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第050話:『第6講:濡れた岩場での足裏感覚と、即席浮袋の作り方』

地下3階の安全講習室の奥にある、旧訓練用の人工水路区画。

 普段は使われていない深さ二メートルの貯水槽の前に、魔導記録カメラ『3号機』がフワフワと青い光を点滅させながら滞空していた。


「――はいっ、室長! 3号機のレンズ焦点、魔導集音器の感度、すべて良好です! いつでも収録に入れます!」

 小型の魔導記録水晶を手にしたノエルが、丸眼鏡を指で直しながら元気よく手を振った。


 周囲のベンチには、D級パーティー『灯火』の三人、A級『白銀の轍』の三人、そしてS級剣姫セリア・アークライトが、手元の羊皮紙とペンを構えて固唾を呑んで待機している。

 これから始まる講義は、ギルドの歴史上、誰も体系化してこなかった【重い鎧を着たまま水中で生き残るための実戦技術】だった。


「よし、ノエル。それじゃあ回してくれ」


 水槽の縁に立ったロウ・ヴァルハイトは、いつもの擦り切れた灰色の外套を羽織り、カメラに向かって穏やかに微笑んだ。


「――大迷宮の探索者諸君、おはよう。地下安全講習室のロウだ。

 今日から、第20層以深の大水没領域を安全に突破するための特別実戦講義――『実戦・迷宮サバイバル術 第6講』を始める。……今回のテーマは、【濡れた岩場での足裏感覚と、動物の革袋を使った即席浮袋の作り方】だ」


 ロウは足元に置かれた木箱から、乾燥させた牛の膀胱と、脂で鞣(なめ)した小さな豚革のオイルバッグを二つ取り出し、カメラの前に掲げた。


「迷宮の水没区画で命を落とす探索者の八割は、魔獣に殺されるのではない。『水に落ちたパニック』によって溺死している。

 特に、鉄の胸当てや鎖帷子(くさりかたびら)を身につけた前衛職は、水に落ちた瞬間、三十キロ近い装備の重みで川底へと一気に引きずり込まれる。慌てて手足をバタつかせれば、わずか十秒で肺の空気を使い果たし、冷たい水毒に飲まれて二度と浮き上がってこられなくなる」


 カイとボルクが、ゴクリと唾を呑み込んだ。

 前衛として重い防具を纏う者にとって、「水没」は即座に死を意味する最大の恐怖だったからだ。


「だからといって、高価な水中呼吸の魔導具や、宮廷の魔導師が使うような浮遊魔法は、駆け出しの若手や辺境のパーティーには到底手が出ない。……だが、安心しろ。君たちの身の回りにある『銅貨数枚の日常品』だけで、どんな重装甲の戦士であっても、絶対に沈まない浮力を確保することができる」


 ロウは、乾燥した牛の膀胱の口に竹の筒を差し込み、フゥーッと三回、深く息を吹き込んだ。

 すると、手のひらサイズだった革袋が、一瞬でラグビーボールほどの大きさにパンパンに膨らみ、ピンと張った頑丈な空気袋へと変貌した。


「吹き込む息は、君たちの肺活量の七割でいい。パンパンに張らせすぎると水圧で破裂する危険があるからな。そして、口を縛る時はただの固結びではなく、この【二重もやい結び】を使う」


 ロウの手元が、魔法のように滑らかに動いた。

 麻紐を輪に通し、手首をクルリと半回転させて引き締める。わずか一秒。結び目はまるで岩のようにガッチリと固定された。


「この結び方は、水に濡れるほど繊維が締まって絶対に解けない。だが、陸に上がって紐の先端を一本引くだけで、子供の力でも一瞬で解くことができる。……そして、この膨らませた二つの浮袋を、左右の脇の下――鎖骨の真下に交差させたベルトで固定するんだ」


 ロウは自ら膨らませた二つの浮袋を胸の前でタスキ掛けにし、カチリとバックルを留めた。


「浮袋を腰につけてはいけない。腰につけると、重い頭と足が沈んで身体が真っ逆さまに水底へ突っ込んでしまう。必ず【両脇の下】だ。ここに浮力を持ってくれば、人間の身体はどんなに重い鎧を着ていても、鼻と口が自動的に水面から上へ出るようにできている」


 セリアがハッと息を呑み、手元の手帳に猛烈な勢いでペンを走らせた。

 浮力の中心を重心よりも上に置く――物理の理屈としては極めて明快でありながら、パニックに陥る現場では誰も思いつかなかった盲点だった。


「……さて。理屈をいくら並べても、実際に見てみなければ信じられないだろう」


 ロウは苦笑すると、足元に置いてあったガンツ親方特製の『三十キロの重鉄インゴット入りの背嚢』を背負い、腰に重厚な鉄剣を佩(は)いた。

 成人男性の体重と合わせれば、総重量は百キロを優に超える。


「ちょ、ちょっと室長!? そんな重たい荷物を背負って入るんですか!?」

 ノエルが悲鳴を上げたが、ロウは「大丈夫だ」と軽く手を挙げると――躊躇うことなく、深さ二メートルの貯水槽の中へと『ドボン!』と飛び込んだ!


「せ、先生っ!!」

 カイとセリアが思わず立ち上がり、水槽の縁へ駆け寄った。


 水飛沫が上がり、激しい波紋が広がる。

 百キロを超える鉄の塊を背負った人間が水に飛び込めば、底まで一瞬で沈み、二度と上がってこられないはずだった。


 ――だが、次の瞬間。


 プハッ、と穏やかな息の音とともに、水面に浮上してきたのは、両脇に二つの浮袋を挟んだロウの顔だった。

 背中には三十キロの鉄の荷物を背負ったままであるにもかかわらず、ロウの首から上は完全に水面から抜け出ており、両手を一切動かすことなく、まるで風呂に浸かっているかのようにプカプカと水面に浮かんでいたのである!


「「「う、浮いてるぅぅぅっ!?」」」

 カイ、ピノ、ミア、そしてガレスたちの顎が外れそうになった。


「ほらな、言った通りだろう」

 水面に浮かんだロウは、水飛沫を顔から手で拭い、カメラに向かって親指を立てた。

「両脇の浮袋が、上半身を垂直に保ってくれる。手足をバタつかせる必要はまったくない。鼻からゆっくり吸って、口から細く吐く……あの『三拍子の呼吸』を保っていれば、体力を一ミリも消耗せずに、何時間でも水面に浮いて救助を待つことができるんだ」


「す、凄すぎる……っ!」

 ガレスが震える拳を握りしめた。

「高価な浮遊魔法など一切使っていない……! 牛の膀胱二つと、一本の麻紐だけで、三十キロの重装甲歩兵が水の上で浮かんでみせたぞ!!」


「さらに、もう一つだ」

 水槽の梯子に片足をかけ、水から上がったロウは、足元の濡れてツルツルに滑る石畳を指差した。


「水没階層の岩場は、湿気と苔で氷のように滑る。ここで転んで頭を打てば、どんな名剣士でも一撃で終わりだ。……だが、滑るのを怖がって足先をすり足にしてはいけない。濡れた岩場を歩く時は、【足の親指の付け根、小指の付け根、そして踵(かかと)の三点】を同時に地面へ垂直に落とす」


 ロウが実際に濡れた石畳の上を一歩踏み出した。

 ペタッ、と吸盤が張り付くような独特の静かな足音が響く。

 靴底には、第1巻でカイたちに教えた『鉄喰い苔』が薄く塗られており、ロウの足は水で濡れた急傾斜の石畳の上でも、一ミリも横滑りすることなくピタリと止まっていた。


「足裏の三点で均等に体重を乗せれば、水膜は足裏の圧力で外側へ押し出され、靴底と岩肌が直接噛み合う。……焦る必要はない。三拍子のリズムに合わせて、一歩、一歩、確実に足裏の三点を大地に預けて歩くんだ」


 ロウが滑るはずの傾斜を、まるで平地を歩くようにスタスタと歩いて見せると、セリアが感嘆のあまりため息を漏らした。

「……素晴らしいですわ、先生。水の浮力と、大地の反発力……すべてを力でねじ伏せるのではなく、自然の理(ことわり)に寄り添うことで無敵の足場を作る。これこそが、真の武術ですわ……!」


「――よし、今回の講義はここまでだ」

 ロウは外套を脱いでタオルで頭を拭きながら、カメラに向かって締めくくった。

「水は恐ろしい敵ではない。正しい知識と備えさえあれば、どんな濁流も君たちを前へ運ぶ味方になる。……次回は、水没階層で獲れる『甲殻ナマズの泥抜きと、武器の完全防錆オイルの作り方』だ。全員、まずは自分の脇の下に合う浮袋を二つずつ作っておくように」


「カット! 収録、完璧です室長!!」

 ノエルが満面の笑みで水晶の録画を停止した。


 水底に囚われた三十名の救出へ向けて、迷宮都市の探索者たちに配られるべき『最強の盾』が、また一つ、地下資料室の黒板から生み出された瞬間だった。

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