第040話:噴き出す硫化黒瘴気と、街を救った『おまけ動画の炭袋』
――ブシュゥゥゥゥゥーーーッ!!
第5層、第27層、第55層の緊急減圧バルブが開いた瞬間、三百年前の排気ルーバーの奥から噴き出してきたのは、卵が腐ったような強烈な硫黄臭と、金属をも溶かす強酸性の魔力を帯びた黒紫色のガス――【高濃度・硫化魔瘴気】の奔流だった!
大部分のガスは壁の裏にある古代の予備排水路へと流れていったものの、三百年分の圧力は凄まじく、開門作業を行っていた各階層の制御室や周辺の北側回廊にも、濃い黒紫色の瘴気が逆流してなだれ込んできた。
「うわあっ!? な、なんだこの黒い煙は! ギルド支給の高級防毒魔導具の銀フィルターが、一瞬で真っ黒に錆びて溶けちまったぞ!!」
第27層の後方で待機していた他クランのC級探索者が、悲鳴を上げて顔面の金属製魔導マスクをかなぐり捨てた。
この世界の一般的な防毒魔導具は、銀や銅の魔力網で通常の毒霧を弾く構造になっているため、深層の熱脈から噴き出す強酸性の『硫化水素系・魔瘴気』に触れると、一瞬で化学反応を起こして腐食し、機能を失ってしまうのだ!
「き、危険よ!!」
地下3階の司令室でモニターを見ていたクラリス教授が、血の気の引いた顔で叫んだ。
「あの硫化魔瘴気は、銀フィルターを腐食させるだけじゃないわ! 吸い込めば肺を焼き、皮膚に触れるだけでも神経毒として作用して手足の筋肉を硬直させるの! もし前衛の足が止まったら、熱から逃れてシャフトの周りから這い出してくる魔物の群れに押し潰されてしまうわ!!」
だが――その絶体絶命の黒煙の中で、ロウの『緊急特別講』を最後まで見ていたカイたちも、ガレスたちも、そして後続の何百人もの探索者たちも、誰一人として慌ててはいなかった。
「――金属マスクは捨てろ!! 先生の言いつけ通り、ミアちゃんたちの屋台で配られた『水で湿らせた消臭炭袋』を口と鼻に当てて、二重猟師結びの紐で頭の後ろに縛るんだ!!」
第27層でガレスが野太い声で号令を飛ばし、第5層でもカイとミアが「皆さん、炭袋を口元に当てて、三拍子でゆっくり呼吸してください!」と声を張り上げた。
探索者たちが一斉に口と鼻を覆ったのは、銀貨何十枚もする高級魔導具ではない。
ロウが第5講のおまけコーナーで「体臭消しや水筒の浄水に便利だから作っておくといいぞ」と作り方を教え、ミアとピノが夜なべして何百個も縫い上げた、あの【第4層の魔石灰と、焚き火の消し炭を1対2で詰めただけの木綿の小袋(銅貨二十枚)】だった!
黒紫色の硫化魔瘴気が、探索者たちの口元の炭袋を通過した、その瞬間――
シューッ……と微かな中和音が鳴り、猛毒の黒煙が探索者たちの口の中に届く頃には、驚くべきことに無色透明で無害な、ほんのり温かいだけの綺麗な空気へと100%濾過されていたのである!
「す、すげぇぇっ!! あんなに目が痛くなるくらい臭かった硫黄の毒煙が、この湿らせた炭袋を通して吸うと、全然匂わないどころか、甘くて綺麗な空気になって入ってきやがるぞ!!」
「金属が溶けるような酸のガスなのに、どうしてこんなただの炭と白い粉の布袋で完全に防げるんだ!?」
探索者たちが驚きと歓喜の声を上げる中、司令室でその光景を見ていたクラリス教授は、自分の額をペチン! と平手で叩いて唸った。
「……参ったわ、完全にヴァルハイト室長の勝ちよ! 強酸性の『硫化水素ガス』と『魔瘴気』は、金属には反応して腐食させるけれど、アルカリ性の『消石灰(第4層の魔石灰)』に触れると化学反応で一瞬にして無害な石膏と水に中和されるの! さらに、第2講の焚き火で作った『多孔質の木炭(活性炭)』の無数のミクロの穴が、残った臭気と毒粒子を物理的に100%吸着してしまう……! どんな高価な魔導具よりも、この『湿らせた魔石灰と消し炭の袋』こそが、硫化魔瘴気に対する科学的に完璧なガスマスクだったのよ!!」
しかも、奇跡はそれだけではなかった。
バルブの開門によって煙突内部の圧力が抜けたことで、これまで北壁の亀裂の中に潜んでいた無数の魔物たち――第5層では凶暴化した『狂乱大蝙蝠』や『酸吐き大蜘蛛』、第27層では『紅蓮甲殻虫』の群れが、煙とともに通路へと飛び出してきたのだが……
「お、おい見ろ! 黒い煙に皮膚が触れてるのに、俺たちの手足、ちっとも痺れてねぇぞ!?」
「あ、当たり前だろ! 出発前に先生が言った通り、みんなで『岩毒トカゲの無毒化燻製ジャーキー』を二枚ずつ食ってきたからな! トカゲの肉に含まれる微量の抗麻痺成分のおかげで、痺れガスも蜘蛛の麻痺糸もまったく効かねぇんだ!!」
第5層の最前線で、カイが木槍を斜め四十五度に閃かせて大蜘蛛の鎖骨を一撃で突き抜き、ピノが音もなく背後に回って短剣で止めを刺し、ミアが落ち着いた声で後続パーティーの陣形を指揮する!
「さらに皆さん、照明弾を壁の隙間に撃ち込んで、煙の中の視界を確保してください! ガンツ親方が作ってくださった『逆棘付きの固定金具』を使えば、高圧蒸気の突風が吹いても絶対に照明が飛ばされません!」
ミアの指示に従い、若手探索者たちが先日ガンツ親方が開発した『逆棘付きの照明弾固定金具』を北水路の岩の割れ目へと次々に打ち込んだ。
ガチン、ガチンッ! と楔のように食い込んだ金具は、排気口から噴き出す秒速三十メートルの黒煙の暴風にもビクともせず、眩い白光を放って煙の中の魔物のシルエットをクッキリと浮かび上がらせた!
「す、すげぇぞ!! 炭袋のおかげで息は苦しくないし、ジャーキーのおかげで手足は軽いし、ガンツ親方の金具のおかげで黒い煙の中でも魔物の動きが丸見えだ!!」
「『灯火』のカイくんたちに続け! 松明は腰の斜め後ろ、三拍子の呼吸で一体ずつ鎖骨を突くんだ!!」
かつてはゴブリン数匹にすらパニックになっていた浅層の若手パーティー二十組・八十四名が、カイたち『灯火』の三人を中心に一糸乱れぬ陣形を組み、噴き出す黒煙と魔物の群れを面白いように次々と無傷で討伐していく。
「すごいわ……っ!」
司令室の首席査定官ヴェロニカが、次々と更新される各階層の被害報告(負傷者ゼロ・中毒者ゼロ)の帳簿を抱きしめて、感極まった声を上げた。
「第2講の『燻製ジャーキー』で麻痺を防ぎ、第3講の『ハッカガム』で即死の眠り胞子を防ぎ、第5講の『消臭炭袋』で強酸性の硫化瘴気を100%濾過し、さらにガンツ親方の『逆棘金具』で暴風の中の視界を確保する……! ヴァルハイト室長がこれまで『ちょっとした小遣い稼ぎのおまけ』として教えてくださった安価なサバイバル食と日用品の数々が、すべて噛み合うことで、どんなS級防具にも真似できない【完全無欠の対災害バイオハザード装備】として完成していたなんて……!!」
ギルドマスターも将軍たちも、もはや言葉すら出ず、ただ画面の中で一人の脱落者も出さずに浅層を守り抜くカイたち若手探索者の勇姿に目頭を熱くしていた。
一方その頃、中層・第27層の制御室前と、深層・第55層の氷結渓谷でも、さらに激しい魔物の波がガレスたちとセリアの前へと押し寄せていた!




