第042話:S級『氷華の剣姫』の舞 〜「先生、これが私の一番の基礎です!」〜
深層・第55層『北側・万年雪の氷結渓谷』。
本来は氷点下三十度の猛吹雪が吹き荒れるその白銀の渓谷は今、開門されたばかりの深層メイン減圧バルブから噴き出す摂氏百五十度の超高圧水蒸気によって、視界ゼロの白い濃霧と灼熱の嵐に包まれていた。
そして、その蒸気の噴出口から、熱脈の魔力が凝縮して生まれたA級災害指定の魔物――全身が摂氏千度の青い炎で構成された【深層・蒼炎精霊】百体以上の大群が、氷の渓谷を溶かしながら地上へ向かって一斉に飛び出してきたのである!
「だ、団長っ!! 排気口からA級の蒼炎精霊が百体以上も溢れ出してきました! あいつらは物理攻撃が一切通じず、中心にある直径三センチの『炎核』を正確に砕かない限り何度でも再生します! どうかセリア団長の広域殲滅スキル《絶対零度の吹雪》で、渓谷ごと凍らせてください!!」
S級クラン『蒼穹の旅団』の副官が、熱風を防ぐ消臭炭袋の奥から必死に叫んだ。
地下3階の最高作戦司令室でも、モニターを見つめる将軍たちが「そうだ、セリア団長のS級大魔法なら百体の炎精霊など一撃で――」と身を乗り出した。
だが、白と蒼の騎士礼装を翻して最前線に立つ《氷華の剣姫》セリア・アークライトは、静かに首を横に振った。
「いいえ、副官。ここで私の広域氷結スキル《絶対零度の吹雪》を使えば、せっかく開けた減圧バルブの歯車まで凍りついて閉まってしまうし、急激な温度差で第55層の北壁そのものが水蒸気爆発を起こしてしまうわ」
セリアは左手で胸元の『古い木刀の柄』にそっと触れ、中継用の浮遊カメラのレンズ――その向こう側で、きっと後でこの記録映像を見てくれるであろう最愛の師匠ロウ・ヴァルハイトに向けて、凛とした、しかしどこか少女のように誇らしげな微笑みを浮かべた。
「総員、後方でバルブの維持に専念しなさい。あの百体の蒼炎精霊は、私が一人で処理します。……スキルも、大魔法も使いません。十年前、北の訓練所でロウ先生に一番最初に手を取って教えていただいた、私の【一番の基礎】だけで十分ですわ!」
セリアは白銀の細剣の柄に右手を添え、目を閉じて静かに息を吸った。
鼻からスゥ、スゥと二拍吸い、口からハァーッと四拍かけて、全身の余分な力みを氷の吐息とともに吐き切る『三拍子の呼吸』。
これまで自分の膨大すぎる氷属性魔力を抑え込むために使っていたその呼吸法によって、セリアの魔力は外へ一滴も漏れることなく、白銀の刀身のわずか「刃先1ミリ」の薄膜にだけ、極限の密度で静かに纏わされた。
「――参ります!」
セリアの身体が、音もなく白い蒸気の中へと滑り出した。
踵・小指球・母指球の三点に均等に体重を乗せ、氷の上でも1ミリも滑らない究極の『三点歩法』。
摂氏千度の炎を纏って襲いかかる百体の蒼炎精霊の群れのど真ん中へ、セリアはまるで春の氷原を舞う一羽の白鳥のように、華麗かつ最短の軌道で踏み込んだ!
――チャリン。
抜刀の音すらしない。
セリアが繰り出したのは、王都の剣術大会で見せるような派手な連撃スキルではなく、第1講でロウがカイたちに教えたのとまったく同じ角度――右上から左下へ、相手の鎖骨から心臓を抜く『斜め四十五度の基本の袈裟斬り』ただひとつだった!
ただし、その精度と速度は、十年間一日も欠かさず一日一万回の基礎素振りを積み重ねてきたS級剣姫の到達点そのものだった。
セリアが三拍子のリズムで一歩踏み込み、手首を半ミリだけ手前に引きながら細剣を振るうたび、空気の摩擦音すら立てない白銀の軌跡が、蒼炎精霊の燃え盛る炎の隙間を縫って、中心で高速回転している『直径三センチの炎核』の結晶軸だけを斜め四十五度に正確無比に撫で斬っていく!
――パリン、パリン、パリン、パリン、パリンッ!!
まるで極上のガラス細工が涼やかな風鈴の音を立てて弾けるかのように。
一閃で五体、二閃で十二体、三閃で二十五体!
セリアは周囲の氷壁を1ミリも傷つけず、また減圧バルブの蒸気の気流を一切乱すこともなく、ただ基本の足運びと斜め四十五度の引き斬りだけを舞うように繰り返した。
そして、わずか四十秒後。
セリアが白銀の細剣をくるりと返し、親指の腹で鍔をコンマ二秒だけ撫でて「チャリン」と鞘へ収めた瞬間――
彼女の背後で、百八体すべての蒼炎精霊の炎核が一斉に綺麗な氷の結晶となって砕け散り、キラキラと輝く無害な魔力の粉雪となって渓谷へと降り注いだのである!
「「「う、うおおおおおおっ!! す、凄すぎるぞセリア団長ぉぉっ!!」」」
第55層のA級騎士たちが歓喜の咆哮を上げ、地下3階の最高作戦司令室でも、そのあまりにも美しく完璧な剣舞に全員が言葉を失って見惚れていた。
「見たか、今のセリア団長の太刀筋を……!」
中層第27層のスクリーン越しにその映像を見ていたB級リーダーのガレスが、震える声で呟いた。
「俺たちがさっき使った『三点歩法』と『斜め四十五度の半ミリ引き斬り』と、原理はまったく同じ基礎だ……! だが、あの基礎を十年間、1ミリの妥協もなく極め続けると、スキルを一つも使わずにA級精霊百体を四十秒で無音殲滅できる領域にまで辿り着けるのか……!!」
そして浅層・第5層のスクリーン越しに見ていたE級『灯火』のカイ、ピノ、ミアの三人も、目をキラキラと輝かせて自分たちの木槍と短剣を見つめた。
「す、すごい……! あの大陸最強の《氷華の剣姫》セリア様が今使った技、俺たちが第1講でロウ先生に一番最初に教わった『ゴブリンの鎖骨を斜め四十五度に突く基礎』の延長線そのものなんだ……!」
「うんっ! つまりボクたちも、先生の教えてくださった基礎を毎日コツコツ続けていけば、いつかセリア様みたいに綺麗に戦えるようになるってことだよ、カイ!」
初級と中級の探索者たちが、自分たちが今学んでいる「泥臭い基礎」の果てにある究極の頂を目撃して胸を熱くする中、司令室のノエルも感動で瞳を潤ませながら、セリアの映像の下にリアルタイムで魔導光字幕を添えた。
『【S級実演・解説】セリア団長の無音百連斬りも、基本は「第1講の斜め四十五度」「第3講の三拍子呼吸」「第4講の半ミリ引き斬り」の3つだけです! 基礎に初級もS級もありません!』
画面の中のセリアは、舞い散る氷の結晶の中でカメラに向かって振り返ると、氷の女帝の仮面を忘れて満面の笑みを咲かせた。
「――先生、ご覧になってくださっていますか!? これが、先生が十年前、泣き虫だったセリアに授けてくださった一番大切な基礎ですわ! 第55層の減圧バルブ、この一番弟子が指一本触れさせずに守り抜きました! 帰ったらまた、たくさん頭を撫でてくださいねっ!」
誇らしげに胸を張り、見えない尻尾をブンブンと振る大陸最強の剣姫の姿に、第55層のA級騎士たちも司令室の面々も思わずほっこりと頬を緩めた。
浅層・第5層、中層・第27層、そして深層・第55層。
三つの階層の減圧バルブがすべて全開となり、押し寄せた魔物の群れも、ロウの教えを受け継いだ三世代の弟子たちによって【被害ゼロ】で完全に制圧された。
だが、その時。
司令室のコンソールを見つめていたノエルとクラリス教授の二人が、画面の隅に映し出されていた「もう一つのカメラ」――単独で最深部・第65層のシャフト最底部へと降りていったロウ・ヴァルハイトに同行している『3号機カメラ(チビ)』の中継映像に気づき、同時に息を呑んだのである。




