第049話:ミアの宝物『孤児院の薬草絵本』と、謎の6本足トカゲ
地下資料室の古びた黒板の前に、湯気の立つ鍋と数冊の分厚い手帳が広げられていた。
大迷宮の深部から噴き上がり始めた地下水は、単なる真水ではない。何百年もの間、鉱物層と魔獣の死骸を通過して濾過されたその水には、微量の『水棲魔毒』と、皮膚を爛れさせる強酸性の硫化物が溶け込んでいる。生半可な革鎧やブーツで濁流に飛び込めば、数時間で足の指先から感覚を失い、最悪の場合は壊疽を起こして歩行不能に陥るのだ。
「……うーん、やはり公式のギルド教本に載っている『中和ポーション』ではダメね」
迷宮生態学者クラリス教授が、琥珀色の薬液が入った試験管を傾けながら、細い指先でこめかみを押さえた。
「第30層以深の水毒は、硫黄の結晶粒子が細かすぎて、王都製の高価な解毒薬を三倍に薄めたって十割も中和できないわ。しかも、救出部隊全員と水底に閉じ込められている調査団三十名、合わせて百人分以上のポーションを用意するなんて、王立調合院の倉庫を空っぽにしても足りない計算よ」
「困りましたわね……」
帳簿と首っ引きになっていた首席査定官ヴェロニカも、眼鏡のブリッジを押し上げながらため息をついた。
「ギルドの特別備蓄金を使えば王都から解毒薬を取り寄せることは可能ですけれど、馬車で運ぶのに最短でも四日はかかりますわ。その頃には、第35層の水位は天井に達してしまいます」
資料室に集まっていた面々が、重い沈黙に包まれる。
水底に孤立した二番弟子レオンハルトたちを救うためには、まず救出に向かう者たちが「水毒で足腰をやられない」ための安価で大量の防護策が絶対に必要だった。
そんな大人たちの深刻なやり取りを、机の端で息を詰めて見守っていた初級パーティー『灯火』の回復役――薬草師の少女ミアが、おずおずと小さな右手を挙げた。
「あ、あの……クラリス教授、ロウ先生」
「ん? どうしたんだい、ミアちゃん」
丸椅子で古い布切れをオイルで手入れしていたロウが、顔を上げて優しく目を細めた。
「あの……私、専門的な調合魔法とか、難しい学術理論のことはよく分からないんですけど……もし水毒の爛れを止めるだけなら、昔から孤児院の子供たちが使っていた『青スズナの根の絞り汁』と『炒った魔石灰の粉』を混ぜた軟膏じゃダメでしょうか……?」
「青スズナの根……?」
クラリスが銀の匙を止め、不思議そうに眉を寄せた。
「青スズナって、迷宮の第2層や第3層のジメジメした岩陰に雑草みたいに生えている、あの苦くて誰も見向きもしない野草のこと? あれはただの利尿作用があるだけの雑草として図鑑に登録されているけれど……」
「い、いえっ! 葉っぱは苦くて薬効も薄いんですけど、根っこの一番先の赤いヒゲの部分をすり潰して、炭の粉と一緒に弱火で練ると、すごくドロドロした黒い油になるんです!」
ミアは一生懸命に身振りを交えながら、首から提げたポシェットを外した。
そして、その中から使い古された小さな布包みを取り出し、宝物のように両手で抱えながら机の上にそっと置いた。
「これ……私が五歳の頃からずっと、孤児院で肌身離さず持っていた本なんです。十年前、私たちがいた北部の孤児院はすごく貧乏で、冬になると子供たちがみんな凍傷やあかぎれで手足が血だらけになって泣いていました。その時に、名前も知らない旅の薬師様が、干し肉と一緒に孤児院の玄関へ置いていってくださった手書きの絵本なんです」
布包みが解かれると、中から現れたのは、動物の皮を粗い麻糸で綴じ合わせた、手のひらサイズの手製の手帳だった。
表紙の革は長年の使用で角が丸く擦り切れ、無数の傷がついていたが、驚くほど丁寧に脂が塗り込まれ、大切に扱われてきたことが一目で分かった。
「……見せてもらってもいいかい、ミアちゃん」
ロウが穏やかな声で手を伸ばすと、ミアは「はいっ!」と嬉しそうに手帳を手渡した。
ロウの隣からのぞき込んだクラリスが、パラパラと頁をめくった瞬間――その翡翠色の瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれた。
「な……っ!? な、何よこれ……っ!?」
クラリスが思わず立ち上がり、手帳を両手でひったくるようにして顔を近づけた。
「クラリス教授!?」
ノエルが驚いて丸眼鏡を直す。
「信じられないわ……! この手書きのメモ、文字は少し癖のある武骨な筆跡だけど、書かれている薬草の薬理データが異常よ! 青スズナの根に含まれるアルカロイドと、魔石灰のアルカリ反応を利用して、硫黄化合物を100%吸着沈殿させる配合比率が、ミリグラム単位で完璧に割り出されているわ! これ、王立薬術アカデミーの最高機密アーカイブにだって載っていない、失われた古代の野戦解毒配合よ!!」
クラリスの興奮した叫びに、ヴェロニカも帳簿を取り落としそうになりながら身を乗り出した。
「ほ、本当ですの、教授!? 道端に生えている雑草と、ガンツ親方の工房にいくらでも転がっている石灰の粉で、深層の水毒を100%防ぐ軟膏が作れるとおっしゃるの!?」
「ええ、間違いなく作れるわ! それどころか、この手帳に書かれている保存法を使えば、一度練った軟膏は半年間も腐らずに効果を保ち続ける! これ一冊で、王都の薬草ギルドがひっくり返るほどの価値があるわよ!!」
大絶賛されたミアは、顔を真っ赤にして照れくさそうにもじもじと指を絡めた。
「えへへ……そんなに凄い本だったんですね。孤児院の院長先生も『この本を置いていってくれたおじさんは、きっと森の偉い大賢者様に違いない』って、神棚に飾って拝んでいたんです」
「大賢者……ええ、確かにこの薬草知識は神業の領域だわ」
クラリスは深く感嘆の息を吐きながら、手帳の次の頁をめくった。
「……ただ、ねぇ」
ふと、クラリスの眉がピクリと跳ね、声の調子が一段低くなった。
「……教授?」
ノエルが首を傾げる。
「薬草の配合知識は間違いなく神の領域なんだけど……この、頁の隅っこに描かれている挿絵のトカゲ……これ、一体何なのかしら?」
「えっ?」
カイとピノも身を乗り出して手帳の頁を覗き込んだ。
そこには、薬草の採取場所として「岩毒トカゲの巣の近く」という解説とともに、一本の黒いインクペンで描かれた【トカゲらしき生物のスケッチ】が添えられていた。
――だが、その絵が、あまりにも異様だった。
まず、輪郭が泥から掘り起こしたばかりのジャガイモのようにデコボコに歪んでいる。
そしてトカゲであるはずなのに、胴体の左右から、なぜか昆虫のように関節が逆向きに曲がった足が「六本」生えていた。さらに、への字に曲がった口からは、まるで呪いの煙のような謎の渦巻きがモクモクと吐き出されており、つぶらなはずの目は完全に白目を剥いて天を仰いでいる。
「……ぶふっ!?」
ピノが思わず吹き出し、慌てて両手で口を押さえた。
「な、なにこれぇ!? トカゲっていうより、深海のタコと芋虫が合体した呪いのぬいぐるみみたいだよぉ!」
「こら、ピノ、笑っちゃダメだろ!」とカイが小声で窘めるが、そのカイの口元も小刻みに震えている。「で、でも確かに……足が六本あるトカゲなんて、大迷宮のどこを探してもいないよな……?」
「そうなのよ!」とクラリスも頭を抱えた。「薬草の解説は一分の隙もない完璧な論文なのに、なんでこの挿絵だけ、五歳児が暗闇の中で左手で描いたような呪われたクリーチャー画になってるのよ!? この大賢者様、薬草の天才だけど、絵の才能だけは壊滅的にゼロだったのね……!」
室内が温かい笑いに包まれる中、ただ一人、腕を組んで黙り込んでいた人物がいた。
A級パーティー『白銀の轍』の弓使い――クールなハーフエルフのエレンだった。
エレンは手帳のトカゲの絵を食い入るように見つめ、その形の良い眉をキリリと引き締めていた。
(……足が六本で、逆関節に曲がっていて、口から渦巻きを吐くトカゲ……?)
エレンの脳裏に、遠い幼少期の記憶がかすかに蘇りかける。
八年前、エルフの隠れ里を飛び出して北部の原生林で道に迷い、飢えと寒さで泣きじゃくっていた自分を助け出してくれた、あの片目に眼帯をした無口な旅の弓師匠。あの師匠が、焚き火の灰の上に木の枝で描いてくれた「毒トカゲの見分け方」の絵も……確か、こんな風に足が六本あって、見た瞬間にあまりの怖さに大泣きしたような記憶が……
「……エレン? どうかしたの?」
隣のガレスが不思議そうに声をかけると、エレンはハッと我に返り、慌てて首を横に振った。
「い、いえ……なんでもありません。昔、どこかで似たようなヘタな絵を見たことがあるような気がしただけです……」
「ふむ」
その時、机の上の手帳を愛おしそうに撫でていたロウが、満足そうに頷いて湯呑みを置いた。
「いい絵じゃないか。手足の関節の角度こそ少々独特だが、トカゲの急所である首筋の動脈と、毒袋の位置が正確に強調されている。絵の上手い下手よりも、現場で本当に必要な情報が伝わることの方が百倍大事だからな」
「もう、室長ったら!」ノエルが呆れたように笑った。「そんなフォローをするのは室長くらいですよ! でも、ミアちゃんのおかげで、水毒を防ぐための最高の軟膏が作れる目処が立ちましたね!」
「はいっ!」ミアが嬉しそうに胸を張る。
「よし」ロウは立ち上がり、黒板の前に歩み出た。
「ガンツ親方の工房へ行って、石灰の粉と空き缶を百個分けてもらおう。カイくんたちは第2層へ行って青スズナの根を掘ってきてくれ。……軟膏ができたら、次は全員で【水中で絶対に溺れない浮袋の作り方】の講義に入るぞ!」
「「「了解っ、ロウ先生!!」」」
地下資料室の空気は、再び力強い前進の活気に満たされた。
十年前、ある名もなき老兵が孤児院へ遺した一冊の手帳が、十年の時を経て、今まさに迷宮都市の新たな仲間たちを救う奇跡の鍵となろうとしていたのである。




