第051話:一番弟子セリアの焦燥 〜「あいつ、先生に甘えてばかりで!」〜
ギルド本部ビルの裏手にある、屋外の木刀訓練場。
青空の下、鋭い風切り音とともに、白銀の閃光が幾重にも交差していた。
「――フッ、ハッ、セイヤァッ!!」
気迫のこもった鋭い呼気とともに細剣を繰り出しているのは、大陸最強のS級クラン『蒼穹の旅団』の若き団長――《氷華の剣姫》セリア・アークライトだった。
白銀の甲冑の胸当てを汗で濡らし、ポニーテールにした金髪を激しく揺らしながら、木製の模擬標的に向かって目にも留まらぬ連撃を叩き込んでいる。普段の冷静沈着で高貴な剣姫の佇まいはそこにはなく、まるで何かに追われているかのような鬼気迫る焦燥感が、その細い剣先からヒシヒシと伝わってきていた。
「……セリア団長、今朝からもう三時間もぶっ通しで素振りを続けておられますわ」
訓練場の端の日陰で、クリップボードを手にした首席査定官ヴェロニカが、心配そうに眉をひそめていた。
「お気持ちは分かりますけれど、あのペースでは肝心の出撃前に腕の腱を痛めてしまいます」
「放っておいてあげなさい、ヴェロニカ」
木箱に腰掛けて薬草茶を飲んでいたエルフのクラリス教授が、静かに首を振った。
「セリアは、一番弟子としての誇りが傷ついているのよ。……二番弟子のレオンハルト卿が水底で孤立して先生に助けを求めてきたこと自体は許せないけれど、それ以上に『水の中では自分の剣が役に立たない』という現実に、あの子自身が一番苛立っているのよ」
クラリスの言葉通りだった。
セリアが得意とするのは、極限まで無駄を削ぎ落とした【空気の抵抗すら切り裂く神速の刺突】だ。
しかし、第30層以深の水没迷宮――四方を数千トンの水に囲まれた完全な水中環境では、空気の八百倍もの密度を持つ「水の粘性と抵抗」が、セリアの細剣の速度を半分以下にまで減速させてしまう。どれほど完璧なフォームで突きを放っても、刃先が水を押し分ける際に猛烈なブレーキがかかり、水棲魔獣の分厚い鱗に弾かれてしまうのだ。
「くっ……! これじゃあ、駄目……! こんな鈍い太刀筋じゃ、濁流の中でレオンを助け出すどころか、先生の足を引っ張ってしまう……っ!」
セリアは模擬標的の前で立ち止まり、激しい息を吐きながら細剣の柄をギリリと握りしめた。
額から流れる汗が、悔しそうに歪んだ白い頬を伝って砂の上にポタリと落ちる。
「……あいつは、昔から要領ばかり良くて、先生の前でいい格好をすることばかり考えていた……王都で筆頭魔導師になった時だって、『セリア、剣の修行もいいけれど、これからは魔導の時代だよ』なんて偉そうに手紙を寄越してきて……! それなのに、いざとなったら水底で立ち往生して、『先生助けて』だなんて……! あんな奴のために、先生に危険な水没階層へ潜らせるわけにはいかないのに……っ!」
セリアの瞳に、悔し涙が滲みかける。
先生の隣で一番頼りにされる弟子でありたい。先生の背中を守る最強の盾でありたい。
その一途な誇りがあるからこそ、水中という未知の環境で己の無力さを突きつけられている現実が、たまらなく悔しかったのだ。
「――セリア」
背後から、低く温かい声がかけられた。
ビクッと肩を震わせたセリアが振り返ると、そこにはタオルを首にかけ、湯気の立つ木樽の桶を抱えたロウ・ヴァルハイトが立っていた。
「せ、先生……っ!? い、いつからそこに……!?」
セリアは慌てて細剣を背中に隠し、袖口で乱暴に額の汗を拭った。師匠にだけは見られたくなかったみっともない焦りを悟られまいと、必死に背筋を伸ばす。
「さっきから見ていたよ。……いい踏み込みだ。だが、少し肩に力が入りすぎているな」
ロウは穏やかに微笑むと、抱えていた桶を砂の上に置いた。桶の中には、冷たい井戸水がたっぷりと張られていた。
「先生、私……! 水の中での剣筋が、どうしても納得いかないのです! 地上と同じように三拍子で踏み込んでも、水の抵抗で刃先がブレてしまって……これでは、水棲魔獣の鱗に刃が立ちません!」
「そう焦るな、セリア。お前は昔から、真面目すぎて何でも自分の力だけでねじ伏せようとする癖がある」
ロウはセリアの前に歩み寄ると、自分の腰から、あのガンツ親方に研ぎ直してもらった『片刃の欠けた短剣』をスッと抜いた。
「水の中で、水に逆らって刃を真っ直ぐ突き出そうとすれば、刃の平が水を押し広げる抵抗をまともに受けてしまう。どんなに強靭な筋力があっても、水の密度には勝てない。……だが、水は『押す』ものじゃない。『滑り込ませる』ものだ」
「滑り込ませる……?」
セリアが小首を傾げた。
「貸してみなさい」
ロウはセリアの右手から銀の細剣を受け取ると、桶の井戸水の上へ刃先を向けた。
「――見ていろ。刃を立てて真っ直ぐ突くのではない。刃の峰(背中)を水流の進行方向へ【斜め四十五度】に寝かせ、手首の小指側を半ミリだけ引く。……こうだ」
ロウの手首が、音もなくスッと動いた。
細剣の切っ先が、桶の水面へと滑り込む。
――ピチャリ、という水音すら立たなかった。
まるで熱したナイフがバターに溶け込むかのように、刃先は一滴の水飛沫も上げず、水面を吸い込まれるように真っ直ぐ底へと到達したのである!
「あ……っ!?」
セリアが目を見張った。
「水には『水流の裂け目(無抵抗の隙間)』がある。刃の峰を斜め四十五度にして滑り込ませれば、押し出された水が刃の背中を伝って後ろへ抜け、逆に刃先を前へ押し出してくれる推進力に変わるんだ。……ほら、握ってみなさい」
ロウは細剣の柄をセリアの手の中に握らせると、その上から、自分の温かく節くれだった大きな掌をそっと重ねた。
「ひゃ、ひゃいっ……!?」
耳元に触れるロウの吐息と、手の甲を包み込む師匠の熱に、セリアの白い肌が一瞬で林檎のように真っ赤に染まった。心臓が早鐘のようにトクン、トクンと激しく跳ね上がる。
「いいか、力を抜くんだ。鼻から吸って、スゥ(1拍)……スゥ(2拍)……手首を返して、斜め四十五度……ハァッ(3拍目)」
ロウがセリアの手を導き、一緒に桶の水面へ刃を滑り込ませる。
――サクッ。
まるで何の手応えもないかのように、細剣の切っ先が井戸水の底の木板を、一分の狂いもなく正確に突いた。水の手応えが、まるで消え失せたかのような軽やかさだった。
「こ、これは……っ! 水が、重くない……!? まるで刃先が水に引っ張られて、勝手に前へ吸い込まれていくようですわ……!」
セリアは赤くなった顔も忘れ、自分の手元を驚愕の眼差しで見つめた。
「そうだ。水の抵抗を敵にするな。水流の力をそのまま刃の推進力に変えてやるんだ。……お前の剣の速さは、誰にも真似できない本物だ。水の中でも、その基本を忘れなければ、お前に斬れないものなど何一つないよ」
ロウはセリアの肩をポンと軽く叩き、世界で一番誇らしげな師匠の顔で笑いかけた。
「あいつ……レオンハルトはお前の弟弟子だ。不器用で、頭でっかちで、すぐに理屈をこねるが……お前の背中をずっと尊敬して追いかけてきたんだぞ。助けに行ってやろうじゃないか、一番弟子」
「……っ! はいっ……はい、先生っ!!」
セリアは潤んだ瞳を真っ直ぐに上げ、深く、力強く頷いた。
先ほどまでの迷いも焦りも、すべて霧散していた。先生に教えてもらったこの技術があれば、どんな深海の魔獣が立ちはだかろうと、絶対に切り伏せてみせる。その確固たる自信が、彼女の全身に満ちていた。
――だが、そんな美しい師弟の絆の空気を引き裂くように、訓練場の木戸が激しく開け放たれた。
「室長! セリア団長! 大変ですわ!!」
飛び込んできたのは、息を切らし、顔を青ざめさせた首席査定官ヴェロニカだった。
その手には、王都の宮廷使節団が運んできたばかりの、金糸で封じられた一通の【至急公文書】が握られていた。
「ヴェロニカさん? どうしたのです、そんなに慌てて」
セリアが怪訝そうに眉を寄せる。
「王都の中央魔導院から、ギルド本部へ向けて正式な【緊急勅命】が届きましたの! ……その内容が、『第35層・水没領域への一切の立ち入りおよび救難活動を即時禁ずる。違反した探索者は全員資格剥奪の上、国家反逆罪に処す』というものですわ!!」
「な……っ、なんですってぇぇっ!?」
セリアが悲鳴のような怒声を上げた。
「自分の息のかかった宮廷魔導師団三十名が水底で孤立しているというのに、捜索を禁ずるですって!? 一体、王都の上層部は何を考えているのですか!!」
激昂するセリアと狼狽えるヴェロニカ。
だが、その騒然たる空気の中で、ロウ・ヴァルハイトだけは微動だにせず、静かにタオルで細剣の刃の雫を拭い取っていた。
「……なるほどな」
老教官の灰色の双眸の奥に、かつて戦場を生き抜いた歴戦の凄みが、わずかに、しかし鋭く宿った。
「三十人の命を見捨ててまで、隠したい『何か』が第35層の水底にあるというわけか。……ノエル、カイくんたちを呼んでくれ。作戦の予定を少し早めるぞ」
水底に沈む二番弟子の救出劇は、単なる自然災害の突破を超え、王都の暗部を巻き込む巨大な渦へと、急速にその舵を切り始めていた。




