第032話:深夜の地下資料室、すべての「点」が机の上に並ぶ
時刻は夜に入り、ギルド地下3階の『安全講習・映像資料室』には、張り詰めた静寂が満ちていた。
常に室温十八度・湿度四十パーセントに保たれたこの快適な石造りの部屋の中央で、使い込まれた大きな樫の木机の上には、魔導ランプの白い光に照らされて、これまで誰一人として関連があるとは思っていなかった「四つの異常の証拠」が一列に並べられていた。
一つ目は、初級E級パーティー『灯火』のカイ、ピノ、ミアが第3層の北側旧水路から持ち帰った【ガラス瓶に入った摂氏三十度のぬるま湯と、火属性蒸気で赤黒く変色した鉄喰い苔】。瓶の中の苔は今も微かな熱を帯び、通常の緑色の鉄喰い苔とはまったく異なる赤銅色の胞子を揺らしている。
二つ目は、中堅B級パーティー『白銀の轍』のガレス、エレン、ボルクが第24層の北壁から逆走してきた重甲殻虫の胃袋から取り出した【第60層から吹き上げられた温かい蒼い星砂】と、第27層で発見した【三百年前の逆さまの塔と北側縦坑の壁画拓本】。小皿の上の星砂は、まるで地下深くの鼓動に呼応するかのようにチカチカと蒼白い光を明滅させていた。
三つ目は、S級クラン『蒼穹の旅団』の団長セリア・アークライトが第55層の氷結渓谷から持ち帰った【高温の蒸気火傷を負った氷嵐竜の巨大な鱗】。絶対零度の魔力を秘めた蒼白い鱗の真ん中に刻まれた、痛々しい赤黒い蒸気火傷の爛れ。
そして四つ目は、首席査定官ヴェロニカと鍛冶親方ガンツが地上と浅層・中層全体から集めた【北側区画の火魔石の純度5倍暴騰グラフと、北街の古井戸の底で熱によって焼き切れた釣瓶の麻縄】である。
机の周りには、カイたち『灯火』の三人、ガレスたち『白銀の轍』の三人、S級剣姫セリア、迷宮生態学者クラリス、鍛冶親方ガンツ、首席査定官ヴェロニカ、そして記録技師ノエルの計十一名が顔を揃え、固唾を呑んでそれらのサンプルを見つめていた。
その背後では、三機の浮遊撮影結晶が音もなくホバリングし、この歴史的な作戦会議の一部始終を高精細映像として記録し続けている。
「……信じられないわ」
首席査定官ヴェロニカが、自分の真鍮製クリップボードを強く握りしめて震える声で呟いた。
「もし、四日前の私の査察でこの地下資料室が閉鎖されていたら……いえ、もしヴァルハイト室長が第1講のアーカイブから一貫して『迷宮の風と匂いを確かめなさい』『普段と違う小さな違和感を見つけたら、決して無理をせずサンプルを持ち帰って記録しなさい』と探索者たちに教えていなかったら、これらの異常はすべて別々の場所でバラバラに見過ごされ、誰の目にも留まらないまま闇に葬られていたはずですわ」
「まったくだな」とガンツ親方も重々しく頷いた。「駆け出しのカイ坊主たちが見つけた『ただの温かい赤い苔』も、ギルドの窓口に持っていったところで『ただの変種だろ』とゴミ箱に捨てられて終わりだったはずだ。中堅のガレスたちも、先生のアーカイブを見ていなけりゃ第24層の虫の胃袋なんか割らなかったし、S級のセリア嬢ちゃんも、第5講の映像を見なけりゃ五日後まで地上へ戻ってこなかった……」
「ええ」とセリアが凛とした声で引き継いだ。「普段なら、E級の新人と、B級の中堅と、私たちS級クラン、そして学術院の教授や街の鍛冶親方が、同じ机を囲んで情報を持ち寄ることなど絶対にあり得ません。ギルドの縦割り組織では、浅層の報告は浅層窓口で止まり、深層の報告は理事会の机で眠り、鍛冶街の井戸の異変など市政局の雑務扱いで一ヶ月放置されるのが関の山ですもの。……先生の『基礎アーカイブ』という一本の糸が、バラバラだった私たちの目と耳を、この地下資料室へと繋ぎ止めたのですわ」
「ほんとだよなぁ……」
カイが机の上の『赤い鉄喰い苔の瓶』を見つめながら、しみじみと呟いた。
「俺たち『灯火』なんて、四日前までは第3層のゴブリンに負けて解散寸前だったんだ。もしロウ先生の『第1講』と『第2講』を見ていなかったら、北水路の風の湿り気にも、水温がぬるいことにも気づけないまま、とっくに故郷へ帰っていたと思う」
「それは俺たち『白銀の轍』も同じだ、カイ」
B級リーダーのガレスが、カイの肩に大きな手を置いて頷いた。
「俺たちも、スキルと魔剣の火力に慢心して第24層で全滅しかけた。先生に『三拍子の呼吸』と『手首を半ミリ引く基礎』、そして『違和感を記録する観察眼』を叩き直してもらわなければ、あの逆走してきた重甲殻虫をただ斬り捨てて通り過ぎていたはずだ。胃袋の中の『蒼い星砂』に気づけたのは、間違いなく先生の教えのおかげだ」
新米から中堅、そしてS級までが、互いの階層の違いを超えて敬意を交わし合う。
だが――
十一名の視線が机の上の証拠に集まる中、ガレスが苦渋の表情で首を捻った。
「しかし、これだけの証拠が揃っても、まだ一番肝心なことが分からない。……なぜ第65層の熱気や第60層の星砂、そして即死毒の『夢喰い胞子』が、途中の階層を飛び越えて第55層や第24層、果ては第3層にまで同時に漏れているんだ? たとえば第10層や第15層、第30層のメインルートでは、そんな熱い蒸気なんて少しも報告されていないぞ。しかも、なぜ地上にあるガンツ親方の北街の井戸水までが、突然十メートルも下へ吸い込まれたんだ?」
「そうよ……」とクラリス教授も、第27層の壁画の拓本と現在のギルド公式迷宮図を交互に見比べながら頭を抱えた。「第27層の壁画には『北側・中央排気縦坑の底が塞がれれば、大蒸気爆発を引き起こす』と書いてあるけれど、現在のギルドの公式マップには、そんな第1層から第65層までを貫く縦穴なんてどこにも載っていないのよ! 三百年前の地殻変動で各階層の座標軸も少しずつズレているし、現在の地図のどこにその縦坑が隠されていて、なぜ特定の階層にだけ蒸気が漏れているのか、そして今その底で何が起きているのかが分からなければ、対策の立てようがないわ……!」
迷宮生態学の権威であるクラリスですら、現在の迷宮地図と三百年前の壁画のズレを前にして、決定的な答えを導き出せずにいた。
もしこのまま原因の場所が特定できなければ、いつ、どこで何が起きるかも分からないまま、都市全体が暗闇の中で破滅を待つことになる。
室内に重苦しい沈黙が落ちた。
――その時だった。
それまで一番奥の椅子(錆びた床ハッチの真上)に座り、ブリキのマグカップの珈琲を静かに飲み干したロウ・ヴァルハイトが、「コトリ」とカップを置いてゆっくりと立ち上がったのは。
「……いや。材料はもう、これで全部揃っているよ。カイくんたちも、ガレスくんたちも、セリアも、そしてヴェロニカさんとガンツ親方も、本当によくこれだけのピースを欠けさせずに集めてきてくれた」
ロウは優しい声で全員を労うと、片手に一本、太い白チョークを拾い上げ、部屋の壁一面に貼られた『大迷宮アーク・バベル・全階層断面図』の前へと歩み出た。
十一名全員の視線が、無言のままロウの背中と、白チョークを握る彼の右手へと吸い寄せられた。




