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第028話:剣姫が持ち帰った『蒸気火傷の氷竜鱗』と、『迷宮の突然死』

地下資料室の大きな木机の上に、セリアが持参した布包みが広げられた。

 中から現れたのは、大人の胴体ほどもある巨大な蒼白い鱗――深層第55層に生息するA級指定魔獣『氷嵐竜(フロスト・ワイバーン)』の腹部の鱗だった。

 しかし、本来なら絶対零度の冷気を帯びて鏡のように輝いているはずのその鱗の中央が、無惨に赤黒く爛(ただ)れ、焦げたような異臭を放っていたのである。


「……これを見てください、先生、クラリス教授」


 セリアは真剣な声で説明を始めた。


「昨日の朝、私たちが第55層の『北側・万年雪の氷結渓谷』で討伐した氷嵐竜の腹の鱗です。……皆様もご存じの通り、第50層から第58層にかけての深層上部は、一年中猛吹雪が吹き荒れる氷点下三十度の極寒階層で、しかもなぜか地上より空気が薄くて息苦しい『高山の万年雪地帯』のような環境になっています」


 セリアが何気なく口にした「地下55層なのに、空気が薄い高山の万年雪地帯のよう」という言葉に、さっき第27層で『雲を突き抜ける逆さまの塔の壁画』を見てきたばかりのガレスとエレンが、ハッとして顔を見合わせた。


「ところが、その氷点下三十度の氷結渓谷を縄張りにしている氷嵐竜が、昨日はなぜかパニックを起こしたように暴れ回っていました。討伐して死骸を調べたところ、腹部の鱗一面に、このような傷が見つかったのです。……クラリス教授、これが何による傷かお分かりになりますか?」


 ソファから立ち上がって机へ歩み寄ったハイエルフの学者クラリスは、拡大ルーペでその赤黒く変色した鱗の表面を覗き込み、数秒後にゴクリと息を呑んだ。


「……間違いないわ。これ、火魔法や溶岩に触れた火傷じゃない。摂氏百五十度を超える『超高圧・高濃度の火属性水蒸気』を、下方の岩の亀裂から至近距離で吹き付けられたことによる【高温の蒸気火傷(スチーム・バーン)】よ! しかも見て、鱗の隙間にこびりついているこの赤い微粒子……一昨日、『灯火』のカイくんたちが第3層の北水路から採ってきた『赤い鉄喰い苔』に付着していた火属性成分と、波長が100%一致しているわ!!」


「「「え……っ!?」」」


 カイ、ピノ、ミアの三人が同時に声を上げた。


「第3層の北水路と、第24層の北壁だけじゃなくて……第55層の氷の渓谷の『北側』でも、下から熱い水蒸気が噴き出して氷の竜が火傷してるんですか!?」


 カイの言葉に、セリアも驚いたように目を見開いた。


「まあ、第3層と第24層の北側でも同じような熱気の異常が起きていたのね……! そして先生、もうひとつ報告しなければならない不気味な異常がございます」


 セリアは懐から、ギルド深層調査部の極秘報告書を取り出して机に置いた。


「ここ一週間の間に、第35層から第48層にかけての『中層下部・北側ルート』に入った他クランの熟練パーティー三組・計十四名が、相次いで全滅体で発見されました。……異常なのは、その遺体の状態です。全員、防具にも身体にも魔物に襲われた外傷がひとつもなく、武器を抜いた形跡すらありません。それどころか、全員が壁際にもたれかかり、『まるで最高に幸せな甘い夢でも見ているかのような、穏やかな笑顔を浮かべたまま眠るように窒息死』していたのです」


 その報告を聞いた瞬間、地下資料室の温度が数度下がったかのような戦慄が走った。

 外傷ひとつなく、武器も抜かず、笑顔で眠るように全滅する『迷宮の突然死』。


「……ただ、生き残った後続の斥候が一人だけ、奇妙な証言を残していました」とセリアは続けた。「その現場の近くの北壁の風穴から、中層には絶対に咲いていないはずの『熟れた甘い桃の花のような匂い』が、かすかに漂っていた、と……」


「――あっ!!」


 山猫獣人の少女・ピノが、両手で自分の鼻を押さえて飛び上がった。

 B級『白銀の轍』のエレンとガレスも、血の気が引いた顔でポーチの中の『黒いガムの小袋』を握りしめた。


「あ、あの匂いだ……! ボクが第3層の北水路で『くしゅん!』ってくしゃみが出た時の、甘い桃のお花の匂い……!」

「昨日、私たちが第24層の北壁の亀裂の前で嗅いだ匂いも同じよ! あの時、ロウ先生に言われた通りにすぐ息を止めて、先生から頂いた『苦いハッカ樹皮のガム』を噛んで風上へ逃げたから何ともなかったけれど……もしあのままあそこに立っていたら、私たちも笑顔のまま眠って死んでいたっていうの!?」


 エレンの震える声に、クラリス教授が自身の古文書ファイルをめくり、顔面蒼白になって叫んだ。


「ま、待って……! 『甘い桃の花の芳香』『外傷なく笑顔で眠るように死ぬ』……そして『苦木(にがき)とハッカの樹皮成分による粘膜中和』……! まさか、深層第60層以深の熱帯樹海層の最奥にしか生息しない、S級災害指定の即死寄生植物【夢喰い胞子(ドリーム・イーター)】が、水蒸気気流に乗って上層まで逆流してきているっていうの!? あれは吸い込んで三分以内に苦木のアルカロイド成分で中和しないと、脳の快楽神経を麻痺させられて、眠ったまま呼吸が止まる無音の殺し屋よ!!」


 クラリスはバッと顔を上げ、机の奥に座るロウ・ヴァルハイトを信じられないものを見る目で指差した。


「ちょっとヴァルハイト室長!! あなた、おとといピノちゃんが『第3層で甘い桃みたいな匂いがしてくしゃみが出た』って雑談したのを聞いた瞬間、その正体が第60層の【夢喰い胞子】だって見抜いて、中和剤の『苦いハッカ樹皮ガム』をみんなに配り始めたの!? それどころか、昨日のうちにミアちゃんたちの屋台で、都市中の探索者に銅貨三十枚で普及させておくなんて……あなた、どれだけ先まで見えているのよ!?」


「いやなに、昔ちょっと第60層あたりを歩いた時に、その甘い匂いに危うく昼寝をさせられかけたことがあってな。『念のため』にガムを噛んでおいてもらえば、眠気覚ましにもなって一石二鳥だと思っただけだよ」


 ロウは穏やかに笑って茶をすすったが、ガレスもカイもヴェロニカも、背筋に走る感動と畏怖の鳥肌を止めることができなかった。

 ピノの「くしゅん!」というたった一つのくしゃみと、ロウの何気ないガムの配布が、すでに『灯火』と『白銀の轍』、そして屋台でガムを買った何百人もの探索者の命を、無音の即死トラップから救っていたのである!


「……それだけではありませんわ」


 首席査定官のヴェロニカが、手元の報告書をめくりながら震える声で付け加えた。


「今朝、第32層と第34層の北側ルートに入ったC級パーティー二組も、同じ『甘い桃の匂い』に遭遇したそうなのですが……彼らは今朝、ギルド前の屋台でミアさんたちから『苦いハッカ樹皮のガム』を買って噛みながら潜っていたおかげで、誰一人として眠気に襲われず、すぐに異常に気づいて全員無傷で帰還したそうです! もしヴァルハイト室長が昨日のうちにレシピを公開していなければ、今頃さらに十名以上の犠牲者が出ていたところですわ……!」


「わ、私たちの屋台のガムが、中層の先輩たちの命を救ったんですか……!?」


 ミアが両手で口元を覆い、カイとピノも誇らしさと安堵で胸を熱くした。

 するとクラリス教授が、机の上の『蒸気火傷の氷竜の鱗』と、ガレスたちが持ってきた『蒼い星砂』、そしてカイたちの『赤い鉄喰い苔』を一つのトレイに集めて立ち上がった。


「室長、この三つのサンプルと第27層の壁画の拓本、今から私がノエルちゃんの機材を借りて、魔力波長と成分の完全照合を行うわ! 一時間ほど集中して解析したいから、あんたたちは少し別の場所で待っていてちょうだい!」


「分かった、よろしく頼むよクラリス教授。……じゃあ俺たちはその間に、ひとつ上の地下2階にある『屋内訓練場』へでも行こうか。ちょうどセリアも帰ってきたことだし、カイくんたち『灯火』とガレスくんたち『白銀の轍』がどれだけ基礎を身につけたか、一番弟子のセリアに軽く胸を貸してもらうといい」


「えっ!? あ、あの大陸最強の《氷華の剣姫》セリア様に、直接稽古をつけていただけるんですか!?」

「ええ、望むところよ! 先生が直接指導された可愛い弟弟子・妹弟子たちの『基礎』がどれほどのものか、この一番弟子がしっかり確かめてあげるわ!」


 こうして、クラリスとノエルが資料室で最終解析を行う間、地下2階の訓練場にて、初級・中級・S級の三世代が一堂に会する前代未聞の『合同模擬戦』が始まろうとしていた。

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