノが、鋭い声を上げた。
「ピノ? どうしたんだ?」
カイとミアが駆け寄ると、ピノは水路の最奥――水流が勢いよく渦を巻いて流れ落ちている半壊した石壁の隙間を指差していた。
急激な増水によって壁の表面を覆っていた泥と蔦が洗い流されたことで、その奥に隠されていた【巨大な青銅の構造物】が露出していたのだ。
「これ……水門の歯車かな……?」
カイがランタンの光を近づけると、直径三メートルを超える青銅の歯車が、水流の圧力に耐えかねて軋んだ音を立てていた。
そして――その頑丈無比な歯車の中心軸、分厚い青銅のフレームの真ん中に、目を疑うような傷跡が刻まれていた。
「……っ!? カイくん、これ……!」
ミアが息を呑んだ。
青銅の表面に深くめり込んでいたのは、鋭い刃物による傷ではない。
頑丈な鉄の石突を、正確に【斜め四十五度】の角度から打ち込み、巨大な歯車の回転を無理やり固定したかのような――恐るべき力と精度で穿たれた、古い打撃痕だったのだ!
「斜め四十五度の石突打撃……!? これ、ロウ先生の教範と、まったく同じ傷跡じゃないか……!?」
カイは震える指先でその傷跡をなぞった。
三百年前に閉ざされたはずの地下水路の奥底に、なぜ、ロウ先生とまったく同じ技の痕跡が残されているのか。
水底に沈む二番弟子のSOSと、迷宮の奥底に刻まれた師匠の影。
二つの謎が、冷たい水路の闇の中で、静かに交差し始めていた。




