第023話:深層第50層・ベースキャンプに届いた1本の記録水晶
大迷宮『アーク・バベル』第50層――深層領域の入り口にして、最前線の中継拠点『白銀氷河のベースキャンプ』。
そこは、浅層や中層とは比較にならない過酷な極寒の世界だった。
天井には青白い氷柱が無数に垂れ下がり、空気は肺が凍りつくほど冷たく乾燥している。本来なら地下深くであるはずなのに、なぜか吹き抜けるブリザードの風からは、標高五千メートルを超える高山帯のような希薄な酸素の匂いがしていた。
そのベースキャンプの中央に張られた、白と蒼の紋章旗が翻る大型の指揮用天幕。
ここは、大陸最強と謳われるS級クラン『蒼穹の旅団』の前線司令部である。
「――以上が、本日第55層の氷結渓谷で討伐した『氷嵐竜』の報告です、セリア団長」
「ご苦労だったわね。負傷者はいない?」
天幕の奥の簡易机に座り、氷のように澄み切った蒼い瞳で報告書に目を通していたのは、腰まで届く美しいプラチナブロンドのストレートヘアを持つ二十三歳の女性騎士――『氷華の剣姫』の二つ名を持つS級冒険者、セリア・アークライトだった。
白と蒼を基調とした凛々しい騎士礼装コートに身を包み、その美貌は絵画のように完璧だったが、纏う空気は周囲の氷河よりも冷徹で近寄りがたい。
だが、よく見れば彼女の華麗な礼装ブーツの靴紐は、貴族風の飾り結びではなく、泥臭いほど実用的な『絶対に解けない二重猟師結び』で固く結ばれており、腰の聖剣のすぐ横には、なぜか『使い込まれて角が丸くなった、古い木刀の柄だけの木片』が大切そうにお守りとして吊るされていた。
「はっ、団長が先陣を切って一太刀で首を落とされたため、我が隊の負傷者はゼロです! ……ただ、セリア団長。今日討伐した氷嵐竜の死骸に、ひとつだけ妙な点がありまして」
副官のA級騎士が、一枚の巨大な蒼白い竜の鱗を机の上に置いた。
「この鱗を見てください。氷嵐竜の腹部の鱗なのですが……なぜか表面が赤黒く爛れています。衛生班の治癒師が調べたところ、これは氷属性の傷ではなく、摂氏百度を超える『高圧・高温の水蒸気』を真下から吹き付けられたことによる【蒸気火傷】の跡だと言うのです」
「……第55層の万年雪の渓谷で、高温の蒸気火傷?」
セリアは美しい眉をわずかにひそめ、その火傷跡の残る氷竜の鱗を指先でなぞった。
「確かに変ね。それとここ一週間、第40層から第48層の中層下部で、他クランの探索者が『外傷もないのに、まるで甘い夢でも見ているような笑顔のまま眠るように全滅する』という原因不明の突然死が三件も報告されているわ。……迷宮の深層で、何かが狂い始めているのかもしれないわね」
セリアが厳しい表情で考え込んでいた、その時だった。
天幕の外から「失礼します! 地上からの定期補給部隊が到着しました!」という元気な声とともに、補給係の若手団員たちが木箱を担いで入ってきた。
「団長! 地上から食料と整備部品、それから……ギルド本部のヴェロニカ首席査定官からの『特級回覧指定』として、奇妙な魔導記録水晶が五本と、乾燥肉や炭袋のサンプルが届いています!」
「ヴェロニカ査定官から? あのケチで有名な『氷の天秤』が、深層遠征中の私たちにわざわざ荷物を送ってくるなんて珍しいわね。……何が入っているの?」
「それが、なんでも三日前からギルド地下3階の『安全講習・映像資料室』という部署で公開された初心者向けの教育アーカイブだそうで……タイトルは『実戦・迷宮サバイバル術 第1講〜第5講』と書いてあります。補給部隊の連中の話では、今地上の迷宮都市は、F級の新人からB級の『白銀の轍』、果ては学術院のクラリス教授や鍛冶屋のガンツ親方まで、このアーカイブの話題で持ちきりなんだとか!」
「ふぅん……? 初心者向けの安全講習で、あのガレスやガンツ親方までが大騒ぎ?」
セリアは興味なさそうに肩をすくめた。
彼女にとって、世間の探索者たちがもてはやす「高ランクのスキル教本」や「王都の剣術指南」ほど退屈なものはなかったからだ。
なぜならセリア自身、天賦のレアスキル《氷帝姫の剣》を保有してはいるものの、「スキルなんて大味で隙ができるから嫌いよ」と公言しており、本当に強い敵と戦う時はスキルを一切使わず、十年前、まだ十二歳の落ちこぼれだった頃に北部辺境の小さな救難訓練所で『ある無名の先生』から徹底的に叩き込まれた【純粋な基礎剣術】だけで大陸最強のS級まで登り詰めたからである。
セリアはふと、自分の左腰に吊るされた『角の丸くなった古い木刀の柄』に白手袋の指先を触れさせた。
十年前、膨大すぎる氷属性の魔力を持って生まれたせいで自分の身体を凍傷させてしまい、実家の貴族家から「呪われた厄介者」として北の辺境へ追放された幼いセリア。
吹雪の中で泣きながら木刀を振り回していた彼女の前に現れ、温かい薬草茶を淹れてくれたのが、あの左目に傷のある優しい教官だった。
『――いいかい、セリア。君の魔力が暴走するのは、肩で浅い息をして、力が指先に引っかかっているからだ。まずは靴紐をこの二重猟師結びで締め直しなさい。そして一で吸い、二で沈み、三で手首を半ミリ引いてごらん。基礎さえ固まれば、君の氷は誰かを傷つける呪いじゃなく、仲間を守る一番綺麗な盾になる』
二年間、来る日も来る日も頭を撫でながら基礎だけを教えてくれ、セリアが十四歳で訓練所を卒業する朝、折れた練習用木刀の柄をお守りに削って残し、どこか別の任地へと静かに去ってしまった初恋の師匠。
セリアがS級クラン『蒼穹の旅団』を立ち上げ、誰よりも早く深層第50層まで潜り続けていたのも、すべては「大陸一番の剣士になれば、いつかあの先生に私の名前が届いて、もう一度頭を撫でてもらえるかもしれない」という、ただ一つの切実な願いのためだった。
「まあいいわ。どうせ吹雪が止むまであと一時間は待機よ。その一番新しい『第5講』とかいう記録水晶を、そこの再生盤にかけてみなさい。もし王都の役人が作ったようなくだらないスキル自慢の映像だったら、一分で氷漬けにしてやるわ」
「は、はいっ! では『第5講:暗闇での音響索敵と、野営の火の組み方』を再生します!」
補給係の団員が魔導水晶をセットし、天幕の中央に立体映像が浮かび上がった。
セリアは足を組み、退屈そうに頬杖をついたまま、画面の端に視線を向けた。
――その一秒後だった。
画面の中で、くたびれた灰色の外套を着た一人の男が、焚き火の前にしゃがみ込み、乾燥した小枝を『三角形の井桁』に組んで空気の通り道を作りながら、低く穏やかなバリトンの声でこう語り始めたのである。
『――いいかい。野営の火を組む時は、太い薪をいきなり重ねてはいけない。真ん中にこうして風を通す小さな三角形の窓を作ってやるんだ。呼吸と同じで、空気が通る道さえ作ってやれば、湿った枝でも煙を出さずに最後まで綺麗に燃えてくれる』
そして男は、枝を削っていた小刀を手首を半ミリ返す独特の角度で回し――「チャリン」と澄み切った音を立てて、腰の鞘へと収めた。
パキィッ!!
セリアが持っていた紅茶のティーカップが、彼女自身の無意識に放った魔力の震えで真っ二つに凍りつき、床へ落ちて砕け散った。
「だ、団長っ!? どうされましたか!?」
副官たちが驚いて振り返る。
そこには、普段は『絶対零度の女帝』と恐れられるセリア・アークライトが、椅子から弾かれたように立ち上がり、画面の中の灰色の外套の男を見つめたまま、蒼い瞳からポロポロと大粒の涙をこぼしている姿があった。
「……先生……っ。ロウ、先生……っ!!」
十年間、夢の中でさえ忘れなかった声。小枝を三角形に組む指先の癖。そして、0.2秒の淀みもない小刀の納刀音。
見間違えるはずがなかった。世界中を探し続けていた最愛の師匠が、よりにもよって自分たちの本拠地である迷宮都市の『地下3階の資料室』にいたのだ!




