第046話:封印されたマスターテープと、床ハッチの下の鼓動
「――あれ? し、室長!? いつの間に戻っておられたんですかっ!?」
その日の夜。
1階ロビーでの大歓迎会を抜け出し、機材の片付けをするために地下3階の『安全講習・映像資料室』へ降りてきたノエルと、その後ろについてきたセリア、クラリス教授、ガレス、カイたちは、資料室の扉を開けた瞬間に目を丸くして立ち尽くした。
なぜなら、第65層の最底部から上がるには高速リフトを使っても三時間はかかるはずであり、しかも第1層の正面ゲートにはギルドマスター以下数千人の出迎えが今も待機しているというのに――
当のロウ・ヴァルハイト本人が、すでに地下3階の資料室のいつもの丸椅子に座り、卓上コンロで淹れたばかりの温かい珈琲を「ふぅ、やっぱりこの部屋は室温十八度で落ち着くなぁ」と美味しそうにすすっていたからである!
その机の上では、『3号機カメラ(チビ)』もすでに充電器の上でスヤスヤとスリープモードに入って羽根を休めていた。
「えっ、ええっ!? 先生、いったいどこのルートを通って帰っていらしたのですか!? 第50層のリフトも第1層の中央階段も、うちの『蒼穹の旅団』の団員たちがレッドカーペットを敷いてずっとお待ちしておりましたのに!」
セリアが目を白黒させて駆け寄ると、ロウは少しバツが悪そうに鼻の頭を掻いて笑った。
「いやあ、途中の通信でギルドマスターが『正面広場で凱旋パレードだ!』なんて張り切っているのが聞こえたからね。俺はただの安全講習室の用務員みたいなもんだし、主役は現場で汗を流してバルブを開けたカイくんたちやガレスくんたち、それにセリアたちだろう? 俺が目立つのは性に合わないから、昔から使っている裏の保守階段を通って、こっそり先に戻らせてもらったよ」
ロウはそう言ってのけたが、その瞬間――
ハイエルフのクラリス教授と、S級剣姫のセリア、そしてノエルの三人の視線が、期せずしてロウの座っている丸椅子の真下――『大きな漬物石が乗せられた、錆びついた丸い鉄ハッチ』へと落ちた。
よく見れば、その鉄ハッチの縁に積もっていたはずの古い埃が綺麗に拭われており、ハッチの隙間から、さっきロウがいたはずの『第65層の地底熱脈』と、さらにその下にある『深層第80層以深の奈落断層』の微かな残り香が、ほんの一瞬だけ漂っていたのだ。
(……まさか。この地下3階の資料室が「三百年前の対深層・最終防衛隔壁」の石組みで造られているってことは……その床ハッチって、ドブネズミの排水管なんかじゃなく、初代迷宮守が第1層から第80層までを数分で行き来するために造った【最深部直通・緊急縦坑の第0層出口】なんじゃ……!?)
クラリス教授がゴクリと唾を飲み込み、ハッチの下に隠された途方もない真実に気づいて震えた、その時だった。
――ドクン……ッ。
第65層の排出口が開通して迷宮の魔力循環が正常に戻った反動で、ハッチの遥か数千メートル下――前人未踏の『深層第99層〜第100層(逆さまの塔の頂上)』に封じられている神話級の何かが、寝返りを打つように微かな鼓動を響かせた。
ハッチの上の漬物石が、カタリ、と1ミリだけ揺れる。
だが、ロウ・ヴァルハイトは珈琲カップを片手に持ったまま、会話の調子を少しも変えず、右足のブーツの踵でその鉄ハッチの上を――「コン、コン」と、昼間に古代熔岩亀を寝かしつけた時とまったく同じ『斜め四十五度のリズム』で、軽く二回だけ踏み鳴らした。
「……おっと。まだ少し寝ぼけている奴がいるみたいだな。今はまだ起きる時間じゃないぞ、静かに寝ていなさい」
ロウの静かな声と、靴底からハッチの奥底へと突き抜けた無言の覇気が届いた瞬間。
地下数千メートルの深淵で脈打っていた神話級の鼓動が、「ヒュッ……!」と息を呑むように縮み上がり、再び塵ひとつ動かぬ完全な静寂へと沈み込んだ。
ロウがなぜ、スキル至上主義の人事部長から「地下3階の閉鎖寸前の資料室へ行け」と命じられた時、ただの一度も文句を言わずに喜んでその辞令を受け入れたのか。
そしてなぜ彼が、いつもこの部屋の同じ丸椅子に座って、温かい珈琲を淹れながら迷宮の風を見守っているのか――その本当の理由の一端を悟ったクラリスとセリア、ガレスたちは、言葉を交わさずとも深い畏敬の念とともに胸に手を当てた。
「……それよりノエル。昼間の第65層で3号機が撮った『番外講(熔岩亀のノックの仕方)』と、道中で俺が小石を弾いていた映像なんだが……」
ロウは少し困ったような顔で、充電器の上の3号機を指差した。
「あれをそのまま1階ロビーに流すと、またギルドマスターたちが大騒ぎして俺を地上の上級教官に引っ張り出そうとするだろうし、何より新米の子たちが『よし、俺たちも深層の亀をノックしに行こう!』なんて真似をしたら危ないからな。あの第65層の記録水晶だけは、【館内機密アーカイブ(貸出禁止)】として、この部屋の鍵付きの棚にしまっておいてくれないか?」
「ふふっ、分かりました室長! あの映像は、この地下資料室の常連メンバーだけの『秘密のマスターテープ』として、私が責任を持って厳重に封印しておきますね!」
ノエルが丸眼鏡の奥の瞳を輝かせて頷いた。
するとロウは、卓上魔導コンロの上でコトコトと良い匂いを立てて煮えていた大鍋の蓋を開け、湯気の立つ木のお椀を並べて振り返った。
「――さて。昨日の夜の『緊急特別講』で、俺はみんなと約束したはずだ。『明日の夕方には、全員で一人も欠けずに戻ってきて、美味しい温かいスープを飲もう』ってな。……1階の大宴会もいいが、まずはここで頑張ったみんなで、静かに乾杯しようじゃないか」
大鍋の中に入っていたのは、先日セリアが持ち帰った『第55層・氷嵐竜の骨から取った極上の白湯スープ』に、第2層の塩苔と野ハッカ、そして柔らかく煮込んだ根菜をたっぷり入れた、ロウ特製の滋養スープだった。
「「「わあああっ!! 先生の特製スープだぁぁっ!!」」」
カイ、ピノ、ミアの『灯火』の三人、ガレス、エレン、ボルクの『白銀の轍』の三人、一番弟子のセリア、クラリス教授、ガンツ親方、ヴェロニカ査定官、そして補佐官のノエル。
年齢も、種族も、ランクも、職種もバラバラな十一名が、ロウから温かい木のお椀を受け取り、地下3階の小さな机の周りに輪になって集まった。
「……では、一番弟子の私から音頭を取らせていただきますわ!」
セリアが背筋を伸ばし、しかし誰よりも幸せそうな笑顔でお椀を掲げた。
「私たちの命と、この迷宮都市の未来を守ってくださったロウ先生の『基礎』に! そして、誰一人欠けることなくこの部屋へ帰ってきた『生存率100%』の仲間たちに――乾杯っ!!」
「「「乾杯ーーーっ!!」」」
温かなスープの湯気と笑い声が、室温十八度の地下資料室いっぱいに広がる。
こうして、迷宮都市最大の危機を「死者ゼロ」で救った名もなき老教官の伝説は、表向きの歴史には『安全講習室のサバイバル術による全探索者の見事な連携の勝利』として刻まれ、真の英雄は今日も変わらず、地下3階の特等席(錆びた床ハッチの真上)で静かに教鞭を執り続けることとなったのである。




