第045話:澄み渡る大迷宮の空と、死者ゼロの奇跡
――ゴォォォォォォォォォッ……!!
第65層のシャフト最底部を塞いでいた『古代熔岩亀』が、ロウ・ヴァルハイトの「斜め四十五度の2回ノック」によって気持ちよさそうに寝返りを打った、その瞬間。
大迷宮『アーク・バベル』の北壁の裏側を貫く全長数千メートルの巨大煙突――『北側・中央排気縦坑』の底から頂上までが、三百年ぶりに一本の完全な風の通り道として開通した!
第65層の地底大熱脈に溜まっていた過剰な熱水と蒸気は、本来の正規ルートである最底部の大排出口から地底湖へと勢いよく流れ出し、同時に上から引き込まれた新鮮な外気が、シャフト全体を一気に冷却・換気していく。
その清浄な風の奔流は、第55層の氷結渓谷にいたセリアたちの白銀のマントを心地よく揺らし、第27層の呪い回廊にいたガレスたちの額の汗を拭い去り、第5層の安全避難室にいたカイ、ピノ、ミアたちの髪を優しく撫でて吹き抜けていった。
「……あっ! 見てカイ、ミア! 水路の赤い湯気と硫黄の匂いが消えて、すっごく冷たくて美味しい森の風の匂いに変わったよ!!」
第5層でピノが口元の消臭炭袋を外し、大きく深呼吸をして歓声を上げた。
足元の北側旧水路を流れていた摂氏三十度のぬるま湯も、見る見るうちに本来の澄み切った摂氏十二度の冷たい湧き水へと戻っていく。
カイは胸元から、昨夜ロウの根元側と合わせて一本の完全な形に戻った『真鍮の警笛』を取り出すと、清浄な風が吹き抜ける第5層の回廊に向かって、高らかに勝利と安全確認の合図を吹き鳴らした。
――ピィィィィーーッ、ピッ、ピィィィィーーッ!!
十年前、炭鉱の底でロウが幼いカイの命を繋ぎ止めたあの澄んだ真鍮の笛の音が、今はカイ自身の肺から吹き鳴らされ、第5層の八十四名の仲間たちに「作戦成功・全員無事」を告げる希望のファンファーレとなって響き渡った。
そして、地下3階の『最高作戦司令室』では――
コンソールの圧力計と魔瘴気濃度メーターを見つめていた補佐官ノエルとクラリス教授、そして首席査定官ヴェロニカの三人が、すべての数値が緑色の『正常値』へと戻ったことを確認し、一斉に立ち上がって声を張り上げた!
「――北側中央排気シャフト、内部圧力が危険域92%から正常値15%へ低下! 第1層から第65層までの全区画において、硫化魔瘴気および夢喰い胞子の濃度、ゼロを確認しましたっ!!」
「北街の古井戸の水位も回復し、北側区画の火魔石の異常共鳴も完全に停止しましたわ!」
「さらに……今回の大換気オペレーションに参加した浅層・中層・深層の全探索者、計一千二百四十八名の安否確認が完了しました! 重傷者ゼロ、中毒者ゼロ……文字通りの【全員生還・生存率100%】ですっ!!」
ノエルの涙声の報告が響き渡った瞬間。
地下3階の司令室は、ギルドマスターのバルドや都市防衛軍の将軍たち、査定官や鍛冶職人たちの「「「うおおおおおおおっ!! やったぞぉぉっ!!」」」という地鳴りのような歓声と、抱き合って泣き崩れる人々の拍手の渦に包まれた。
部屋の隅では、初日にロウを「スキルなしのロートル」と見下していた人事部長までもが、ボロボロと涙を流して床に土下座し、「わ、私が愚かだった……! あのお方こそ、我が迷宮都市の真の守り神だ……! これからは私も毎日、地下資料室のアーカイブを見て三拍子の呼吸と靴紐の結び方からやり直します……っ!」と心の底から悔い改めていた。
もし六日前、ロウ・ヴァルハイトがこの地下資料室へ赴任してこなければ。
もし彼が「基礎しか教えられない」と言いながら、全階層の探索者たちに『風を読む松明』『斜め四十五度の打撃』『三拍子の呼吸』『無毒化ジャーキー』『苦いハッカガム』『消臭炭袋』を広めていなければ。
今頃この迷宮都市アーク・バベルは、三百年ぶりの水蒸気大爆発と大暴走によって地図から消え去っていたはずだった。
それを、都市の建物の破損ひとつなく、そして探索者の死者を誰一人として出すことなく、文字通り「ただの安全な大掃除と換気作業」として一日で完封してしまったのである!
「ヴェ、ヴェロニカ首席査定官……っ!」
ギルドマスターのバルドが、ハンカチで目元の涙を拭いながらヴェロニカを振り返った。
「今回の作戦で、もし都市が被災していた場合の想定損害額は金貨五百万枚を下らなかったはずだ! それを無傷で防ぎ、あまつさえ三百年前の古代減圧機構まで完全復旧させたヴァルハイト室長の功績は、王国最高位の『救国勲章』および金貨十万枚の特別報奨金に値する! すぐさま王都へ上申書を送り、彼が地上の第1層へ戻ってき次第、ギルド本部の正面広場で全市民を挙げての凱旋パレードを開くぞ!!」
「ええ、もちろんですわギルドマスター! このヴェロニカ・クロフォード、一世一代の査定書を書き上げてみせますわ!」
「おうっ、北街の鍛冶屋連中と商業ギルドで、一番デカい樽酒を百本用意して待ってるぜ!!」
1階ロビーでも、帰還してきたカイたち『灯火』やガレスたち『白銀の轍』、そして高速リフトで戻ってきたセリアたち『蒼穹の旅団』が、何千人もの探索者たちから胴上げされんばかりの喝采で迎えられていた。
ロビーの『実戦検証・伝言黒板』には、チョークで書くスペースがなくなるほどびっしりと、全探索者からのメッセージが書き込まれていた。
『【全探索者一同より】地下3階のロウ先生、ノエル補佐官! 俺たち全員、靴紐ひとつ緩まずに生きて帰ってきました!!』
『先生のハッカガムと炭袋と燻製ジャーキーは、今日から俺たち迷宮都市の探索者の【標準聖装(三種の神器)】だ!!』
『F級からS級まで、同じ「三拍子の呼吸」と「斜め四十五度」で迷宮を救った今日という日を、俺たちは一生忘れない!!』
だが――
地上のロビーで何千人もの探索者たちが「ロウ先生の帰還を正面ゲートで出迎えよう!」と今か今かと待ち構えている中。
それから二時間後の夕暮れ時になっても、肝心のロウ・ヴァルハイトの姿は地上のどこにも現れなかった。
「……おかしいですわね。第65層の底からなら、第50層の高速昇降機を使えばもうとっくに第1層の正面ゲートへ到着しているはずなのに」
レッドカーペットの先頭で花束を抱えて待っていたセリアが首を傾げ、第50層のリフト管理官と第1層のゲート衛兵に通信を入れた。
すると、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
『えっ? ヴァルハイト室長でございますか? いいえ、第50層のリフトには一度も乗っておられませんし、第60層から第1層までのどの中央階段の検問所も通過しておられませんよ! ただ、3号機カメラのGPS魔力反応だけが、なぜか二時間前に第65層から一瞬で消えて、今はギルド本部の地下から反応しているのですが……』
「えっ!? どこの階段も通っていないのに、3号機の反応がもうギルドの地下にあるんですか!?」
ノエルとセリア、そしてクラリス教授がハッとして顔を見合わせ、急いで地下3階の資料室へと駆け降りていったのは、まさにその直後のことだった。




