第020話:神棚の『片刃が欠けた短剣』と、15年前の記憶
「……おい、大将。その腰に下げてる、中身が空っぽの古い黒革の短剣鞘……あんた、それをどこで手に入れた?」
ガンツ親方が掠れた声で尋ねると、ロウは自分の左腰に吊るされた古い革鞘を優しく撫で、少しだけ遠い目をして微笑んだ。
「ああ、これかい? もう十五年も前になるかな。若い頃に知り合った腕のいいドワーフの鍛冶屋に誂えてもらった大事な鞘なんだが、中身の短剣をちょっと深い穴の底に落としてきてしまってね。……鞘だけでも馴染んでいるから、こうして腰に下げているんだよ」
「……っ、そうか。……深い穴の底に、な……」
ガンツ親方はそれ以上は何も聞かず、太い拳をギュッと握りしめて「……悪かったな、妙なことを聞いた。明日までに消音金具の試作品を打って持ってくるぜ!」と背を向け、足早に資料室を出て行った。
◇
その夜、迷宮都市の北鍛冶街にある『ガンツ武具工房』。
弟子たちを全員帰した後の静まり返った鍛冶場で、ガンツ親方は赤々と燃える炉の火の前に一人立ち、工房の一番高い場所にある『黒鉄の神棚』を見上げていた。
そこには、桐の箱に納められ、毎日欠かさず油を塗って清められ続けてきた『一振りの古い無銘の短剣』が祀られていた。
ガンツ親方は踏み台に乗ってその桐箱を両手で恭しく下ろし、蓋を開けた。
中に入っていたのは、刃渡り二十五センチほどの、飾り気のない実用一点張りの黒鋼の短剣だった。
だが――その分厚い片刃の中央には、何か途方もない硬度の怪物か岩盤を受け止めたかのように、刃の半分近くまで達する『深く激しい欠け傷』が刻まれていた。そして、その短剣には『鞘』がなかったのである。
「……間違えようがねぇ。今日、あのロウ・ヴァルハイトの腰に下がっていた黒革の鞘は、二十年前にまだ駆け出しの鍛冶屋だった俺が、この短剣と一対で作った鞘そのものだ……」
ガンツ親方はごつごつした指先で、その短剣の深く欠けた刀身をそっと撫でた。
二十年前、まだ自分の工房を持ったばかりで客もいなかった若き日のガンツの店をふらりと訪れ、「派手な魔力付与はいらない。暗い穴の底で、ロープを切り、薬草を刻み、そして最後の瞬間に仲間の盾になれる頑丈な黒鋼の短剣を一本打ってくれ」と銀貨を置いていった、まだ二十代だった頃の無口な救難兵。
この刀身に残る深い欠け傷も、ただ力任せにぶつけて折れたのではない。深層第70層の神話級魔獣の顎か、あるいは崩落する何十トンもの天井岩の衝撃を、今日見せた『3ミリの傾斜と半ミリの引き』によって極限まで受け流し、ほんの一点に集約させたからこそ、刀身が完全に折れずに持ちこたえたという「超絶技巧の痕跡」だったのだ。
ガンツ親方の目尻から、熱い雫が一筋こぼれ落ち、白髪交じりの髭を濡らした。
今から十五年前――迷宮都市の歴史上最大の悲劇と呼ばれる『第7次深層救難作戦』。
当時、ガンツ親方のたった一人の息子(ボルクの従兄にあたる若いドワーフの斥候)は、王都の精鋭たちとともに深層第70層付近の調査隊に参加し、突発的な大崩落と深層魔獣の暴走に巻き込まれて生き埋めになった。
ギルド上層部が「二次遭難の危険が大きすぎる」として救助隊の派遣を打ち切り、ガンツ親方が絶望して迷宮の入り口で泣き叫んでいたその夜。
命令を無視して、ただ一人、麻ロープの束と一振りの短剣だけを携えて暗闇の奈落へと飛び込んでいった『灰色の外套の救難教官』がいた。
三日後の朝。
地上へ続く昇降機が奇跡的に動き、その中に、ガンツの息子やガレスの兄を含む七名の生存者が、丁寧に応急処置を施された状態で乗せられて帰還してきた。
そして、意識を失っていたガンツの息子の胸の上には、崩落してくる天井岩と深層魔獣の牙を最後の瞬間まで食い止めてリフトの扉を閉めたあの救難兵の――『鞘のない、片刃が深く欠けたこの短剣』だけが、お守りのように残されていたのである。
『親父……俺たちを助けてくれたあの灰色の救難兵のお方は、俺たちをリフトに乗せたあと、追ってきた深層の化け物どもの群れを引きつけるために、鞘のない短剣を俺に預けて、一人で暗闇の向こうへ消えていったんだ……! しかも俺たちの傷口には、毒リンパを抜いた温かい干し肉と薬草が貼られてて、そのおかげで全員失血死せずに済んだんだよ……!』
一命を取り留めた息子(現在は辺境の鉱山街で鍛冶師として元気に暮らしている)からそう聞かされて以来、ガンツ親方は十五年間、毎日この短剣を神棚に祀り、「もし万が一にもあのお方が生きておられたら、どんな名刀にも負けない最高の一振りに打ち直してお返しするんだ」と心に誓い続けてきたのだ。
「……生きて、おられたのか……息子の命を救ってくれたあのお方が、王都の連中に記録まで消されながら、名前も功績も全部隠して、あんな地下の小さな部屋で、また若い連中が死なねぇように一から手を取って教えておられたのかよ……!!」
頑固親方は、誰もいない鍛冶場で、声を殺して子どものように嗚咽した。
なぜあのお方が名前を伏せているのかは分からない。だが、今日見たあの『手首を半ミリ引く神域の刃筋』なら、たとえ片刃が欠けた短剣一本であっても、十五年前の奈落の底から生還できたことに何の不思議もなかった。
「……よし。大将が自分から名乗らねぇなら、俺も今はまだ黙っておいてやるぜ。だがな、俺の鍛冶師としての残りの人生すべてを賭けて、この欠けた短剣を――あんたの腰のあの古い黒革の鞘に再び収まる日まで、深層の星鉄を鍛え合わせて世界一の一振りに甦らせておいてやるからな……!!」
ガンツ親方は涙を袖で荒々しく拭うと、炉に最高級の魔炭をくべ、さらにカイやボルクたちのための「45度打撃専用の石突スパイク」や「3ミリ傾斜盾の量産型」の図面を広げ、十五年ぶりの情熱に満ちた槌音を夜の工房に高らかに響かせ始めた。
◇
そして同じ時刻、地下3階の『安全講習・映像資料室』。
ガンツ親方が帰った後の静かな机の上には、先ほどガレスたちが第24層の逆走する重甲殻虫の胃袋から持ち帰った『まだ生温かい熱を帯びた、蒼い星砂』が小皿に広げられていた。
「……信じられないわね、室長」
ルーペでその蒼い結晶砂を覗き込んでいたクラリス教授が、ゴクリと唾を飲み込んで顔を上げた。
「この『蒼い星砂』、間違いなく深層第60層の断層にあるものよ。しかも、虫が第60層から歩いて第24層まで登ってきたんじゃないわ。砂の表面に『高圧の水蒸気気流によって一気に吹き上げられた摩擦痕』が残っている……つまり、第60層と第24層、そして昨日カイくんたちが赤い苔を見つけた第3層の北側が、何か目に見えない『縦の通り道』で繋がっていて、下から熱い蒸気と星砂が噴き上がってきている可能性があるわ!」
「……縦の通り道、か」
ロウは壁の古地図に視線を向け、昨日『×』印をつけた第3層北側の真下に当たる『第24層北側』の位置に、白チョークで二つ目の『×』印を静かに書き加えた。
二つの点は、地図の上で不気味なほど真っ直ぐな「垂直の線」を描き始めていたのである。
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