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第037話:出撃前夜の交差点 〜折れた笛、亡き兄の呼吸、そして欠けた短剣〜

大換気オペレーション決行まで、残り十時間。

 深夜二時を回ったギルド地下3階の『安全講習・映像資料室』には、明日の朝一番でそれぞれの階層(第5層・第27層・第55層)へ先陣を切って突入するカイ、ガレス、セリア、そして補佐官のノエルと鍛冶親方のガンツだけが残っていた。


 部屋の奥の作業机では、ロウ・ヴァルハイトが明日の作戦で「念のため自分も第65層のシャフトの様子を見に行くから」と、使い込まれた革の道具袋の中身を静かに点検していた。

 そこへ、ドワーフ混血の鍛冶親方ガンツが、白布に恭しく包まれた細長い木箱を両手で抱え、いつになく神妙な面持ちで歩み寄った。


「……大将。明日の朝、あんたが一人で一番深い第65層の底へ様子を見に行くつもりだってのは、俺にはお見通しだ。だからよ……十五年間、俺の工房の神棚で預かっていた『こいつ』を、本来の持ち主であるあんたに返しに来たぜ」


 ガンツ親方が木箱の蓋を開けると、そこには黒銀色の美しい刀身を持ちながら、先端から三センチほどの片刃が鋭く欠けた一振りの業物――十五年前の『第7救難作戦』の折り、第48層の崩落現場でガンツの首を鉄喰い百足の牙から救い、そのまま岩盤の隙間に残された【片刃が欠けたミスリル鋼の短剣】が収められていた。


「ガンツ親方……まだそいつを持っていてくれたのかい。もう十五年も前のことなのに、綺麗に研いで油まで差してあるじゃないか」


 ロウは懐かしそうに目を細めると、自分の腰のベルトの左側に吊るされていた「一番古びた空の革鞘(これまで一度も中身が入っていなかった鞘)」の留め具を外し、ガンツから受け取った『片刃の欠けた短剣』を、スッ……とその鞘へ滑り込ませた。


 ――チャリン。

 十年間セリアが忘れなかったあの澄んだ金属音とともに、短剣の鍔(つば)と古い革鞘の口金が、1ミリの隙間もなく完璧に噛み合った。

 それどころか、ロウが一度その短剣を抜き放ち、腰の解体小刀と重ね合わせてみると、解体小刀の峰に刻まれていた古い製造刻印と、欠けた短剣の刻印がピタリと対(つい)になって重なったのである!


「……やっぱり、あんただったんだな、大将」


 ガンツ親方の厳つい目から、大粒の涙がボロボロと髭を伝ってこぼれ落ちた。


「十五年前、第48層の毒ガスの中で動けなくなった俺に、自分の解毒薬とハッカのガムを全部押し込んで、背中を叩いて地上へのリフトに乗せてくれた片目の斥候隊長……! あんたがあの時『鍛冶屋なら、俺の代わりに何百人もの命を守る盾を打て』って言ってくれたから、俺は今日までハンマーを捨てずに生きてこられたんだ……! 生きててくれて……また俺の作った金具を使ってくれて、本当にありがとよ、隊長ぉぉっ!!」


 ガンツ親方が床に両膝をつき、子供のように声を上げて男泣きする。

 だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。


 ロウが短剣の礼に「ガンツ親方、お礼に替えの砥石を渡しておこう」と革の道具袋の奥から予備のポーチを引き出した瞬間――そのポーチの紐に結ばれていた『小さな真鍮の金属片』が、魔導ランプの光を受けてキラリと輝いたのだ。

 それを見た瞬間、初級パーティー『灯火』の少年カイが、弾かれたように立ち上がり、自分の首から下げていたお守りを引っ張り出した。


「あっ……!? せ、先生っ! 先生のそのポーチについている、ギザギザに折れた真鍮の吹き口って……!」


 カイの震える指先に握られていたのは、十年前、北部の炭鉱崩落事故で当時六歳だったカイを瓦礫の下から掘り出し、自分の酸素と真鍮の警笛を握らせて暗闇の中へ消えていった「名もなき老探索者」の形見――【先端側半分だけの、折れた真鍮の笛】だった。

 そして今、ロウの古いポーチの紐に結ばれていたのは、間違いなくその警笛の【根元側半分(吹き口)】だったのである!


「カイくん、その笛……まだ大事に持っていてくれたんだな」


 ロウが優しく微笑んでポーチの根元側を差し出し、カイが震える手で自分の先端側を合わせると――十年間別々だった二つの真鍮の破断面が、『カチリ』と吸い付くように音を立てて一本の完全な警笛へと戻った。

 金属の表面に刻まれていた古い教導隊の紋章が、ぴったりと一つに重なり合う。


「う、うわぁぁぁっ……!! やっぱり、あの時炭鉱の底で俺に『三拍子で息を吐けば、暗闇でも絶対に怖くないぞ』って教えてくれたおじいちゃんは、ロウ先生だったんですねぇぇっ!! 俺、あの時のおじいちゃんみたいに誰かを守れる探索者になりたくて、この街に来たんです……っ!!」


 カイが涙を拭いもせずにその場に膝をつくと、隣にいた中堅B級『白銀の轍』のリーダー・ガレスと、補佐官のノエルまでもが、堰を切ったように両膝をついて頭を下げた。


「先生……っ! 私も昨日、先生の『三拍子の呼吸』と『小指を締める剣筋』を見た時から、もしやと思っておりました!」とガレスが涙声で叫んだ。「十五年前の第7救難作戦で、私の亡き兄・クライヴが所属していた【特別救難斥候隊】の隊長であり、兄が最期まで『我が師』と仰いでいた伝説の無天賦の英雄……それこそが、ロウ・ヴァルハイト先生ご本人だったのですね!! 兄の遺品の手帳に書かれていた『基本を忘れるな、先生の呼吸を思い出せ』という言葉が、今の今まで私の命を繋いでくれていました……!」


「そ、そして十年前、第15層の落盤事故で泣いていた幼い私と父を、3号機のレンズの光を見つけて真っ先に掘り出してくださったのも……!」とノエルも丸眼鏡の下から大粒の涙をポロポロとこぼした。「お父さんが亡くなる前に『いつか3号機が、あの時の灰色の外套の恩人にもう一度引き合わせてくれる』って言っていたのは、室長のことだったんですね……っ!!」


 傍らで腕を組んでいたガンツ親方も、熱いものが込み上げたように目頭を荒っぽく拭い、懐から取り出した小さな革袋を神棚の短剣の横へとそっと並べた。

「大将……十五年前、あんたが第48層で身代わりになって折っちまったその短剣の『切っ先』、俺はずっと肌身離さず持ってたぜ。いつかあんたが戻ってきたら、もう一度打ち直してやろうと思ってな」


 十五年前の第48層。十年前の北部炭鉱。そして十年前の第15層と、辺境の訓練所。

 かつて迷宮の暗闇の中で、名も告げず、見返りも求めず、ただ目の前の小さな命を救うためにすべてを投げ打った一人の老兵が蒔いた「種」が、十数年の時を経て、今この地下資料室で一斉に花開いていた。


 セリアが誇らしげに胸を張り、濡れた瞳でロウを見つめる。

「先生の歩んできた道は、何一つ間違っていませんでしたわ。先生が助けた命が、いまこうして先生の背中を守るために集まったのですから」


 ガンツ親方、カイ、ガレス、ノエル、そして一番弟子のセリアまでが、ロウの前に一列に並んで膝をつき、最大の敬意を込めた『迷宮守の敬礼(右拳を左胸の心臓に当てる礼)』を捧げる。

 そんな教え子たちの姿を前に、ロウ・ヴァルハイトは少し困ったように、しかし世界で一番優しい師匠の顔で微笑み、一人ひとりの肩に温かい掌を置いていった。


「……顔を上げてくれ、みんな。俺があの時、君たちやガレスくんのお兄さんと交わした約束は、『いつか俺に恩返しをしろ』じゃない。『生き延びて、次は君たちの隣にいる仲間を生かして帰れ』だったはずだ」


 ロウは腰の鞘に収まった『片刃の欠けた短剣』の柄を軽く叩き、力強く言った。


「ほら、夜が明けるぞ。十五年前や十年前の続きをしようじゃないか。……今日も明日も、俺たちの目標はたった一つ。【生存率100%】で、全員で笑ってこの部屋へ帰ってくることだ!」


「「「はっ!! 先生(たいちょう)っ!!」」」


 涙を拭った五人の瞳に、もはや一抹の迷いも恐怖もなかった。


 こうして迎えた翌朝――迷宮都市アーク・バベルの歴史を塗り替える、運命の大換気オペレーションの火蓋が切られた。

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