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第048話:開通した排気シャフトの余波と、金属筒の暗号

迷宮都市『アーク・バベル』の朝は、かつてないほどの清々しい風とともに明けた。


 三百年もの間、大迷宮の底に溜まり続けていた高圧の水蒸気と硫化魔瘴気が、第5層、第27層、第55層の排気ルーバーから一斉に抜け去ったことで、街を覆っていた重苦しい油煙の匂いは嘘のように消え去っていた。中央広場の大噴水では、朝早くから集まった商人や職人たちが「おい、空気がうまいぞ!」「迷宮の排気口から、澄んだ山の風みたいな匂いが吹いてやがる!」と顔を見合わせ、至るところで笑い声が弾けている。


 だが、そんな祝祭ムードの地上の喧騒から遠く離れた、ギルド本部ビル地下3階――『安全講習・映像資料室』の空気は、静かな、しかし確かな熱気と緊張感に包まれていた。


「……ふむ。なるほどな」


 部屋の中央に置かれた大きな木製テーブル。

 無天賦の老教官ロウ・ヴァルハイトは、丸椅子に深く腰掛け、湯呑みから立ち上るほうじ茶の湯気を吸い込みながら、一枚の濡れた羊皮紙に目を落としていた。


 その羊皮紙は、先ほどD級への昇格を果たしたばかりの初級パーティー『灯火』のカイ、ピノ、ミアの三人が、中層との連絡水路からずぶ濡れになって持ち帰った【防水金属筒】の中に収められていたものだ。

 金属筒の蓋には、王都の宮廷魔導院が最高機密文書にのみ用いる『銀鷲と青嵐の封蝋』がしっかりと刻まれており、中には銀色のインクで几帳面な、どこか几帳面すぎて神経質そうにも見える美しい筆跡がびっしりと並んでいた。


『――この筒が水流に乗って上層へ届くことを祈る。私は王国筆頭宮廷魔導師にして、ロウ・ヴァルハイト先生の二番弟子、レオンハルト・フォン・シルフィード。現在、王命により第35層・古代水没都市の最奥を調査中、神話時代の「渦潮の結界」と深海魔獣の群れに退路を断たれ、調査団三十名とともに水底の聖堂に孤立している。魔力はすでに尽きかけたが、先生に教わった「空気袋の確保」と「火起こし」で全員生存中だ。……もし誰かこの筒を拾ったら、地下のロウ先生に届けてくれ!』


 その手紙を覗き込んでいたS級クラン『蒼穹の旅団』の団長――《氷華の剣姫》セリア・アークライトが、細い眉をキュッと吊り上げ、腰の細剣の鞘を「カツン」と床に鳴らした。


「相変わらず情けない奴ですわ、レオンの奴……! 宮廷筆頭魔導師などと王都で持ち上げられて偉そうにしているくせに、いざ迷宮に入れば水底の聖堂に取り残されて、先生に泣きついてくるなんて! 先生、あんな奴の言うことなど放っておいて、少し頭を冷やさせましょう!」


「まあまあ、セリア団長、そうおっしゃらないでくださいまし」

 帳簿を抱えた首席査定官ヴェロニカが、銀縁眼鏡を指先で押し上げながら苦笑した。

「レオンハルト卿といえば、現国王陛下の信任も厚い王都魔導院の至宝。その彼が率いる正規調査団三十名が深層で孤立しているとなれば、本来なら王国騎士団が三個連隊を動員する国家的大事件ですわ。それが、死者を一人も出さずに全員無事で耐え忍んでいること自体、奇跡以外の何物でもありません」


「ふん! 奇跡ではありませんわ、ヴェロニカさん」

 セリアはふんと鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張った。

「あいつが生きているのは、先生のサバイバル術を守っているからに決まっています! 先生の一番弟子である私に比べれば、二番弟子のレオンなどまだまだ基礎の反復が足りませんけれど……それでも先生の教えを忠実に守っている点だけは、わずかに認めてあげてもよろしくてよ」


 セリアの言葉に、テーブルを囲んでいたカイとピノ、ミアの三人は、思わず顔を見合わせて小さく笑みをこぼした。

 昨日まで全探索者の憧れだった雲の上のS級剣姫が、この地下資料室の中では、まるで年の離れた弟に焼きもちを焼く姉のように頬を膨らませている。そのギャップが、なんとも微笑ましく、同時に心強かった。


「……それで、ロウ先生」

 一歩前へ進み出たのは、先日の第27層の防衛功績によって正式にA級パーティーへの昇格を果たした『白銀の轍』のリーダー・ガレスだった。

 大柄な重戦士は、ロウの前に立つと無意識に背筋をピンと伸ばし、かつて亡き兄が遺した手帳を胸ポケットの上から確かめるように手を当てた。


「手紙には『水底の聖堂に孤立している』とありましたが、第35層といえば、ここ数年ギルドでも立ち入りが制限されている【大水没領域】の最奥です。先日の大換気オペレーションによってシャフトの蒸気圧は下がりましたが、それによって深層の水位に何か変化が起きているのでしょうか?」


「うむ。ガレスくんの言う通りだ」


 ロウは湯呑みをソーサーの上に静かに置くと、立ち上がり、黒板の横に掲げられた巨大な迷宮断面図の前に立った。

 指先でチョークを一本つまみ、昨日開門した第5層、第27層、第55層の排気ルーバーの位置を軽くトントンと叩く。


「昨日、俺たちは三百年間溜まっていた蒸気と熱気を一気に外へ逃がした。それによって、迷宮の内部圧力は正常値に戻った。……だが、圧力鍋の蓋を一気に開ければ、中に溜まっていた煮汁がどうなるか、分かるかい?」


「あ……!」

 ミアが小さな手を口元に当てて声を上げた。

「お鍋の蓋を急に開けると、底に沈んでいた具やスープが、ボコボコッて上に泡立ってきます!」


「その通りだ、ミアちゃん」

 ロウは優しく目を細め、白チョークで断面図の第60層から第30層にかけて、青い波線の矢印を何本も描き入れた。


「深層の超高圧が抜けたことで、それまで蒸気圧によって下に押し込められていた深層の地下水脈が、行き場を求めて中層の水没階層へと一気に湧き上がり始めている。レオンハルトの調査団が閉じ込められた聖堂は、第35層の古代水路の合流点にある。……つまり今、第30層から第35層にかけての大水没領域は、普段の三倍以上の激流と濁流で満たされ、水位が毎時十センチのペースで上昇しているはずだ」


「ひ、ひえぇぇっ……!?」

 横で聞いていたピノが、ぴんと立った山猫耳をパタパタと震わせながら悲鳴を上げた。

「毎時十センチ!? じゃあ、あと二日もしたら、第35層全体が完全に天井まで水浸しになっちゃうってことですか!?」


「ええ、その計算になりますわ」

 腕を組んでいた迷宮生態学者クラリス教授が、エルフ特有の長い耳をピクリと動かし、深刻な表情で金髪を払った。


「しかも厄介なのは水だけじゃないわ。レオンハルト卿の手紙にある『渦潮の結界』……あれは古代の迷宮建造者が、水没都市の防衛のために設置した対侵入者用の魔導トラップよ。普段は水量が足りなくて休眠しているけれど、水脈が暴走して一定の水位を超えると、半径五百メートル以内のあらゆる水流を巻き込む巨大な渦潮を発生させるの。……そんな渦の中に突っ込んだら、どんな最新鋭の魔導潜水艇だって一瞬で木っ端微塵よ」


 室内の空気が、一気に張り詰めた。

 三百年ぶりの大換気によって地上を救った直後に、今度は水底に取り残された三十名の同胞の命が、刻一刻と迫る水没のタイムリミットに晒されている。


 だが――そんな重苦しい沈黙を破ったのは、他でもないロウの、いつもの穏やかで頼もしい笑い声だった。


「ははは。まあ、そう難しく考えるな、みんな」


 ロウはチョークの粉をパパッと払うと、机の上の防水金属筒を指先で軽く持ち上げた。


「レオンハルトの奴、手紙の最後にちゃんとこう書き添えてある。『先生に教わった空気袋の確保と、火起こしで全員生存中だ』とな」


「……あ」

 ノエルが丸眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。


「あいつはな、王都の宮廷魔導師になる前、俺の辺境の訓練所で三年間、泥水と雨水にまみれて基礎を叩き込んだ男だ。派手な大魔導ばかりが目立つが、あいつの本当の強さはそこじゃない。どんな絶望的な暗闇の中に放り込まれても、決してパニックにならず、乾いた空気を探して火を灯し続ける……その『生存の基礎』を、あいつは骨の髄まで覚えている」


 ロウの瞳には、かつて自分が育て上げた不器用な教え子への、深い信頼の光が宿っていた。


「あいつが三十人の部下を生かして待っているんだ。俺たちが慌てて飛び込んで、途中で溺れてちゃ世話がないだろう?」


「せ、先生……!」

 セリアの瞳が、ハッとしたように潤んだ。

 先ほどまでの意地っ張りな態度は消え去り、師匠の言葉の一言ひとことを噛み締めるように、胸の前で両手をギュッと握りしめる。


「カイくん、ピノくん、ミアちゃん」

 ロウは振り返り、新米探索者たちに優しく語りかけた。


「君たちが第8層で見つけてくれたこの金属筒のおかげで、俺たちは最悪の事態が起きる前に、レオンハルトたちの正確な位置と状況を知ることができた。君たちの観察眼と足腰が、三十人の命を救うための最初の切符を手に入れてくれたんだよ。よくやってくれた」


「――っ! はいっ、ロウ先生!!」

 カイは胸を熱く焦がしながら、力強く頷いた。

 自分たちが拾い上げた一本の小さな金属筒が、王国を揺るがす大救難作戦の第一歩になっている。その誇らしさと使命感に、ピノもミアも瞳をキラキラと輝かせている。


「さて、ノエル。黒板の横に新しい羊皮紙を張り出してくれ」

 ロウが白チョークを構え直すと、ノエルが「はいっ、室長!」と元気に返事をして、大判の模造紙をピンで留めた。


「レオンハルトたちを救出するには、第20層から第35層に至る濁流を突破しなければならない。だが、水の中ではいつもの剣も槍も、水の抵抗で威力が半分以下に落ちる。鎧を着たまま水に落ちれば、十秒で川底へ引きずり込まれる。……だが、それらはすべて『水の性質を知らない者』の恐怖に過ぎない」


 カツン、と黒板にチョークが当たり、力強い文字が走る。


『特別実戦講義:水没迷宮対策』

『第1講:濡れた岩場での足裏感覚と、水流の渦の「目」の見つけ方』


「水に逆らうな。水流の力を利用すれば、人間は地上よりも速く、無音で動くことができる。……今日から全員で、水の中でも絶対に死なない【水没サバイバル術】の訓練を始めるぞ!」


「「「はいっ、先生!!」」」


 地下3階の薄暗い資料室に、若手、中堅、S級、そして職人と学者たちの、迷いのない力強い返礼が響き渡った。

 水底に孤立した三十名の命を救うための、無冠の老教官による新たな挑戦が、ここに静かに幕を開けたのである。

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