第033話:老教官のチョークが引いた「1本の垂直線」
壁一面に貼られた『大迷宮アーク・バベル・全階層断面図』の前に立ったロウ・ヴァルハイトは、いつもの講義をする時と少しも変わらない、静かで落ち着いたバリトンの声で語り始めた。
「みんな、これまで現在のギルドの地図で『別々の階層で起きた別々の異変』として見ていたから分からなかったんだ。……だが、俺が二日前から印をつけていたこの北壁の座標を、三百年前の初代迷宮守の設計基準に合わせて重ねてごらん」
ロウはまず、断面図の上部――カイたちが赤い苔とぬるま湯を見つけた『第3層・北側旧水路』の『×』印を指差した。
続いて、昨日第5層でカイたちが開けた『古代安全避難室』の換気孔の位置。
さらにその真下、ガレスたちが逆走する重甲殻虫と星砂を見つけた『第24層・北壁の亀裂』と、今日突破した『第27層・北防衛回廊』。
そして、セリアが蒸気火傷の氷嵐竜を討伐した『第55層・北側氷結渓谷』。
ロウは白チョークの先端を『第3層の北水路』に当てると、迷いのない手つきで、下へ向かって――
カツーーーッ!!
と、第3層から第24層、第55層、第60層を貫き、最下部の『第65層・地底大熱脈』へ至る【一本の真っ直ぐな垂直の直線】を一気に引き下ろした!
「「「ッ……!! い、一直線に並んだぁぁっ!?」」」
カイ、ガレス、クラリス、ヴェロニカの全員が、息を呑んで立ち上がった。
複雑な迷宮の別々の階層だと思われていた異常の発生地点が、断面図の上で、まるで定規を当てたかのように1ミリのズレもなく一本の垂直な縦線の上にピタリと重なったのである!
「これが、ガレスくんたちが第27層の壁画で見つけた三百年前の大動脈――直径二十メートル、全長数千メートルにわたって迷宮の北壁の裏側を垂直に貫いている『北側・中央排気縦坑』の正体だ」
ロウはチョークでその垂直線を軽く叩きながら、誰にでも分かる言葉で迷宮のカラクリを解き明かしていった。
「もともとこの大迷宮は、第65層の底にある『地底大熱脈』の熱エネルギーを使って、迷宮全体の魔力循環と空気の対流を起こす巨大な機関として造られている。普段なら、北街の地下水脈から流れ込んだ冷却水が、この垂直シャフトを通って第65層の熱脈を冷やし、発生した適度な水蒸気は、第55層・第27層・第5層にある『排気ルーバー(換気弁)』から少しずつ外へ逃がされる仕組みになっていたんだ」
「な、なるほど……!」とクラリス教授が目を見開いて叫んだ。「それで第55層の氷結渓谷の下や、第3層の旧水路にその排気口が繋がっていたのね! ……でも室長、どうしてここ数日で急に、そのシャフトから異常な高温蒸気や第60層の星砂、果ては『夢喰い胞子』までが逆流して噴き出すようになったの!?」
ロウの細い目が、断面図の一番下――『第65層』のシャフト最底部を鋭く射抜いた。
「原因は二つだ。一つは、三百年間の放置で第5層・第27層・第55層の『正規の排気ルーバー(換気弁)』がすべて錆びついて閉ざされたままになっていたこと。……そしてもう一つは、四日ほど前に、第65層のシャフトの一番底にあるメイン排出口へ、何か途方もなく巨大な魔物――おそらく甲羅の直径が三十メートルを超える深層の主『古代熔岩亀』あたりが冬眠のために潜り込んで、シャフトの底の出口を自分の甲羅で完全に塞いでしまったんだ」
「「「な……っ、なんだとぉぉっ!?」」」
ガンツ親方とボルクの顔からサッと血の気が引いた。
「底の排出口を巨大な熔岩亀に塞がれ、上の換気弁も三百年間閉まったまま……そこへ先日の秋雨と、今日の昼に北街の古井戸の水脈が崩れて大量の地下水が第65層の熔岩亀の上へ一気に流れ込んだ。……ガンツ親方、鍛冶場の密閉された鉄釜の中に、真っ赤に焼けた鉄塊と大量の水を入れて、蓋を溶接したらどうなる?」
「そ、そんなもん決まってらぁっ!!」
ガンツ親方が青い顔で叫んだ。
「逃げ場を失った高圧の水蒸気が鉄釜の中で膨れ上がって……最後には釜ごと木っ端微塵に吹き飛ぶ【水蒸気大爆発】を起こすぜ!!」
「その通りだ」
ロウは静かに頷いた。
「今、この大迷宮『アーク・バベル』の北側シャフトは、第65層から第1層までが丸ごと『爆発寸前の巨大な圧力鍋』になっている。カイくんが見つけた第3層の温かい赤い苔も、ガレスくんが見つけた第24層への虫の逆走と熱い星砂も、セリアが見つけた第55層の氷竜の蒸気火傷も、ヴェロニカさんが気づいた北側区画の火魔石の暴騰も――すべて、圧力鍋のわずかな隙間(亀裂)から噴き出している『破裂前の前兆』に過ぎないんだ」
「ま、待ってください先生!」
カイがハッとして、断面図の上の『第5層』と『第27層』の印を指差した。
「じゃあ、昨日俺たちが第5層の行き止まりの壁を斜め四十五度に叩いて開けた、あの『三百年前の安全避難室』って……まさか!?」
「よく気づいたな、カイくん」
ロウは我が意を得たりとばかりに微笑み、白チョークで『第5層・安全避難室』と『第27層・北防衛回廊』、そして『第55層・氷結渓谷の奥にある古代祠』の三箇所を大きな二重丸で囲んだ。
「三百年前の初代迷宮守たちは、もし将来この北側排気シャフトの底が詰まって圧力鍋になった時のために、浅層(第5層)・中層(第27層)・深層(第55層)の三箇所に、外敵から絶対に壊されない黒曜石の『安全避難室(制御室)』を造っておいたんだ。……カイくん、昨日あの第5層の避難室に入った時、部屋の奥の壁に『大きな歯車と、回すための四角い穴』がついていたのを覚えているかい?」
「あっ!! あ、ありました! ピノが『昔の井戸の巻き上げ機かな?』って言ってた、あの壁の大きな鉄の歯車……!」
「俺たちが今日突破した第27層の壁画の部屋の奥にも、まったく同じ形の巨大な黒曜石の歯車があったぞ!!」
カイとガレスが同時に声を上げた。
ロウはチョークでその二重丸をトン、と叩いた。
「そう。あの避難室はただの休憩所じゃない。シャフトの内部圧力が限界に達した時、上から順番に手動でルーバー(換気弁)をこじ開けて、高圧蒸気を安全な外部の予備水路へと逃がすための【緊急減圧バルブの操作室】だったんだよ。……俺が第1講で『斜め四十五度の打撃』を教え、ガレスくんたちに第27層の『三点歩法』を教えたのは、万が一俺の嫌な予感が当たっていた時に、それぞれの階層にいるみんなが自分の力でその『減圧バルブの部屋』まで辿り着けるようにするためだったんだ」
シィン……と静まり返った地下資料室で、十一名全員が全身の毛穴が開くような衝撃と感動に立ち尽くした。
ただの基礎練習だと思っていた『斜め四十五度の石突』も、第5層の安全避難室の発見も、第27層の呪い回廊の突破も、すべてがこの瞬間のために敷かれた布石だったのか!
E級の新人が拾った小さな「点」と、B級の中堅が拾った「点」、S級剣姫が拾った「点」、そして学者・職人・査定官が拾った「点」が、地下資料室の老教官が引いたたった一本の白チョークの線によって、都市存亡の危機という巨大な一つの真実(線)と、それを救うための唯一の希望へと完全に結びついたのである!




