第027話:床ハッチの匂いと、漬物石の秘密
「……さて、セリア。せっかく第55層の氷嵐竜のヒレ肉を持ってきてくれたんだ、まずは温かいお茶でも飲んで一息つきなさい。みんなも立ったままじゃ疲れるだろう、座ってくれ」
ロウがまるで自宅の居間に親戚が集まったかのような自然体で声をかけると、ようやく硬直から解けたヴェロニカやガレス、カイたちは、「は、はいっ!」とぎこちない動きでベンチや丸椅子へと腰を下ろした。
だが、ロウのすぐ隣の丸椅子をちゃっかり確保したS級剣姫セリアだけは、十年間会えなかった師匠の横にいる他の面々が気になって仕方がない様子だった。
彼女はロウからブリキのマグカップに入った温かい薬草茶を受け取ると、すぐさま『氷の女帝』の鋭い目つきに戻り、ノエルやカイ、ガレスたちをジロリと値踏みするように見渡した。
「……先生。こちらの皆さんは、いったいどなたですか? まさか先生の優しさに付け込んで、雑用を押し付けているギルドの役人ではありませんわよね? もしそうなら、私が今からギルド本部の1階から3階までを永久凍土に変えてまいりますけれど」
「ひゃあっ!? ち、違いますセリア様っ! 私は補佐官のノエル・クラウゼンです! 室長と一緒に『実戦・迷宮サバイバル術』のカメラ撮影と字幕編集をお手伝いしているんです!」
「お、俺たちはE級パーティー『灯火』のカイと、ピノと、ミアです! ロウ先生の『第1講』から『第3講』に命を救われて、毎日勉強させてもらっています!」
「我々はB級『白銀の轍』のガレス、エレン、ボルクだ。セリア団長……貴殿がロウ先生の一番弟子であられたとは知らず、先ほどは剣を構えるような真似をして申し訳ない。我々も昨日から、先生の基礎をご指導いただいている門下生だ」
カイとガレスが緊張しながら自己紹介すると、セリアの蒼い瞳がパッと明るく輝いた。
「先生のアーカイブの価値が分かる人たち=味方」と認識した瞬間、彼女の態度はまたしてもコロリと軟化したのである。
「まあ! あなたたちも先生の『基礎』の素晴らしさに気づいたのね! ……ええ、いいわ。カイくんにピノちゃんにミアちゃん、それに『白銀の轍』の三人も、今日から私の可愛い【弟弟子・妹弟子】として認めてあげるわ! ただし、一番弟子は十年前からずっとこの私、セリア・アークライトよ! 先生のお茶を淹れる係と、肩を揉む係の優先権は譲らないからね!」
「「「は、ははぁっ……!(S級の剣姫様が弟弟子マウントを取ってきたぞ……!)」」」
ガレスとボルクが冷や汗を拭う中、ソファでジャーキーをかじっていたハイエルフのクラリス教授が、面白そうにクスクスと笑った。
「ふふっ、噂には聞いていたけれど、『蒼穹の旅団』のクールな女帝様がこれほど師匠思いの可愛いお嬢さんだったとはね。……それにしてもヴァルハイト室長、あなたはいったい何人の規格外を育ててきたのかしら? 大陸最強のS級剣姫までが、あなたの『無天賦の基礎』で育った一番弟子だなんて、王都のスキル至上主義者たちが聞いたら泡を吹いて倒れるわよ」
「俺が育てたんじゃないさ。セリアが吹雪の中でも毎日欠かさず素振りと呼吸を続けたから、自分の力でそこへ届いただけだよ。……レオンハルトやザックの奴も、どこかで元気にやっているといいがな」
ロウが懐かしそうに他の教え子(二番弟子・三番弟子)の名前を呟くと、セリアは「むぅっ、レオンハルトの奴は王都の宮廷魔導師になって偉そうにしていますわ! あいつより私の方が先生にたくさん褒めていただいたんですから!」と頬を膨らませた。
「ははは、相変わらず負けず嫌いだな。……よし、せっかくセリアが第55層から鮮度抜群の『氷嵐竜のヒレ肉』を持ってきてくれたんだ。本題に入る前に、そこの卓上魔導コンロで軽く炙って、みんなで一切れずつご馳走になろうじゃないか」
「わあっ、先生の塩苔ステーキですかっ!? やったぁ!!」
セリアがパァッと顔を輝かせる横で、ロウは手慣れた手つきで腰の解体小刀を抜き、氷嵐竜の淡い桜色をした最高級ヒレ肉(市場価格なら一切れで金貨一枚は下らない代物)を、繊維に対して垂直にスッ、スッと均等な厚さに切り分けていった。
その包丁さばきもまた、手首を半ミリ引く『無音の引き斬り』そのものであり、肉の細胞を一つも潰していないため、切り口からドリップ(肉汁)が一滴も漏れない。
ロウは熱した鉄板の上に第2層産の乾燥塩苔と刻んだ野ハッカをパラリと散らし、その上でヒレ肉の表面だけを「ジュワッ……!」と香ばしく焼き上げると、小皿に取り分けてセリアを筆頭にカイやガレス、クラリスたち全員へ配った。
「ほら、熱いうちにどうぞ。氷嵐竜の肉は魔力密度が高いから、レアのまま野ハッカと一緒に噛むと、疲労回復薬の三倍早く筋肉の疲れが抜けるぞ」
「んんっ〜!! これです、このお味ですわ先生っ! 外側は塩苔の旨味でカリッと香ばしいのに、噛んだ瞬間に甘い肉汁がジュワッと溶けて、身体の芯からポカポカしてきます……!」
「う、うまぁぁいっ!! なんだこのお肉、今まで食べたどんなお肉より柔らかくて力が湧いてくるぞ!」
カイやピノが目を丸くして感動し、ガンツ親方やボルクまでが「S級魔獣のヒレ肉をこんな極上の野営メシにしちまうなんて、大将の料理の腕は王宮料理長以上だぜ……」と唸った。
そんな温かく賑やかな食事の合間だった。
ロウのすぐ隣の椅子に座って幸せそうにヒレ肉を頬張っていたセリアが、ふとマグカップを傾けながら視線を下へ落とし――ロウの執務机の真下にある『大きな漬物石が乗せられた、錆びついた丸い鉄ハッチ』に目を留めた。
「……あら? 先生」
セリアの美しい眉が、ピクリと寄った。
浅層や中層の探索者には分からなかったが、深層第50層から第80層付近の未踏領域にまで足を踏み入れた経験を持つS級冒険者の嗅覚と肌感覚が、その錆びた床ハッチの隙間から漏れている「微かな異質さ」を敏感に捉えたのである。
「先生……このお机の下にある丸い鉄ハッチ、いったいどこへ繋がっているのですか? なんだか、このハッチの隙間から……私たちが一昨日に偵察へ行った『深層第80層の奈落断層』とまったく同じ、重くて濃密な古代魔瘴気の匂いがほんの少しだけ漂ってくる気がするのですが……」
セリアのその言葉に、部屋の中にいたノエルとエレン、そしてボルクがハッとして机の下を見つめた。
昨日、ボルクが「この資料室の壁は、三百年前の神話時代に使われていた『対深層・最終防衛隔壁』と同じ石組みだ」と指摘したばかりだったからだ。
なぜギルド地下3階にすぎないこの部屋の床ハッチの下から、地下何千メートルもの底にあるはずの『深層第80層の匂い』がするのか?
だが、ロウは表情ひとつ変えず、手元の珈琲を一口すすりながら、靴底の踵で床ハッチの上の漬物石を「コツン」と軽く踏み直した。
「ああ、これかい? 古い排水管が下水道に繋がっているらしくてな、ときどき下からドブネズミが這い上がってこようとするから、こうして漬物石を乗せて重しにしているだけだよ」
ロウが踵で軽くハッチを踏んだ瞬間――
床ハッチの遥か数千メートル下で蠢いていた「ドブネズミ」どころではない神話級の奈落の気配が、ロウの足裏から放たれた無言の威圧(殺気)に恐れをなして『ビクッ!』と縮み上がり、再び完全な無音へと沈み込んだ。
「まあ、ネズミ除けでしたのね! さすが先生ですわ、こうしていつもお机の上から睨みを利かせてくださっているから、このお部屋はこんなに空気が澄んでいて快適なのですわね!」
師匠の言うことなら何でも100%信じるセリアがにっこりと頷く横で、クラリス教授とヴェロニカ査定官だけは(……今の絶対、ただのネズミじゃなかったわよね……?)と無言で視線を交わした。
そしてセリアは、居住まいを正して真剣な『S級クラン団長』の顔へと戻ると、持参した包みを机の上に広げた。
「――それで先生。実は今日、予定を繰り上げて第50層から地上へ急ぎ戻ってまいりましたのは、先生にお会いしたかったからだけではございません。深層と中層で今、どうしても先生とクラリス教授に見ていただきたい『二つの重大な異常』が起きているのです」




