第038話:オペレーション開始! ピノのくしゃみと『夢喰い胞子』の完全無力化
午前六時、夜明けとともに迷宮都市アーク・バベルのギルド本部1階ロビー、および全階層のベースキャンプに設置された巨大魔導投影盤に、ロウ・ヴァルハイトの『緊急特別講』が一斉に映し出された。
もし通常のギルド上層部が「あと数時間で迷宮が水蒸気爆発を起こす!」とだけ発表していたら、街中がパニックに陥り、逃げ惑う市民と探索者で暴動が起きていたに違いない。
だが、画面の中から語りかけるロウの「おはよう、みんな。まずは三拍子の呼吸をしよう」「今日は煙突の底に亀が詰まったから、みんなで窓を開けて換気をするだけだ」という穏やかで具体的な解説と、ノエルが編集した分かりやすい図解字幕は、数千人の探索者たちの恐怖を瞬く間に「よし、俺たちが先生の教え通りに換気して街を守ろうぜ!」という冷静な使命感へと変えていった。
そして午前八時。
水蒸気大爆発のタイムリミットまで、残り六時間。
第5層の減圧バルブを目指す初級パーティー『灯火』(カイ、ピノ、ミア)と若手探索者二十組、第27層を目指す中堅B級『白銀の轍』(ガレス、エレン、ボルク)とC〜B級選抜隊、そして第55層を目指すS級『蒼穹の旅団』(セリア率いる第一大隊)が、それぞれの階層へと一斉に突入を開始した。
地下3階の『最高作戦司令室』では、補佐官のノエル、学術院のクラリス教授、首席査定官のヴェロニカ、そしてギルドマスターたちが、各部隊に持たせた中継用の小型記録水晶の映像と音声を、壁一面のマルチスクリーンに映し出して固唾を呑んで見守っていた。
(なお、総指揮官であるはずのロウ・ヴァルハイト本人は、「俺はちょっと第65層の亀の様子を見てくるから、地上との通信指揮はノエルとクラリス教授に任せたよ」と、愛用の『3号機カメラ(チビ)』だけをお供に連れて、いつの間にかふらりと単独で深層へと降りていってしまっていた!)
「――こちら浅層・第一突入班リーダー、『灯火』のカイ! 現在、若手パーティー二十組・計八十四名とともに、第5層の北側旧水路ルートを進行中! 全員、靴底の『鉄喰い苔ゴム』と『二重猟師結び』よし! 脱落者ゼロです!」
スクリーンの左側に、第5層の湿った石畳を軽快な『三点歩法』で進むカイ、ピノ、ミアたちの頼もしい姿が映し出される。
わずか五日前までは第3層のゴブリンに怯えていた彼らが、今や八十名を超える若手探索者たちの先頭に立ち、見事な手本となって部隊を率いていた。
だが、彼らが第5層の『古代安全避難室(減圧バルブ室)』の手前百メートルにある北側分岐路へ差し掛かった、その時だった。
「――あっ! カイ、ミア、止まって!!」
先頭を走っていた山猫獣人の斥候少女・ピノが、三角の獣耳をピクリと逆立て、自分の鼻を両手で押さえて急停止した。
「くしゅんっ!! ……っ、来たよカイ! 前の北壁のひび割れから、おととい第3層で嗅いだのよりも何十倍も濃い『甘い桃のお花の匂い』が、白い湯気と一緒にモワモワ流れてきてる!!」
ピノの警告と同時に、中継カメラの魔力センサーが激しい警告音を鳴らし、司令室のコンソールで波形を見ていたクラリス教授が悲鳴のような声を上げた。
「きゃああっ!? な、なんて濃度なの!? カイくん、ピノちゃん、今すぐ引き返して!! さっき第65層のシャフトの底で小規模な蒸気噴出が起きて、第60層から致死濃度のS級寄生植物【夢喰い胞子】が第5層の通路にまで一気に逆流してきているわ!! その濃度の胞子を吸い込んだら、中層で全滅した熟練パーティーと同じように、十秒で脳の快楽中枢を麻痺させられて、全員笑顔のまま眠って窒息死しちゃうわよぉぉっ!!」
司令室のギルドマスターや将軍たちが「な、なんだと!? 第5層の若手八十四名が全滅するぞ!!」と真っ青になって立ち上がった。
事実、通路の奥から噴き出してきた淡い桃色の水蒸気は、逃げ場のない一本道の回廊を秒速十メートルの速さで満たし、瞬く間にカイたち八十四名の部隊をすっぽりと包み込んでしまった!
「あ、ああっ……カイくん、ミアちゃん……っ!!」
クラリス教授が顔を覆いかけた、その次の瞬間だった。
桃色の濃密な胞子霧のど真ん中に立たされたカイ、ピノ、ミア、そして後続の若手探索者八十四名は――誰一人として倒れるどころか、目をトロンとさせることすらなく、全員で一斉に奥歯を「ギュムッ、ギュムッ!」と力強く噛み締めたのである!
「――大丈夫です、クラリス教授! 俺たち八十四名全員、出発した時からロウ先生の言いつけ通りに『苦いハッカ樹皮のガム』を奥歯で噛み続けてますから!!」
画面の中のカイが、ハッキリとした力強い声で親指を立てて見せた。
「ほ、ほんとだっ!」とピノも目をパチパチさせて自分の頬を叩いた。「桃の甘い匂いはすごくするのに、口の中のハッカと苦木の渋い汁が喉の奥でパチパチ弾けて、頭が眠くなるどころか、むしろすっごく目が冴えてスッキリしてるよ!!」
「私もです!」とミアも笑顔で頷いた。「先生の『緊急特別講』の通り、苦木のアルカロイド成分が喉の粘膜を完全に守ってくれています! 後続の二十パーティーの皆さんも、誰一人として眩暈や眠気は出ていません!」
「「「な……っ、なんだってぇぇっ!?」」」
司令室のクラリス教授とギルドマスター、そして騎士団の将軍たちの顎がガクンと外れそうになった。
「ば、馬鹿な……っ!? あの即死胞子を、道端の樹皮で作ったガム一つで受け流したというのか!?」
「あり得ん……王国の宮廷調合師が何ヶ月もかけて作る高価な解毒薬ですら、気休め程度にしかならん凶悪な胞子だぞ!?」
本来ならA級の熟練冒険者ですら、高価な対状態異常の聖遺物なしでは十秒で昏睡死するはずの深層第60層のS級即死災害『夢喰い胞子』。
その悪魔のような無音の殺し屋が、五日前にピノが「くしゅん!」とくしゃみをした時の雑談からロウが作った『銅貨三十枚の苦いハッカガム』ひとつによって、新米八十四名に対して【完全無力化(無効化率100%)】されてしまったのである!
「ふふ、驚くのはまだ早いですわ!」
ヴェロニカが眼鏡の位置を指先で直しながら、誇らしげに胸を反らした。
「室長のサバイバル術は、単なる知識ではなく『現場で誰もが今すぐ実践できる技術』の集大成。高価な魔法薬が届かない辺境でも、知恵と観察眼さえあれば命を拾える――これこそが真の迷宮学ですわ!」
「しかも見てください、ヴェロニカ様!」
ノエルが中層・第27層の中継スクリーンを指差した。
そこでも、B級『白銀の轍』のガレス、エレン、ボルク率いる中層突入部隊が、同じように噴き出してきた桃色の胞子霧の中を、全員で『苦いハッカガム』を噛みながら一歩も止まらずに突破していく姿が映し出されていた。
『こちら第27層・中層突入班のガレスだ! 先生のハッカガムのおかげで、夢喰い胞子の霧を完全無傷で突破し、たった今、第27層の減圧バルブ室の前に到着した! これより開門準備に入る!』
『こちら第55層・深層突入班のセリア・アークライト! 私たちの部隊も全員ハッカガムを噛んで胞子を無効化し、氷結渓谷の古代祠のバルブ前に到着いたしましたわ! いつでもいけます!』
浅層・中層・深層の全三階層から次々と飛び込んでくる「被害ゼロ・予定通りバルブ前へ到着!」の報告。
無線機を手にしたロウは、静かに頷くとマイクへ向かって声を届けた。
「全員、よく突破してくれた。だが油断するなよ。バルブを開ければ、溜まった圧力が一気に抜ける。教えの通り、足場と呼吸を乱すな」
『了解っ!!』
五日前のある少女の小さな「くしゃみ」を見逃さなかった老教官の観察眼が、今、数百人の探索者たちの命を救い、三百年ぶりの全階層同時バルブ開門へと王手をかけたのだった!




