第035話:『緊急特別講:大崩落を生き抜くための、階層別バルブ開放と退避サバイバル術』
「――それじゃあ、本番いきますっ! 1号機・正面バストアップ、2号機・黒板の断面図ズーム、3号機・室長の手元と足元を自動追尾! 三、二、一……キュー!」
北側の中央排気縦坑が臨界水蒸気爆発を起こすまで、残り三十四時間。
深夜のギルド地下3階『安全講習・映像資料室』――もとい、先ほどギルドマスターから全権を委任されたばかりの『臨時最高作戦司令室』では、三機の浮遊撮影結晶が青白い魔力光を灯して静かにホバリングしていた。
そのレンズの前に立つのは、いつもと変わらぬ灰色の作業用コートを着て、手には白チョークと指示棒を持った退役教官ロウ・ヴァルハイトである。
部屋の壁際に控えるギルドマスターのバルドや都市防衛軍の将軍たちは、「こ、こんな都市滅亡の瀬戸際に、なぜ全軍への檄文ではなく『安全講習のビデオ撮影』などをしているのだ……!?」と脂汗を流して見守っていた。
だが、ロウがカメラに向かって穏やかに微笑み、静かなバリトンの声で第一声を発した瞬間――部屋の中にいたすべての者の呼吸が、すうっとロウのペースへと引き込まれた。
「おはよう、みんな。地下3階・安全講習室のロウだ。……今朝は、いつもより少しだけ早い時間にこの映像を流している。ギルドの警報板を見て驚いた人も多いと思うが、まずは慌てず、第3講で練習した通りに『三拍子の呼吸』をしてみよう。鼻からスゥ、スゥと二回吸って、口からハァーッと四拍かけて、肩の力を抜きながら吐き切る。……よし、いい呼吸だ。落ち着いて聞いてくれ」
画面の向こうでパニックになりかけているであろう何千人もの探索者たちの心拍数を、たった十秒で鎮めてみせる圧倒的な包容力と安心感。
ノエルはコンソールの前で丸眼鏡を光らせ、ロウの声に合わせて、画面の下部に大きく見やすい魔導光字幕をリアルタイムで浮かび上がらせていく。
『【緊急特別講・要点①】パニックは最大の敵! まずは「スゥ・スゥ・ハァーッ」の三拍子呼吸で、視野を180度に戻しましょう!』
「今日みんなに手伝ってもらいたいのは、恐ろしい魔王の討伐でも、死ぬ気で戦う特攻作戦でもない。三百年前から大迷宮の北壁の裏を通っている『大きな煙突(換気シャフト)』の底に、ちょっと大きな亀が潜り込んで蓋をしてしまったから、上から順番に窓を開けて、溜まった湯気を逃がしてやる――ただの【大掃除と換気作業】だ」
ロウは黒板の断面図に描かれた『北側垂直ライン』と、第5層・第27層・第55層の三箇所に付けられた二重丸を指示棒でトントンと叩いた。
「迷宮の構造と仕組みさえ分かれば、対処はいつも通りの『基礎』の延長でしかない。これから、浅層(第1〜15層)・中層(第16〜40層)・深層(第41〜55層)の三つのグループに分けて、明日の正午までに何をすれば100%安全に換気して帰ってこられるか、順番に説明するぞ」
ロウはまず、横に置かれた三つの現物――ミアたちの屋台でも売られていた『苦いハッカ樹皮のガム』、『魔石灰と消し炭の消臭袋』、そして『岩毒トカゲの無毒化燻製ジャーキー』を手にとってカメラの前に掲げた。
「第一に、今日迷宮に入るすべての探索者は、必ず出発前にギルド1階ロビーで無料配布されるこの三つの小袋を受け取ってくれ。
まず、北側の通路に入ったら、必ずこの『苦いハッカ樹皮のガム』を奥歯で噛み続けること。もし通路の奥から『熟れた甘い桃の花のような匂い』がしてきたら、それは第60層から湯気に乗って上がってきた眠り草の胞子だ。だが怖がることはない。この苦いガムの樹皮エキスが喉の粘膜にコーティングされていれば、胞子を吸い込んでも絶対に眠気は起きない。匂いに気づいたらガムを強く噛んで、風上(南側)へ二十メートル下がれば安全だ」
『【緊急特別講・要点②】北側通路では常時「苦いハッカガム」を噛むこと! 甘い桃の匂い=眠り胞子ですが、ガムを噛んでいれば100%無効化できます!』
「第二に、午前十時の合図で各階層の『換気弁』を開けた瞬間、煙突の中から少しばかり硫黄臭い黒煙(硫化魔瘴気)が噴き出す。高価な魔導マスクは酸で錆びてしまうから使わないように。代わりに、第5講のおまけで紹介したこの『魔石灰と消し炭の布袋』を水に少しだけ湿らせて、口と鼻をしっかり覆ってくれ。炭の細かい穴と魔石灰のアルカリ成分が、硫黄の毒ガスを100%ただの温かい水蒸気に変えてくれる。さらに、出発前に『岩毒トカゲの燻製ジャーキー』を二枚食べておけば、万が一皮膚が痺れガスに触れても、丸一日は絶対に身体が動かしづらくなることはない」
壁際で聞いていたギルドマスターのバルドは、あんぐりと口を開けて隣りのクラリス教授を見た。
「ク、クラリス教授……! あのガムと炭袋とジャーキーは、ヴァルハイト室長がここ数日、新米たちの小遣い稼ぎのために教えていた『おまけレシピ』ではなかったのか!? まさか、この大爆発の二大脅威である【夢喰い胞子】と【硫化魔瘴気】を両方とも無効化するための特効装備を、すでに三日前から都市中に流通させていたというのか!?」
「しっ、静かにしなさいバルド! 今ノエルちゃんが最高精度で録音しているのよ! ……でもその通りよ。もし今日ゼロから数千人分の防毒装備を作ろうとしても絶対に間に合わなかったけれど、すでにミアちゃんたちの屋台と商業ギルドに数千個単位の在庫と製造ラインが出来上がっているのよ!」
クラリスが興奮を抑えきれない小声で返す中、ロウの講義はいよいよ核心である『換気弁の開け方』へと移った。
「そして第三に、第5層の『安全避難室』を担当する初級パーティー、第27層の『北防衛回廊』を担当する中級パーティー、第55層の『氷結祠』を担当する上級パーティーのみんなへ。
それぞれの部屋の奥にある『緊急減圧バルブの歯車』は、三百年間の錆と水圧で固着していて、怪力スキルや攻撃魔法で無理やり回そうとすると軸が折れてしまう。……だが、開け方はみんながすでに第1講から練習してきた通りだ」
ロウは訓練用の木槍を手に取り、部屋の隅に置かれた模擬石柱の前に立った。
「まず、呪いや振動の罠を起動させない『かかと・小指球・親指球の三点歩法』で歯車の前へ近づく。次に、松明を『八の字』に三回ゆっくり回して、歯車の中心にある熱感知の魔導ロックを解除する。そして最後に、午前十時ちょうどの通信合図に合わせて、歯車の下にある『斜めのくさび石』の鎖骨にあたる継ぎ目を――肩の力を抜いて、斜め四十五度の角度で、槍の石突か槌で『三拍子の3拍目』に合わせてトン、と突くんだ」
――コンッ!
ロウが力を抜いた美しいフォームで模擬石柱を斜め四十五度に突くと、ノエルの編集によって画面上に鮮やかな緑色の角度線とタイミングゲージが表示された。
『【緊急特別講・要点③】バルブ開門の手順:①三点歩法で接近 ➔ ②松明を八の字に3回旋回 ➔ ③合図に合わせて「斜め四十五度・三拍子の3拍目」で要石を打撃!(※力任せは厳禁! 第1講のゴブリンの鎖骨突きとまったく同じ角度です!)』
「いいかい、みんな。怖い時は、自分の靴紐がちゃんと『二重猟師結び』になっているか、もう一度指で触って確かめてごらん。基礎をひとつずつ丁寧に守れば、迷宮は決して理不尽に君たちの命を奪ったりはしない。明日の夕方には、全員で一人も欠けずに戻ってきて、美味しい温かいスープを飲もう。……よし、気をつけて行ってらっしゃい」
ロウが穏やかに微笑んで小さく手を振ると、ノエルが「……はいっ、カット! バッチリです室長! これより全50本の記録水晶へ同時高速ダビングを開始します!」と力強く宣言した。
その直後。
地下資料室の一角で、先ほどから第5層の安全避難室の『古代碑文の拓本』と、今のロウの講義を交互に見比べていたハイエルフの学者クラリスが、ガタガタと震える手で古文書を取り落とし、裏返ったような悲鳴を上げたのである。
「う、嘘でしょう……っ!? ヴァルハイト室長、あんたが今やった『三点歩法』『松明の八の字旋回』『斜め四十五度の打撃』って……これ、ただの基礎技術なんかじゃないわよぉぉっ!!」
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