第036話:古代碑文の解読 〜「先生の基礎」は初代迷宮守のマスターキーだった〜
「……た、ただの基礎技術じゃないって、どういうことですかクラリス教授!?」
撮影を終えたばかりの地下資料室で、カイやガレス、そしてギルドマスターのバルドたちが一斉にクラリス教授の手元を覗き込んだ。
ハイエルフの迷宮生態学者クラリスは、三日間徹夜した目のクマも忘れたかのように瞳をカッと見開き、カイたちが第5層の安全避難室から写し取ってきた『三百年前の古代神聖文字の碑文』と、ガレスたちが第27層の呪い回廊から持ち帰った『逆さまの塔の設計壁画』の二枚の羊皮紙を机の上に並べてバンッ! と叩いた。
「これを見なさい! 私はさっきまで、第5層の避難室にあった『真の礎(基礎)を修めし者のみ、斜め四十五度の穿ちにて閉ざされし扉を開かん』という碑文を、単なる精神論や武術の心得だとばかり思っていたのよ! だけど、第27層の設計壁画に刻まれていた三百年前の初代迷宮守の【緊急減圧バルブ・物理認証コード】の暗号文を、今のヴァルハイト室長の『緊急特別講』の動きと照らし合わせて解読してみたら……完全に一致したのよ!!」
「「「ぶ、物理認証コードぉぉっ!?」」」
ガレスとヴェロニカが驚愕の声を上げた。
クラリスは震える指で、碑文の第一行目から第三行目までを順番になぞりながら、興奮のあまり早口でまくし立てた。
「いい!? 三百年前にこの大迷宮『アーク・バベル(逆さまの塔)』を建造した古代魔導技師と初代迷宮守たちは、迷宮の心臓部である『北側・中央排気縦坑』の減圧バルブが、知能の高い魔物や敵国の工作員によって勝手に開閉されないよう、極めて精巧な三重の物理・魔力ロックを仕掛けていたの!
そのロックを解除するための『マスターキー(正規認証コード)』が、この碑文にこう記されているわ!
【第一の鍵(歩法認証)】:床の振動感知陣に魔力を一切漏らさず、踵・外縁・母指球の『三点』へ均等に体重を乗せ、無音にて接近せよ。
【第二の鍵(光学認証)】:扉および歯車の魔導受光器の前で、炎の光源を『無限(八の字)の軌道』にて三度揺らし、酸素の対流を起こせ。
【第三の鍵(打撃認証)】:三拍の呼気とともに、黒曜石の結晶軸が交わる鎖骨の継ぎ目へ、『斜め四十五度』の角度にて衝撃波を穿て!」
クラリスが読み上げた瞬間、地下資料室は水を打ったように静まり返った。
カイ、ピノ、ミアの『灯火』の三人。
ガレス、エレン、ボルクの『白銀の轍』の三人。
そしてS級剣姫セリアと、補佐官のノエル。
部屋の中にいた全員が、自分の手足に染み込んでいる「ここ四日間の記憶」を思い返し、全身に雷が落ちたかのような衝撃に震えた。
「ま、待ってください……っ!」
カイが自分の木槍と松明を見つめ、掠れた声で叫んだ。
「第一の鍵の『踵・外縁・母指球の三点歩法』って……俺たちが第1講と第5講で先生に教わった『絶対に転ばない・音を立てない歩き方』じゃないですか! 第二の鍵の『松明の八の字旋回』は、第1講の『風向きと酸素を確かめるための松明の振り方』だし、第三の鍵の『三拍子の呼吸と斜め四十五度の打撃』は、ゴブリンの鎖骨を突くために何百回も練習したあの動きそのものだ……!!」
「そうだ……!」と中堅B級のガレスも、自分の鉄剣の柄を握りしめて目を見開いた。「俺たちが第27層の『魔力無効化の呪い回廊』を突破できたのも、先生に教わった『三点歩法』と『三拍子の呼吸』が、三百年前の初代迷宮守の認証コードと1ミリも違わず一致していたから、床の呪いトラップが俺たちを『正規の管理者(迷宮守)』だと認識して起動しなかったんだ……!!」
クラリス教授はガバッと振り返り、部屋の奥でダビング作業を手伝いながらお茶を淹れていたロウ・ヴァルハイトを、まるで神話の生き証人を見るかのような目で指差した。
「ヴァルハイト室長っ!! 白状しなさい! あなたが『私は基礎しか教えられないロートルですから』なんて謙遜しながら、第1講から第5講まで新米たちに教えていたあの泥臭いサバイバル術の数々……あれは単なる初心者向けの護身術なんかじゃなく、三百年前の神話時代に迷宮を管理していた【初代迷宮守の秘伝・物理制御コード(マスターキー)】そのものだったんじゃないの!? それを『ゴブリンの倒し方』や『風の確かめ方』という誰でも毎日練習できる実用的な形に翻訳して、都市中の探索者の身体に最初から刷り込んでおくなんて……っ!!」
もしロウが最初から「これは三百年前の古代制御コードだから覚えろ」と言って教えていたら、新米も中堅も「そんな難しい儀式、実戦の役に立たない」と誰も真剣には練習しなかっただろう。
だが、「この角度で突けばゴブリンが一撃で倒れるぞ」「こう歩けば暗闇でも転ばないぞ」と毎日の探索で命を守る『生きた基礎』として教えたからこそ、今や迷宮都市の初級からS級までの何百人もの探索者が、意識せずとも三百年前の緊急減圧バルブを一発で開けられる熟練のマスターキー保持者へと育ち上がっていたのである!
「……いやあ、マスターキーなんて大層なものじゃないさ、クラリス教授」
全員の熱い視線を浴びたロウは、少し照れくさそうに目尻の皺を掻きながら、穏やかに笑って答えた。
「俺も若い頃に、俺の師匠から『迷宮で生き残りたければ、この歩き方とこの角度の突きだけは一生忘れるな』と手を取って教わっただけなんだ。三百年前の初代迷宮守の人たちも、きっと難しい暗号を作ろうとしたんじゃなくて、『基本に忠実で、迷宮の風と石の声を丁寧に聞く探索者』にだけ、いざという時の扉を開けられるようにしたかったんだろうさ。……だって、普段から基礎を大切にしている奴なら、緊急時でも絶対にパニックにならずにバルブを開けられるからね」
そのあまりにも自然体で、しかしどこまでも深い言葉に、ギルドマスターのバルドも、首席査定官のヴェロニカも、S級剣姫のセリアも、ただ言葉を失って深く頭を垂れた。
スキル至上主義に染まり、「古い基礎など無価値だ」と切り捨ててきた現代のギルドが閉ざしてしまった三百年前の安全装置を、辺境から来た無天賦の老教官が「一番優しい基礎講座」によって再び蘇らせたのだ。
「――お待たせしました、室長、ギルドマスター!」
そこへ、コンソールの前で作業を終えたノエルが、青白く輝く五十本の『緊急特別講・記録水晶』がぎっしり詰まった配送ケースを抱えて立ち上がった。
「全50本の高速ダビングと、1階ロビーおよび第50層ベースキャンプへの光通信配信準備、すべて完了しました! いつでも都市全域へ一斉配信できます!」
「よし、よくやったぞノエル。……ギルドマスター、明日の夜明けと同時に、すべての探索者へこの映像を届けてくれ。それとガンツ親方、明日の朝までに各階層へ向かう代表パーティーの装備点検を頼めるかい?」
「おうっ、大将にそこまで段取りを整えてもらって、俺たちが遅れを取るわけにはいかねぇ! ギルドの全連絡網を使って、今夜中に全クランへ徹底させるぞ!」
「工房の若い衆にはすでにハッパをかけてある! 夜明け前までに最高の一品を揃えておくぜ!」
ギルドマスターと将軍たち、そしてクラリス教授とヴェロニカが、それぞれの部署での徹夜準備のために慌ただしく資料室から飛び出していく。
そして、出撃前夜の静けさが戻った深夜の地下資料室に――十五年前の過去を繋ぐ「最後の来訪者」の足音が響いた。




